大河

そうしてやってきた8月5日の朝10時

僕はパブのカウンター席にジッと座りながら、何も言わずにBBCニュースの内容を右から左へ、左から右へと聞き流していた。

決して待ち合わせの時間には遅れないと余裕をぶっこいているわけではなく、むしろその逆で、僕はつい先程までは店の中をうろうろしていたし、何度だって鏡の前で身だしなみを確認をしては、一階と二階を行ったり来たりして、無言で家の中をほつき歩いていた。

そうやって動き回っているのも疲れてしまった結果、僕は最終的にオレンジジュースを飲みながら席へと腰掛けては、BBCニュースを聞いているフリをすることになったのだ。


寝ているのか覚めているのか、いよいよ分からなくなってきた頃、突然家の外から

“パー!” という轟音が聞こえてきて、僕はその音に情けなくも身体をビクッと震わせてしまった。


(彼女が愛車を連れてやってきたんだ。)


瞬時にそう理解した僕は待ちくたびれたと言わんばかりの様子に早足で玄関へと向かい、今一度ガラスに反射した自分を見ながら髪を整えたあと、力いっぱいに重い鉄の扉を開けた。

ガッと外に出た瞬間、一昨日ほどではないものの、強い日差しが僕を突き刺し、旱暑かんしょに晒された石畳たちはジリジリと焼かれて熱を持って、僕の事をまちかまえていた。

端がボヤけながらも、見えている中心はハッキリとしているような景色に顔をしかめながら、僕はグレイスの元へと駆け足で近付く。


「ハローグレイス、凄いね、これが君の車か?」


グレイスがサングラスをしながらくつろいでいる車は、トヨタの1974年型オールズモビル デルタ88だった。

10年以上も前の車のせいもあって外の塗装は剥がれ、車内のシートカバーも好き勝手に破けている。しかし、そんな中古車丸出しな車に乗っていても、彼女は僕に誰よりも輝かしい笑顔を見せてくれた。

きっと気分はロールス・ロイスなんだろう。


「ハーイルイス!そんなに見とれないでね。この子は私の恋人なんだから。ほら、さっさと乗って、行きましょ!」

「うん、そうだね。」


首をクイッと動かす彼女にあわせて、僕は後ろから助手席へと回った。

助手席の扉を開けて座ると、思っていたよりも席と席の距離が近くて空間が狭いことに気付く。

髪をカトリーヌ・ドヌーヴのように束ねながらも、クールな雰囲気を醸し出してハンドルを握るグレイスに、僕は喉がつっかえてしまった。


僕が乗ったことを確認すると、彼女は

「リラックスして」と慣れた様子でアクセルを踏み込んだ。

車が走り出した瞬間、一体自分がどんな顔をしていたのかは分からない。緊張とワクワクに背筋を伸ばしながら、手を太ももにピッタリとくっつける以外の事は出来なかった。

もしかしたら、まったくの真顔だったかもしれない。


グレイスは僕に地図を持たせて、度々の道案内を頼んだ。といっても、ノリッジへは基本1本の道を走るだけなので、僕が道案内という道案内をしたのは、小さい町に入って分かれ道が少し増えた時だけだった。

どれだけ行っても対して大きく変わらない景色に、僕はついひとつのあくびをこぼした。


「昨日は寝たの?」

彼女が訊ねてきた。


僕は気の抜けた声で

「え?あぁ、いや、実はそんなに寝てないんだよね。」と答えた。


「勘違いしてほしくないから話すけど、本当は君と電話した後にすぐ寝ようと思ったんだ。でも、多分君にもわかると思うけど、いざ布団に入ってみると考え事が止まらなくなって眠れないときってあるだろ?」

「えぇ」

「それで、君に会うために着ていく服がダサくないかとか、万が一にでも強盗に出くわしたらとかを考えてたら飛び起きずには居られなくなって、ほんと嫌になるけど、そのまま小一時間くらい持っていくものとかを考え直してたんだ」


グレイスは僕の唐突に強盗を心配し始める姿に笑う1歩手前だったが、なんとかハンドルを握りしめて冷静さを取り戻した。


「でも、12時に寝たとしても、9時までに起きれば十分じゃない。色々考え直すにしてもそこまでの時間は要らないでしょう?それならどうして今眠そうにしてるの?」


僕はタバコに火をつけながら唸った。


「君の言う通りだよ、確かに僕はそのあとしっかり12時には寝たんだ。けど、一体どうしてか、そのあと突然朝の7時に目が覚めちゃって。君が来るのは10時だったろ?だから3時間、僕は君が来る3時間前に起きたんだ、おかしいよ、昨日の夜は日付が変わる頃に寝たのに!」


僕がばつの悪そうな顔をしながら至って真面目に話をしていると、グレイスはニヤニヤしながら肩を震わせていた。


「何?笑わないでよ」


僕が恥ずかしがってそう言ったのがとどめだったのか、彼女は話も聞かずに次第に笑い声を大きくするばかりで、今にも運転を誤ってそこら辺のビートルート畑に車を突っ込んでみせるんじゃないかという様子に、僕はすっかり困り果ててしまっていた。

彼女の笑いどころはいつになったって、よく分からないんだ。


出発から40分くらい経った頃、窓を開けて風をあおぎながら車内でピーター・ポール&マリーを聴いていると、グレイスの車はクローマー・ロード ―ノリッジの外側― へと入った。この道には大勢の住宅街が連なっていて、歩道の脇にたまに立っているならの木の木漏れ日は、僕と違って溶けてしまいそうなほど熱い太陽との共存を喜んでいるようだった。


僕らがノリッジ郊外に着いたのはだいたい11時過ぎで、街の人達はみな川を眺めていたりまたはベンチに座ったりと、高い陽光の下で日を浴びながらゆっくりとしていた。


「ねぇルイス、そろそろお腹空かない?中心部へ行く前に何か食べていきましょうよ。」


店の看板でも目撃したのか、グレイスはしっかりと前を向きながら、突如として僕に訊いてきた。

多分、グレイスは気付いていなかったと思うけど、この時の彼女の声は僕に最初から選択肢など与える気のないような少し低い声だった。

そんな彼女の声に気が回らず、断る理由もなかった僕は「ん?もちろん、いいよぉ」と、サングラス越しの目に火をつけている彼女とはまったく違うような、軽くて適当な腑抜け声を返した。


するとグレイスはすぐさま次の店の看板を見つけて、その店へ向かって一直線に車を走らせたかと思えば、マックス・ロカタンスキー顔負けの駐車技を決め込んだ。

店は小さめなバーガー屋で、看板には

「Love Thy Burger(ハンバーガーが大好き)」と、素直に書いてあり、それに対して僕は “大々的にも程があるだろう” だなんて考えてしまって、ちょっぴり1人で隠れて笑った。


彼女と一緒にバーガーを食べていると、僕らの話題はいつの間にか映画の話になっていて、グレイスは“フラッシュダンス”や“若草物語”などの、女性が輝き認められていく映画が好きだと熱く語ってくれた。


「でもやっぱり、女性が陥れられたり、酷い目にあうシーンは見ているのが辛いわ。」

「あぁ…そうだね、女性が社会に出る映画なら尚更、君が今言ったように胸くそが悪くなるような場面は多いだろうね。」


「悔しくなっちゃうわ、みんなただの人間なのに、物心がつくころには認めないことを当然とする彼らの方が“上”だと思わされてるのよ。しかも彼らは揃いも揃って現実主義者リアリストばかり、揚げ足を取るような正論のおかげで牙もむけない。」


グレイスはその流暢な口に不満げな顔でピクルスを追加注文したバーガーを頬張った。

もぐもぐと顎を使って大きなバーガーを食べまくる彼女ははたして単純なのか大人なのか、全部食べ終わり、店を出る頃には現実主義者たちへの不満そうな顔など消え失せ、美味しかった食事に分かりやすく笑みを見せていた。


その後僕たちはノリッジの中心部へ行き、夕暮れまで観光やショッピングを楽しんだ。

特に街のシンボルともいえるノリッジ大聖堂の回路は、直射日光は当たらずとも光が溢れて美しく、ただ歩いているだけでため息が出るようだった。

グレイスは大聖堂に見とれて思わず長居してしまった僕の襟をむんずと掴み、次はカラフルなショッピングへと連れていった。僕もお詫びも兼ねて彼女の買い物には好きなだけ付き合った。

服屋に行くと面白いことに、何色のワンピースだろうが、何柄のスカーフだろうが、当たり前のように似合ってしまうグレイス・シモンズという人間を見ることができ、彼女に唯一似合わない服があるとすればそれは文字Tシャツだろうというくらい、彼女は誰が見ても見目好い格好をして買い物を楽しんでいた。


すっかり午後の雰囲気になったころ、購入した服の紙袋を床に置き、人が少ないカフェのテラスで2人紅茶を飲みながら川を眺めていると、突然グレイスが今日の昼時のように閃いた感じで


「ボートに乗りましょうよ」


と、したり顔ともいえない奇妙な面持ちで提案をしてきた。

僕はすぐに返事を返すことが出来なかった。


実を言うと、僕はこの16年間、一度もボートだとかヨットだとかの代物に足を踏み入れたことがなく、おまけに濡れることも苦手で、船に乗るという行為はあまり得意ではなかった。が、やはりグレイスは今日の昼時のように、またしても選択肢を与えないような低い声でそれを言ったので、僕はどうすることも出来ず、ただ「いいよ」とだけ呟き、結局はボートへと乗り込んでしまった。


ノリッジ市内を流れるウェンサム川は、全長75kmというその広大さ故に古くからノリッジの交易の手助けをしてきた、いわば由緒ある大河だが、ノリッジが英国にとって重要な都市として扱われた時期から今日こんにちまで、文字通り気が遠くなるほどの時が経ち、おかげでウェンサム川は年寄りのような落ち着きと静粛さを備えて、今や住民の拠り所となっている。

そんなウェンサム川を西へ下るボートも、やはりどこよりも和やかな水流で、僕は船に搭乗してものの数十分のうちに

「初めてのボートがこれで良かった」と、心の中で呟いていた。


“ボートに乗ろう”と提案したグレイスも、いつの間にか瀬音に耳を傾けて、静かになっていた。

もはやこの場で彼女と何か言葉を交わす必要など無く、ただオレンジ色に変わる夕陽を共に眺め、お互いに紅くなった髪を覗いては、それについてたまに笑うくらいがちょうど良かった。


僕はボートから降りたあと、提案してくれたことに対してグレイスに礼を言った。

そしてこれが人生で初めての船だったと白状すると、彼女は声を上げて驚き

「だから了承するまでに時間がかかったのね」

と苦笑していた。

ボートに乗ったあとは少しだけ街をぶらつき、6時半を回るころに僕たちはノリッジを出発して帰路についた。

帰りの車は朝よりも騒がしくはなく、僅かに不気味な沈黙が流れていたが、それ以上に車内は充実感に溢れていて、きっと悪い雰囲気ではなかっただろう。


そうして7時をだいぶ過ぎたころ、僕は父さんの店の前で降ろしてもらい、グレイスへもう一度礼を述べてから「おやすみ」と言って、僕の初めてが沢山詰まった一日は終了した。

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