からかってるのか

「先生、体調はどうですか?」


僕は真っ暗な部屋のドアを開けた。

廊下の灯りが奥にあるベッドと先生の背中を照らす。


声をかけても起き上がってこない。まだ気分が優れないのかな


いきなり部屋の電気をつけるのは失礼だろうから、僕はそのままゆっくりとベッドに近付いた。

西日が当たるせいで日焼けした映画ポスターのジリジリとした匂いや、学校へ持っていく教材のシンとした、いわゆる “自分の匂い”がする部屋の中に、先生の香水だろうか、かすかに甘く落ち着いた香りがした。


アプリコットのような香りが強くなるにつれて、先生の姿も近付いてくる。

僕のぐちゃぐちゃなベッドに横たわる彼の背中は胎児のように丸まっていて、一体何から身を守っているのか、その右手はぐるりと首元に巻き付いていた。


「珍しい眠り方…」


僕はそう呟いてから先生の肩に手を置いて、何度か前後に揺すった。


「…バンディ先生、起きれますか?何か必要なものがあれば持ってきますけど、体調は?」


僕がそういうと、いきなり先生の首にまわされていた右手が僕の腕をガッと掴んだ


「えっ」


驚く暇すら与えられずに、僕はそのまま引っ張られて、何がなにやらわからないまま勢いよくベッドへと崩れ落ちた。


「いたっ…先生、なに――」

「私に触るな!」


その瞬間、僕はまるで頭をうちつけられたような気分だった。

その声は確かにビリッとした感覚をまとわせながら僕の耳を襲って、次にはあっという間に音がじぃんと外へ広がっていく。

掴まれた腕は苦しいくらい強く握られていて、そのせいか僕は本能的に “逃げられない” と悟り、自分でも気付かないうちに身震いをしていたようだった。


あんなに優しくて、好かれていて、尊敬に値する先生がこんな大声をあげるだなんて微塵も思っていなかった僕は「触るな」という言葉を理解するのに数秒の時間を要した。

水を打ったように静まり返る部屋は、辛うじて僕の浅い息と、先生の乱れた呼吸が聞こえる程度だった。


「…あの、その、すみません。僕…えっと」


できるだけ何事も無かったかのように、ここへ何しに来たのかということをあたりさわりなく話したかったのに、実際に出た僕の声は恐怖に竦み、戦慄き、この状態に困惑しているものだった。

すると、そんな僕の震えた手と現状に気付いたのか、先生はハッとして、まるで過ちでも犯したかのように急いで右手を僕から離した。


こんなに暗い部屋でも少しだけ、先生の顔が見えた。その顔は、―こんなものを顔といえるのであれば― 今まで見た中でもとりわけ酷い笑顔で、普段の先生からは想像もつかないような表情だった。


「…や、すまない。ちょっと嫌な夢を見てしまって…つい大声を…申し訳ない、そうだ、左手は?あんまり強く握ってしまったような気がしたんだ。痛くはなかった?ごめんよ、僕は教師なのに、あぁ…なんてことを、すまない…」


ベッドのすぐ側にある窓から差し込む月明かりで、その顔は余計に白く見えた。

虚ろな目をしながらこめかみに汗を滲ませ、自戒のように自分の右手をぎゅうっと握っている彼の姿は、まさに親に叱られるのを今か今かと怯えている子供のようだった。


こんな先生を怒ろうだなんて、誰も思うわけがないのに

少なくとも、僕には絶対無理だった。


「そんなに謝らないでください。僕はその、少し驚いただけで、全くどこもなんともありません。」

「…本当にすまない、ルイスくん。」


先生は両手で目を塞ぎながら続ける


「そうだ、電気…電気をつけてくれないか、私はくらい所が、その、あんまり好きじゃないんだ。」


僕は静かに「わかりました」と言ったあと、ベッドから立ち上がって、ドアの近くにあるボタンを押した。

いきなりパッと明るくなる視界に、僕はつい目を凝らしてしかめっ面をみせた


「…ありがとう、私は何時間くらいここに?」


両手を目から離した先生が聞く


「だいたい2時間です。今は夜の8時15分」

「そんなに?それはすまない、申し訳ないことをした…」


先生は俯きながら含羞む


「なんだか私はさっきから謝ってばかりだね。全くどうしようもない、一体、どちらが歳上なのだか…」

「まぁ、たしかに。あなたと僕は11歳も歳が離れているのに、まるで先生は介護が必要なおじいさんのようだ

それにしても、先生があんなに酒に弱いなんて、僕はこれっぽっちも思っていなかったもんですから、とてもビックリしましたよ。」


あんまり自分を卑下するような話は苦手だ

僕は先生を茶化すような雰囲気で言いながら、ベッドへ腰を掛けた。


「…からかってるのか?」


まだ酒が抜けきっていないのか、頬を染める先生に、僕は笑いながら「あいにく」と返した。


「そんなこと言われたら、何も言い返せないじゃないか。」

「ウイスキーひとくちで気分が悪くなるほど下戸なのに、どうして僕の店になんか来たんですか?それも、ひとことも酒が飲めないなんて言わずに。僕はあなたにとても強いラムを出そうとしてたんですよ」


「…なぜって、そんなの、酒屋の息子の前で『酒が飲めない』だなんて言うのは、あまりにも格好がつかない話だと思ったんだよ。」


僕は蜂に尻でも刺されたかのように驚いて、「格好がつかない」あたりからほとんど話も聞かずに口を挟んだ。


「はあっ!?ありえない!先生は本気で僕がそんなことを気にする人間だと?」


もはや笑いすら出てきそうだった。

先生の言う通り、本当に僕の方が歳上なのかもしれない。

こんなにバカバカしいことを言うのは、彼が初めてだった


「そんなこと思ってないさ!くだらないことだって。ただ、大人ってやつはこうなんだ。特にここ最近は、酒が飲めないってだけで私に変な顔を向ける人達がいる。」

「やめでください、もう二度とそんなことは考えないで。もしこの店で酒が飲めないことをとやかく言う人間が現れたら、そいつは二度とここで酒を飲めなくなる罰があるんです。」


嘘だ、さすがにそんなルールはない。

だが、あんまり度が過ぎた発言が隣の席から聞こえてくれば、僕が声をかけずとも、近くのヤツらがそのヒッピー共に “やさしく、親切に” お声がけをしてくれるから、別に間違っちゃいない


きっと先生はうちにそんなルールは無いと気付いていただろうけど、同時に、僕が嘘をついていない事もよく分かっていた。


先生は優しく微笑んで

「そうか、よかった」

というとベッドから起き上がって、僕と肩を並べた。


「君がいるなら、飲めなくてもこの店へ来るよ。」


先生は僕の目をジッと見ていた。


「その言葉はどういう意味?」

僕は口を開きかけた。でも、僕の脳は完全に思考を停止していて、全くそれどころじゃなかった。

彼は僕が何かを言うまで、僕と目を合わせたままでいるつもりだったんだろう。

首から背中がじわじわと熱くなっていく


この時思っていたのはただ、先生の瞳の色は引きずり込まれる程のグリーンで、僕と同じブラウンではないということだった。


実のところ僕は見つめられることが苦手だ。

特にその人の目が特徴的な ―すごく鮮やかな青だったり、まつ毛が長かったりといった場合が1番好ましくない。


だってその目に見つめられていると思うと、身体がガチッと動かなくなって、永遠に目が離せないんじゃないかと考えてしまう

完全に僕の首根っこをつかみ、絶対に逃がすものかと釘付けにしてくる。きっと今にも殺されそうな状態に陥ろうとも、僕は指ひとつピクリとも動かせない。

その代わり、僕は「僕から必ず目を離さないでくれ」と頼み込む

それは生物の本能として僕の弱点であり、同時に僕が恋人へ求める条件でもあった。


僕は5秒黙ったあと、なんとか空っぽの頭から言葉を引っ張りだそうと少々どもりながら声を出した。


「…そ、うですね、ぜひ、またうちへ来てください。僕もうれしいですから――」


そう言いかけた時、ベッドがギシ、と音を立てた。

いつの間にか先生の顔が目と鼻の先くらいの距離まで来ていて、僕の身体は一瞬にして先生のかぐわしい匂いにされるがままになった

そしてやはり、その目はただまっすぐに僕を見ていた。


そのクラッとするほど甘い香水の香りには、先程まで寝転がっていた僕のベッドの香りが混ざっている。


あぁ、僕の苦手な目。そんな目で見られたら僕は動けないって言ったのに

このままではお互いの顔がぶつかってしまうそう思った僕は反射的に目をギュッと瞑った

てっきり唇どうしがくっつくあれをやられるのかと思ったんだ


しかし彼の顔はするりと僕を避け、そのまま流れるように僕の頬へと唇を誘導させたあと少しのリップ音をならしてみせた。


「……」

「…へ?」


僕がポカンとしていると、先生は「ふうっ」と一息ついてベッドから立ち上がったあと、左手を僕の肩へ置いた


「今日は迷惑をかけたね、君のおかげで体調も戻ったし、これ以上悪化しないうちに帰るよ。楽しかった、ありがとう」


バンディ先生は僕が何も喋れない間にさっさと礼を言って帰ろうとした。

僕はまだ、彼の残り香が身体にまとわりついていて上手く動けなかった。

するとドアに手をかけた先生がなにを思ったのか、くるりとこちらを振り向いて言った。


「…それにしても、ルイスくんがこんなに押しに弱いなんて、私はこれっぽっちも思わなかったよ。」


先生は人差し指で自分の頬をトントンつつく。僕はその行動につられるようにして自分の顔に手を当てた。

その瞬間、おでこからドバッと汗が出る

僕はほぼ空気も同然な声を出しながら、床にまでくっついてしまいそうなほど口を大きく開けた。

そんな僕を見たのに、先生はそのまま咳払いをして「それじゃあね」と部屋から出ていってしまう。

そんな彼の様子がとどめだった


「…あなた笑ってるでしょう!ちょっと待ってください!からかってるんですか!?」


僕はドタドタと音を立てながら急いで廊下へと飛び出した。


今になってやっと、自分の顔が真っ赤に熱くなっていることに気付いたのだ。

それも耳まで、すっかり全部!


ドアの角に足をぶつけながら廊下に出てみると、僕の「からかっているのか」という声に肩を上げて笑っている先生がいた。

彼はクスクスと笑いながら


「あぁ、あいにくな」


と、僕が言ったことをそっくりそのまま返してきた。


「ひどい、あなたは全くひどい人だ!もう、早く帰ってください!」

「だから今から帰るって言ってるだろ?焦らなくても、また明日学校で会える。それまでにその顔をどうにかしておいてくれ。じゃあね、さよなら」


そう言って軽い足取りで階段をおりていく先生を、僕は真っ赤になりながら見送ることしか出来なかった。

あれだけ自然に、しかも唐突に、自分のファースト・キスを脅かされたことが怖かった。


このあと僕はしばらく部屋に立てこもっていて、次に部屋から顔を出したのは深夜1時

手を洗いに行く時だけだった。

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