知らないということ
頭がよく回らなくて、先生の言った意味を理解するのには数秒の時間が必要だった。
―でも、正直そんなことよりも、僕は今の発言が父さんに聞こえていなかったか、心配でたまらなかった―
「…バンディ先生、今、なんて」
「え?…あ……!」
先生の顔からしたり顔が消えて、体はギクッと動かなくなった。
一瞬だけ僕よりずっと慌てた表情を見せたけど、それはすぐに気まずそうな、なんとも言い難いものになって
彼は何かを隠すようにして、左手を目元に擦り付けた。
少しの沈黙のあと先生は
「…すまない、久しぶりに酒をあおったせいか、変なことを言った。」
と、ため息混じりに呟いた。
そして僕が口を開くのも耐えられないと言わんばかりに、先生はおもむろにかかっていたコートを取り出し、腕にかかっている小さい時計を見て立ち上がった
「ちょうどいい時間だし、もう行くよ。楽しかった。お父さんもありがとうございました。きっとまた来ます。
それじゃあ、ルイスくん、学校でね」
眉を下げて笑いながら、そそくさと帰ろうとする背中に、僕はなにか声をかけたかった。必死に引き止める言葉を考えた。
先生はカチンと音を鳴らしながら6.8ポンドを机に置いて、まっすぐ鉄の扉へと歩いていってしまう。
“どうしよう”
そんな言葉が僕の頭をぎゅうぎゅうにする
だってもし、先生が…ゲイだったとして
もし、それをつい口走ってしまったとして
一体それはどれほどの恐怖だろう?
腹を括っている訳でもない、いきなり出てしまった言葉なら
先生が、僕と同じことを考える人で、僕と同じように、震える夜を過ごさなければいけない人だったなら?
様々な思考が広く低く広がったけれど、ひとつずつ考えてる余裕は無い
とにかく、少しの時間と言葉が欲しかった。
「…あ、のっ」
先生の背中がピタッと止まる。
僕は僅かに身を乗り出して、そして慌てた声色で言った
「少し歩きながら、話しませんか?」
それでも先生は完全にこちらを振り向くことはしないで、鉄の扉に手をかけたまま、肩越しにチラッとこちらを見るだけだった
「…でも、もう8時で外も暗いよ。子供が出歩いていい時間じゃない。」
「そんな、なぜそんな子供扱いを?そこの角まで歩くだけです。心配なら、そこにいる父さんに聞いてください。」
先生は黙っていた。
「…ねぇ!父さん、先生を外まで送ってきていい?」
父さんはカウンター奥でタバコをふかしながら、トリニトロンのテレビでクリケットを見ていた
「ん?あぁいいぞ、でも、11時までに帰ってこなきゃ締め出しちまうからな。」
と、微笑を浮かべながら言う。
僕はしっかりと先生の背中を見て
「ほら、3時間も空いた」
と言った。
随分とあっさり許可を出す父さんに驚いて
先生はハッとこっちを向いた。
そのあと3秒おいてから諦めたのか、やっと口を開いた。
「分かった、いいよ、歩きながら話そう。」
僕たちは一緒に外へ出た。
先生の言った通り外は真っ暗になっていて、フワッとした風が湿っぽい香りと共に顔を撫でる。
どうやらあんなに冷たかった雨は北へ去ったようで、残った水滴が石の道をつやつやと輝かせていた。
空にも雲ひとつなかった。
そんなにいい夜でも僕たち2人はしばらく黙っていた。お互いがお互いを探るように、万が一にでも言葉が被らないように
そして、運良く同時に声をかけ合ってまた黙ってしまう、なんてことは起こらなかった。
僕が先に口を開いたから
「そういえば、彼には連絡を取りました?
ほら、昨日の大学生。」
僕は慎重に声をかけた
「ん?…あぁ、うん。大学の方に電話して確認をとってもらったよ。彼は君に申し訳ないと謝っていた」
僕は左目の横に貼ってある絆創膏に触れて
「そうですか、なら、いいです。」とだけ呟いた。
…信じられないことに、僕たちはまたすぐに静かになってしまった。
恐らく、僕になかなか友達ができない理由の40%くらいは、この「会話を続けられない」ことが原因だろう
そして自分の会話能力にガッカリしたのは、もうこれで2000回目くらいだ。
僕は口を曲げて良い言い回しを考え続けていた。どうにかして自然に先生とさっきのことを話したい。そのための導入をさがしていた
すると先生はいきなり足を止める。
横にいたはずの先生が後ろに立っている事に気付いた僕も、ピタッと足を止めて先生を見た
「…君は、さっきのことを聞きたいんだろ?」
先生はそうつぶやく
「あんなに驚いた顔をしたのに、どうして私と話なんてしたくなったのか、分からないんだ。君は頭がいいから、あの一言で何となく気付いたんだろ?」
僕は黙っていた。
「君は、僕がゲイだと、そう理解した上で
僕と外を歩こうと思ったね。それはどうして?」
この瞬間、僕は先生の格好に、本当の自分を重ねて見ていた
下を向き、唇を震わせながら静かに喋る、それはまるで濡れたうさぎのようで、僕は彼が今にも呼吸を止めてしまうんじゃないか、目の前で恐ろしいことが起きてしまうんじゃないかと恐ろしくなった。
きっと彼には心臓の音しか聞こえず、手は汗だらけで、目には涙が溜まっていて、縮小した心を抱えるので精一杯だろう。
だから僕は、僕が1番かけて欲しい言葉を先生に言った。
ゲイである自分が、1番救われる言葉を
「…バンディ先生が何者であろうと、僕はあなたへの態度を変えません。先生が異性愛者でも、同性愛者でも、構わないんです。」
己の正体を隠して、一丁前に人を受け入れようとする自分の気持ち悪さ
誰かを優しく抱き締めれば、自分が救われるかもしれないという傲慢さ
全てに目をつむって
先生の心に踏み入る選択をした僕は、続けて言った
「だってあなたは、いい人じゃないですか」
考えていたよりも短い言葉だった。
サッと顔を上げた先生と目を合わせる
その目から不安の色が消えると同時に、先生はフッと口元を緩ませて笑った。
その笑顔は今まで見たものよりもずっと自然で、微笑とも大笑いとも言えない中間のような笑顔だった。
恐らく初めて見るであろう彼自身の笑顔には人間以上の愛らしさを感じてしまうほど、強く印象に残るものだった
彼はそんな顔で僕に「ありがとう」と静かに言うもんだから、僕もつい恥ずかしくなって、上顎がくすぐったくなってしまった。
なんだか先生といるとこんな事ばっかりだ
クスッと笑えて、僕の心が楽になる。
音楽教師なんかやめて、心理学の教師になれば良いのに。本気でそう思う。
一息ついたあと、僕たちはまたゆっくりと歩き始める。
今度はお互いをさぐり合うような沈黙はながれなかった。
「…明日も店に顔を出していいかい?家に帰っても仕事以外に何も無いんだ。」
「もちろん、大歓迎ですよ。なにか好きな酒はありますか?僕が用意しておきます」
「あぁ…実は私はあんまり酒に詳しくなくてね君さえ良ければ、何かおすすめを選んでほしいんだ。」
先生はうーんと考え込んだあと、頭の上にひとつ電球を光らせたような顔で言った。
「そうだな、甘めで香りの強いものがいい、作れるかい?」
「もちろん、僕はバーテンダーですから」
「それは何よりだ、じゃあ明日は18時くらいに向かうよ、楽しみにしてる。」
そんな会話をして先生と500m先で別れたあと
生暖かい風に夜の香りを感じながら、僕は鼻で小さく“Singin' in the rain”をうたいながら
スキップ混じりに帰路についた。
僕は、僕にとって数少ない知り合いがまた店に来てくれることが嬉しかった。
それが好きだった。
自分の酒を飲んでもらえたときや、父さんの店を気に入ってもらえたとき、僕は飛び上がりそうなほど嬉しい気持ちになる。
一瞬だけ、世界の一員として認められたような気になれるんだ
それに、酒の場でなら、みんな何かしら自分のことを話してくれるだろ?
僕は友人の好きな酒や好きな音楽、お気に入りのアクセサリーに、つけている香水まで、なんでもかんでも知りたいたちだから。
おしゃべりなハロルドとか、聞いたら答えてくれるカートが結構好きだ。
というか、そこまで知らないと友人じゃないとさえ思う。
そして僕は今日、先生と話して、すっかり彼が気になってしまったから、ひとまず好きな映画でも聞きたいんだ。
最近の映画は知っているかな、音楽教師なら『雨に唄えば』は絶対に分かるだろう
そんな今にも一回転まわってしまいそうなくらいの気持ちで道を歩いては、くしゃくしゃな心を無理やり躍らせている気持ちで
僕の足はとても楽しそうに進んでいた。
一体何に酔ったのか、一体何に魅せられたのか
自分でもよく分からない気分の夜だった。
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