10分違う世界
「おい、ルイス、起きろ!学校遅れちまうぞ!」
次の日の朝、父さんはドアを蹴り破って、僕を布団越しにバシバシと叩き起した。
そのせいでホコリは舞うし、叩かれた背中はじんわり痛い
僕がモゾモゾしながら「う〜ん」としばらく起きるのを渋っていると、父さんはため息をつきながらいきなりどこからか曲の入ったカセットテープを持ち出してきて、勝手に僕の部屋のプレイヤーにカチッとはめた。
奴はマリリン・モンローの近くによっかかり、腕を組んで僕を見ている。
「起きないのか?」
僕は少しも父さんの顔を見ることはなく、そのまま黙っていた。
「…お前が起きない時、俺がいつもどうしてたか忘れたわけじゃないだろ?」
父さんはプレイヤーの再生ボタンを押すや否や、音量ボタンを巧みに使ってカチカチと音を上げていく
「俺が、お前のプレイヤーに俺好みの曲を入れて、お前が観念するまで流し続けるんだ。ピンク・フロイドだろうが、セックス・ピストルズだろうが。とにかくずっとな」
(もちろん、そんなことは母さんの顔よりハッキリ覚えてるさ)
僕は心の中で返事をした。母さんのことを考える時点で、僕はもう既にちょっぴり機嫌が悪かった
相変わらず父さんは目覚めを悪くするのが世界一上手いと思う。
次第に無音の部屋に音楽がかかり始めた。
テンポよく叩かれるドラムに重いベースの音が、あまりこの暑い季節には似合わない気がした。
「さぁ、いい加減起きるんだ。さもないと、俺たちのロンドンが襲われちまう!」
父さんはそう叫ぶと、お気に入りのバンド
『ザ・クラッシュ』の曲を、世界の屋根の上に響きわたらせてやると言わんばかりに大きな音で流し始めた。
「“London Calling”!遠い街のみなさまへ!宣戦布告だ!戦争が始まったぞ!」
父さんは僕の布団を思いっきりめくりあげて、プレイヤーから流れるばかでかい音に負けんとした声で歌い出した
「うわぁ!やめてよ父さん!朝からクラッシュなんて!」
怒った僕が声をはりあげても、父さんは
「子供たち、押入から出てきなさい!」
と、ふざけたように笑っている。
クソッ、全くなんて人だ。こんなのが父親だなんで、僕は生まれてくるところを間違えたんだ
僕には外を歩いている人達の
『あの家はいつもうるさいな』という話し声がよく聞こえる、これは超能力なんかじゃない。
君らも父さんの攻撃を受ければきっと分かるだろうけど、こんなの、りんごの形を想像するよりも簡単なんだから。
僕は別に大音量で音楽を流すのは構わない
ただ、僕が本当に嫌でたえられないのは、父さんの声だ。
呆れるよ、父さんは絶望的にオンチで、聞いてるこっちがムカムカしてくるような歌を堂々と披露してくるんだから。
「もう、分かった、起きるから!歌うのをやめてくれよ!」
「はぁ?何だって?」
僕は “観念した” と叫びながら起き上がると、父さんの手からプレイヤーを奪い返して曲の停止ボタンを乱暴に押した。
「ほら、僕はもう起きたから、今後一切僕の前で歌うのはやめてよね!父さんは下手くそなんだから!」
僕は父さんに向かってハッキリそう言ったあと、少し不満げな足取りで洗面所へと向かった。
父さんは僕の部屋からひょいと顔を出して喚いている
「なんだと!お前がこんなガキのころから歌ってやったのに!」
僕も洗面所から顔を出して、自分の歯をつき出しながら答えた
「だれが黄ばんだ歯の髭面の歌なんか!」
「言うじゃねぇか、お前、昔はにこにこ笑って俺の歌を聞いてたんだぞ!それに昔の俺はこの街で1番歌が上手かったんだから。」
父さんのいつもの冗談に、僕は「はいはい」と素っ気なく返事をしたあと、顔を引っこめて歯を磨き始めた。
父さんは諦めて階段を降りていく途中に
「本当だっての…」と呟いていたが、その言葉は僕にはほとんど聞こえなかった。
父さんはあんなに僕を急かしていたけど、時計を見てみれば時間はまだ8時で、僕はすっかり肩透かしを食らったような気分だった。
きっと僕がいつも8時5分のバスに乗るせいで遅刻したと思ったんだろう。次かその次のバスに乗っても、ギリギリ遅刻はしないことを父さんは知らなかった。
とは言っても次のバスが来るのは20分後で、学校にも余裕を持ってつける時間ではないから、あんまりゆっくりしている暇は無い
僕はすぐ堅苦しい制服に着替えて、頑固な寝癖を叱られない程度になおした。
父さんが作ったヘンテコな朝ごはんを詰め込んで、僕は「いってきます」と、いつも通り早歩きで家を出た。
僕はバス停まで歩きながら、四方八方をキョロキョロと見渡していた。
たった10分家を出る時間が違うだけで、外はあかるくなったり、もしくは暗くなったりすることが面白かった
すれ違う人の顔はみんな初めて見る顔だし、僕の髪を煽る南風も、どこか荒っぽい別人のように思えた。
家の中は何分経とうがどこも変わらないのに、陽の当たる世界はたった数分で目まぐるしいほど姿かたちを変えてしまう。不思議な気分になるのと同時に、この事実が僕にはなかなか恐ろしかった。
その後僕はバス停についたが、しばらく、
5分,10分はバスが来ないと感じたので、いつの日か雑にリュックへと突っ込んだ暇つぶし用の本を手に取った。とても小さい本だ。
そこで僕が適当に開いたページには、とある1つの詩が書かれていた。
『乙女たちよ、時を惜しめ』という、ロバート・ヘリック作の詩だ。
――まだ間に合ううちに、バラの蕾を摘め
時間は矢のように飛んでくるのだから。
ここに咲いているこの花も今日は微笑んでいるが、明日には死にゆく運命にある。――
―― 一生のうちでは若い頃が一番いい、
青春の血が生き生きと脈打っているからだ
だが、それが過ぎると、あとは悪くなるのみだ。そして、やがて最悪の時がやってくる。
だから―――
「…だから、含羞むのをやめ、自分の青春を生き抜き、まだ間に合ううちにお嫁に行くがいい…」
僕はハッとした。この声は僕じゃない
「いったん花の盛りをのがせば、永久にまちぼうけを食うだけなのだから…ね。」
驚いた僕は急いで本を閉じて、その声の正体と顔を突き合せた。
すると振り向いた先には美しい茶色の髪をした女性が立っていて、その頬には可愛らしいそばかすが散りばめられていた。
僕は唖然として女性を見つめた。
どこかで会ったことがあるような気がするけれど、こんなに綺麗な人を知っていればまず忘れることはないし、僕が女の人と関わる機会なんて何年もない事だったから、僕は本当にすっかり彼女とは初対面だと思っていた。
僕が黙っていると、女性は口を開いた
「 “早くお嫁にいけ” だって、ひどいわね。
前半は悪くないけど、後半の女性への扱いが気になるわ。私はこの詩はあんまり今の時代にあっていないと思うのだけれど」
「あ、あの…?」
僕が困惑した様子で目をぱちぱちさせながら話しかけると、彼女は「ん?」と、まるで友達にでも話しかけているかのような顔でこっちを向いた。
「な、何か間違ってるんじゃない?多分、恐らくだけど、君は人違いをしてるよ。」
「えっ?うそ、そんなことないわ!」
「でも僕は君を知らないし、僕たちはたった今初めて出会っただろ?」
僕がそう言うと、彼女は少しの間僕の顔をジッとよく覗き込んだ
そして「やっぱり、そんなはずないわ」と呟いた。
「あなた、一昨昨日の夜に店へ押しかけてきた子でしょう?かわいい髪の色だったから、忘れるはずないわよ。」
「一昨昨日?」
僕は眉間に皺を寄せながら右上から左上まで大きくぐいーっと目ん玉を移動させて
昨日…一昨日…一昨昨日…と、記憶を掘り返した。
そして、僕はようやく思い出した。
「…まさか、グレイス?」
僕がそう言うと、彼女、グレイスの顔は一気にぱぁっと明るくなった。
「そう!そうよ!グレイス・シモンズ!あぁ良かった、私はてっきり忘れられてしまったのかと寂しくなったわ。」
「そうか、そうだったか、いやぁごめん。あの時の君は髪の毛を結んでいたし、なにより片目は潰れていたも同然だったから…」
「もう思い出してくれたんだからいいのよ!それにしても、ここのバスは私がいつもこの時間に使っているバスなんだけれど、私があなたを見かけるのは今日が初めてだわ。」
グレイスのその言葉には、突然現れた僕のことをここに住みつく男の子の幽霊かなにかだと感じているような雰囲気があった。
「当たり前だよ。僕はいつも8時5分のバスを使うんだ、今日はたまたま寝坊してここにいるだけ。」
「あら、そうなのね。私てっきりあなたのこと、このバス停に住みつく若い男の子のお化けかと思って心配してたの。」
嘘だろ、本当に思ってたのか
グレイスのおかしさに僕はつい苦笑を浮かべた。
「まさか!そんなわけないだろ。触って確かめてくれたっていい、僕はちゃんとここにいるよ。」
「えぇ、そうみたいね、安心したわ。私お化けって苦手なの」
そう言って僕たちは一緒に笑った。
「…でも、そうだね、もしかしたらそこら辺を歩いている人達には僕が青白い幽霊のように見えているかもしれない」
グレイスは「どうして?」と聞く
「だってこんなに美人な君が隣にいれば、どんな人間だろうが、その存在ごとたちまち霧みたいにかき消されちゃうだろうからさ」
僕が笑ってそう言うと、彼女はなんだか不思議に驚いた顔を見せた。
そしてあたふたと目を動かしながら
「そうね」と言って、彼女は髪を耳にかけたあとに僕から顔を背けてしまった。
一体なにが彼女を不安にさせたのか僕には分からなかった。もしかしたら僕がなにか不躾なことを言ったのかもしれない。
「ごめん。君が他の人を脅かしているとか、そういうことを言ってるんじゃないんだ。」
僕はすぐに彼女の誤解を解こうと謝った
「いえ、分かってるわ。ただ今までそんなことを言われたことがなかったからビックリしただけなの、謝らないで」
それでもグレイスは僕の方を向いてくれない。
「…あ、ちょうどバスが来たみたいだわ。」
彼女がそう言って向いた方向には、たしかにこちらへ近付いてくる予定のバスが少し奥の信号で止まっていたが、彼女の後ろ姿 ―その茶色い髪を見るだけで、ちょっぴり気まずい雰囲気が流れていることが分かった。だから僕はやっぱり黙り込んでしまった。
そうして僕が大人しくしていると、反対にグレイスはいきなりしゃがみだして、自分の愛らしくもアンティーク感あふれるバッグの中をゴソゴソと漁り出した。
左下からビリッと紙を破く音だったり、ガシガシと何かを書く音が聞こえてすごく気になったけど、その時僕は完全にしょぼけていて
そんなことを気にする余裕がなかった。
先程の信号を越えたバスも次第に近付いてきて、僕たちの目の前に音を立てて停車した。
その瞬間グレイスも「よしっ」と少し跳ねながら立ち上がる。
「はい、ルイス、これをあげるわ」
彼女はそう言って手のひらサイズの紙切れを僕の胸にグッと押し付けた。
「これは?」と僕が聞く
「私の電話番号よ、好きな時にかけて、待ってるわ」
かわいいそばかすを軽く染めて笑う彼女は、すぐに後ろを向いてバスに乗り込もうとする。
そんな彼女を僕は「待って」とひきとめた。
「君、怒ってないの?」
グレイスはバスから身を乗り出して言った。
「そんな!どうして?全然違うわ、むしろその逆よ。あなたを気に入ったの、じゃなきゃ電話番号なんて渡さないわ」
とても強く輝かしい烈日が、彼女の全てを照らす。
「とにかく、本当にいつでも好きな時にかけて。またね」
彼女は僕にそう言い残したあと、美しい髪を揺らしながらバスへと乗り込んでいった。
そのままバスが走り去っていくと、まるで1つの小さい太陽が失われたみたいに、周りが少しだけ曇ったような気がした。
初めて会った時も感じたけれど、改めて彼女は人に自然と元気をばらまく人間なんだとわかった。
自分とは雲泥の差がある、これぞ対照的と言わざるを得ない心持ちだ。
だから僕はそんなグレイスに魅了されて、自分が乗るはずだったバスを逃してしまったことにしばらく気付けなかった。
そんな僕がこのあとどうなったかは、わざわざ言わなくても、きっと分かってくれるだろ?
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