この世のよすが

 突如とつじょの騒音。神経を逆撫でる他人の気配に、切田くん達はビクリとする。――ドスドスという乱暴な足音、酔った男の粗野そやな笑い。それに付き合う女の嬌声きょうせい


 すぐ隣の部屋のドアが、バタンと音を立てる。ベッドがきしんだ。……はしゃぎながら否定してみせる女の声。ヘラヘラした酔漢の、何かをうながす声。


 安宿の薄い壁は、その様子をはっきりと伝えてきた。「……」東堂さんが身を固くするのがわかった。手のひらを握る力がと強くなる。



(…これは本当に良くない…)



 うつむいてしまった彼女の横で、切田くんは本当に頭が痛い。


よなあ。女給が客をとったのか、お仕事の女性を連れ込んだのか…)


(…この状況で、はたして僕らは眠れるのだろうか)想像してみる。超気まずい。(無理ゲーすぎる!僕一人ならともかくさあ…)


(酒場の外に出るべきか?…いや、行きたい場所なんてないし、行ける場所もない。周囲の治安だってお察しなんだぞ。…だったら行為が終わるまで、じっとここで耐えて待つべきなの?)…何だか胃の奥までシクシク痛くなってきた。


(そりゃあ、『精神力回復』があれば我慢は効くだろうけど。…東堂さんにもそれをいるのはちょっと…)



(……そうだ。僕にいい考えがある)



 冴えた頭の切田くんは、この状況をなんとかするアイディアを瞬時に導き出す。これが、彼こそが『賢者』たるゆえんであろう。


(やはり覆面だな)


(覆面が隣の音を軽減してくれるに違いない)


(不快な音というものは直接でなければ、は激減する。たとえば、音のする側だけ耳を塞ぐとか)


(なので僕は水袋を、東堂さんには…そうだな、食料の麻袋をかぶってもらおうか)…ビジュアルが強い。(あれならば、呼吸を邪魔することはないだろう)


(そして僕は今度こそ)


(水袋に呼吸孔を開けるのだ)


 天才だ。切田くんは自らが導き出した最善のプランに、心の底で大きく深くうなずいた。


(よし)提案しようと口を開きかける。


 さえぎるように、彼女はポツリと口を開いた。


「……ねえ、切田くん」


「しよっか」


「私たちも」



 ◇



「……」


「……」



 切田くんは、開けた口をつぐんだ。

 東堂さんも黙っていた。


 沈黙に耐えきれず、おずおずと尋ねる。


「なにをです」


「エッチ」


 東堂さんは真剣だ。……周囲の空間がゆがむような錯覚を感じる。


「…からかわないでくださいよ」



 いまだ手のひらを強く握ったままの、ふたつ年上の麗しき先輩。……彼女は少し、傷ついた声で問う。「…私とじゃ、嫌?」



「嫌なわけないですよ」


 切田くんは慌てて(落ち着いて)即答する。


「だけど、ヤケになっちゃいけませんよ東堂さん。好きでもない相手にそんな事を言っちゃいけません。今日は本当に大変な一日でしたし、きっと疲れて混乱しているんです」


「まだまだ状況は始まったばかりです。先は長いんです。自分を大切にしてください」



 ◇



 ふたりはしばし黙っていた。――隣の部屋から聞こえてくる笑いと嬌声きょうせいが、徐々に真剣味を帯びてくるのがわかった。


 東堂さんが口を開いた。


「切田くんって、正論大好きよね」


「……」(…うぐぅっ!)


 切田くんは内心傷つく。心臓を貫かれて握りつぶされたと感じるほどにだ。(…うぐご、死、しぬぅ…)それでも『精神力回復』が、彼の答えに険を呼ぶことはない。


「……そりゃ、正論を言って得意になってしまうことはありますよ」


「でも本当は、筋を通したいと思っているだけなんです。正論なんてこれっぽっちも好きじゃありませんよ」


 ぼそぼそと答える少年に対し、――彼女は前のめりに、目の合わない彼の顔をじっと見つめた。


「そう?じゃあ正論ではなく筋道を立てた話をしましょう。なぜ私がこんな事を言いだしたのか」


「聞いてくれる?」


 切田くんは横目でうかがう。そして気後れして目をそらし、答えた。


「はい」



 沈黙をはさみ、東堂さんは口を開く。



「ひとつめ。切田くんは、私を安心させてくれる」


「…それは」


「『スキル』の力、でしょう?私はそれでも構わないのだけれど」


「そんなの気休めですよ。何も解決していない」


「そうかもしれないわ。それでも私は救われた。あなたはでも私を安心させてくれているの」


 一つ一つを確認する様に、彼女は淡々と思いを並べる。


「普通なら、こんな状況で安心できる人なんて居はしない。間違いなく私は、切田くんがいなければ、死ぬかもっとひどいことになっていたわ」


「…私はここでは、一人では何も出来ない。きみが混乱する私を救ってくれて、…助けてくれて、…落ち着けてくれて、この場所まで導いてくれたの」


「私にはきみが、切田くんが必要なのよ」


「そこまでは良い?」


「…ええ。まあ」


「うん」



 東堂さんは少年と同様に、彼から目をそらして正面を向いた。



「ふたつめ」




「でも、切田くんは私のことを必要としていない」




 切田くんは即答した。


「そんなことはありませんよ」


 横の彼女は少し黙り込み、同じ口調で淡々と続ける。


「…切田くんは親切だから一緒にいてくれているだけ。同じ被害に巻き込まれた女の子が、困っているからという理由で」


「でもきみは、私が欲しいとは思っていない」


「…私がここで別れると言ったら、きみは決して引き止めることはない」



 握り合う手を離した。



 温かさの喪失にすこし狼狽ろうばいする。空になった手の行きどころがわからず、指を彷徨さまよわせる。


 東堂さんは立ち上がって、部屋のドアへとコツコツと歩んでいった。

 ……まるで、ここから出ていこうとするかのように。


 ドアの前で立ち止まり、振り返って問いかける。「そうよね?」


「……」


「きみは私と違って、ひとりでもやっていける」


「…そんなことは」


「だから私は本当なら、きみにすがりついてでも懇願こんがんしたい」



「…見捨てないで。私、何でもするから」



 芝居がかった声は、悲痛な響きをともなわない。あたかも台本を淡々と読み合わせているかの様に。


「…そんなの、逆に受け入れられませんよ」


 その答えにまた、きびすを返し、背を向ける。


「そうね。きみはそういう人」


 忙しくくるりと向き直って、彼女は再び台本を読み始めた。


「だから、仲良くなりましょう。私がきみに尽くすから、見返りに私を助けてとお願いするのではなく」


えにしを深めましょう。情を交わし合いましょう」


「お互いが自然と助け合えるなにかがそこに生まれるまで」


「何度も何度もエッチしましょう」


 演技の区切りであるかのように深呼吸する。そして、不安そうに問いかけた。


「…それは嫌?切田くん」


「…だから嫌じゃありませんよ。ただ」


「最後にみっつめ。私にとって一番大事なこと」



 そこで言いよどみ、逡巡しゅんじゅんして、目を伏せる。――両手を胸に当てて、抑えつけるみたいに浅い呼吸で息を整える。



 ふたつの灯りに照らされて、整った顔が紅潮しているのがわかった。



 ささやくように、彼女は言った。



「……私も……」



「…嫌じゃないよ…」



「…切田くんとするの…」



 ドアのがねが、ゆっくりと掛かる。ガチャリという音が響いた。



 ◇



 身をよじって腰に手を伸ばし、スカートのホックを外して、ジッパーも下ろす。……衣擦きぬずれの音。スカートは太ももをつたって、床にファサリと落ちた。


 伝線だらけのストッキングに両指を掛け、躰を折り曲げてずり下げる。ブラウスの裾野すそのから、可憐な白いショーツがちらちら垣間見かいまみえる。


 革のローファーを片方脱ぎ、スラリとした曲線を、ボロボロのストッキングを手繰たぐって引き抜く。白い素足にローファーを突っかけるも、……諦めて、そのまま床についた。



 そしてかがみ(ブラウスに細い腰のラインが浮き出る)、もう片方も、ローファーとストッキングから解き放つ。



 ゆらり、と、彼女は振り向いた。


 ブラウスのすその影、なまめかしい生足を優雅に動かしながら、年上の少女は目の前に歩み寄った。



 もう迷いはない。



 切田くんは体をこわばらせたまま、脱衣の様子をじっと見ていた。


 ぺたり、ぺたりと歩み寄ってくる、脱ぎ差しの少女。

 いつしか彼の前には、ブラウスにつつまれたおなかが位置していた。



 息遣いがはっきりと聞こえる。空気を挟んで彼女の体温も。



 ブラウスの胸に、両指をかける。

 ボタンを上から、一つずつ外していった。

 ゆっくり、ゆっくりと。


 やがて年相応よりもくびれたおなかが、小ぶりながらも主張するふくらみをつつむ、白い可憐なブラジャーが、


 影から存在を誇示している白いショーツが、目の前にあらわになった。



 顔を上げると、上気した、輝かんばかりの造形が近づいてくる。

 ――長い睫毛まつげつやまでが、はっきりと見える距離まで。



 股ぐらに割り込むように、少女はベッドに両膝をついた。



 ベットがきしんだ。



 近い距離で見つめ合い、固い笑顔を浮かべる。


 白い躰をなめらかにくねらせて、ブラウスから両腕を抜く。


 両袖の傷つくブラウスが、床にはらりと落ちる。



 今や少女がまとうものは、ブラとショーツだけだ。


 白くなまめかしい躰を、下着だけに包んだ姿だ。



「ふふ」



 見つめ合う少女が、照れ隠しみたいに笑った。



 たおやかな手が、で、首元へと伸びてくる。




 ……壁をへだてた隣の部屋より聞こえてくる喘ぎ声は、今や断続的かつリズミカルなものだ。それに合わせてベッドのきしむ音も聞こえてくる。




 学生服のボタンを、ゆっくりと外す。外し終えると、少年の変な柄Tシャツの奥に両手を這わせて、そっと、落ち着きどころを探す。



 そして伏せた目を上げ、彼の瞳をじっと覗き込んだ。



 夜の個室に浮かび上がる、あわい曲線。――灯りを背負う黒洞の瞳が、獣の目のようにきらめく。


 はぁっ…と、切なげな、熱い吐息をもらす。


 胸板に掛かる、両手の重み。


 手のひらより、高い熱と早い鼓動が伝わってくる。



「切田くん」



 彼女は言った。



「さあ、よすがをつむぎましょう」



 東堂さんはそのまま、切田くんへとしなだれかかった。そして、ベッドの上に彼を押し倒した。

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