引き込み

頭が割れそうなほど強く打ち付ける雨粒に、僕の全身からは血の気がサァッと引いていて

今が7月とは思えないほど、太陽は隠れ、肌は冷たくなっていた。


ダニエルを突き放した場所から一体どのくらい進んだのだろう、妙に足が重くて、何分歩いていたのか分からなかった。


ふと顔を上げて辺りを見渡すと、見覚えのある道に立っていることに気がついた、ここは僕の家の近くだ。

ほら、あそこに店の看板がある。

途端に安堵の息が出た


いまは何時だろう、7時半くらいだろうか、父さんはまだ寝ているかな。…どうか起きていませんように。

見つかったらきっと父さんは何かを言う、何を言うか分からなかったけど

その何かが億劫で、面倒くさいと思った


僕にはもう歩く以外の気力は残っていなかったから、父さんの話を聞いていることは出来なかっただろう


鉄で出来ている店の扉は雨のせいですっかり冷えきっていて、カーテンの隙間からは明かりの付いていない店内が見えた。

――良かった、起きてない


ホッとした僕はゆっくりと重い扉を開けた

ギィという音に、小さくカランと鳴るドアベルの湿った音がかさなった。

視線を下に向けると、前髪からポタポタと水がたれていた。

この瞬間ようやく自分がどれだけ濡れているかを知った。

僕の服やズボンはビシャビシャになっていて

特に靴なんかは水を吸ってしばらく使えそうになかった。


静かな店内に響く時計は思っていたよりも早く進んでいて

その針は8時10分を指していた。


僕はそのまま床が水だらけになるのも気にせずにまっすぐ洗面所へと向かった。

自分の口角が下がっていて、世界の終わりみたいな顔をしていることはよく分かっていたから、もう少し人に見せられる程度の顔に直したかった。


階段を登っている途中、僕の足はまるで10年間働き詰めだった人間のようにフラフラしていて、僕の視界は涙か雨粒か分からないもので覆われていた。

囚人でも、こんなに酷い思いはしないだろう

僕はこの瞬間、なぜアンディ・デュフレーンが刑務所から脱獄したのかをようやく理解できそうだった。


やっとの思いで階段を登ったというのに、洗面所へと向かう道はやけに遠く見えて、呆れた僕はズカズカと音がなりそうなくらい早く歩いた。


バタンッと勢いよく洗面所の扉を閉めたあとはただ無言で服を脱ぎ、シャワーを浴びた。

温かい水がじんわりと冷えた身体を包み込んでくれる。

そんな温かさに気が抜けたのか、僕はもう少しだけ泣いてしまった。

シャワーよりも何倍も熱い涙が頬を伝っていく

ダニエルへの申し訳なさと、自分に対する嫌悪感で胸がいっぱいだった。


僕が鼻をすすりながら泣いていると

「ガチャ」という音と共に眠たそうな父さんが入ってきた


「…ルイス?」

「床が濡れてるんだが、お前外に出てたのか?」


驚いた僕は泣き腫らした顔をいそいでお湯で流しながら答えた


「…うん、ごめん。ちょっと散歩してたら

いきなり降られて、傘も持ってなかったからそのまま帰ってきた。」

「そうか…」


父さんはチラッと床を見た

「替えの服も置かずに何を着るつもりだったんだ?今持ってくるから、ちゃんと床の掃除しろよ」


そう言い残して父さんは洗面所から出ていった、声が震えていたことや泣いていたことには気付いていないと思いたかった。

父さんが出ていってしばらくしたあとに、僕は溜息をつきながら外へ出て、さっさと体を拭いた。


ふと横にある鏡と顔を合わせると、僕の目は真っ赤に腫れていて、身体のそこかしこには青紫色のあざがあった。

我ながら酷い状態だと思う。

まるでいじめられて帰ってきた小さい男の子みたいじゃないか


「ほらルイス、替えの服を持ってきてやったぞ」


父さんが扉を半分開けて言う


僕は「ありがとう」と小さく言ったあと

その半分の隙間から渡された縞模様のシャツとジャケットを受け取った。

大きなあくびをしながら、父さんは自分の部屋に戻っていった。

着替えている間、何度も遠くからゴロゴロという雷の音が聞こえた。


そのあともずっと強い雨が降っていたからか

お客さんは来ず、午前中は床を掃除した以外にほとんどやることは無かった。


僕は昨日の出来事を思い出しながら、ボーッと雨の滴る窓を眺めていた。


正直僕は、先生が来ることに対してあまり乗り気ではなかった。

というのも、今までも何度か学校の関係者が飲みに来たことはあったけれど、お酒のせいか、みんなあることないこと好き勝手に言ってくるんだ。


「あいつが嫌いだ」「やつは仕事が出来ない」「生徒が生意気だ」「生徒の中にホモがいる」「気持ち悪い」……

誰かにバレたら首が飛ぶほど大きな秘密を聞いたこともあった。


もちろん、ここは酒を飲む場で、弱音や愚痴を吐き出していい所だ。

でもそんな話を聞かされて、僕が好感を持てるかどうかはまた別の話なんだ


おかげで僕は教師という存在が少し苦手になった、教師の化けの皮が剥がれる瞬間を見てきたんだ。信頼なんて出来たもんじゃない。


もし「僕はゲイです」なんて言ってみろ、とんでもなく恐ろしい結末が待っている。

だから僕は彼も、きっとバンディ先生もそうだろうと思ったんだ。


午後6時になっても外はまだゴロゴロとうねり声をあげながら地面に水を打ち付けていて、おかげで店の中はため息が出るほど退屈だった。


しばらくダラダラしていると、窓の外に人影が見えて、鉄のドアが開く音と同時にドアベルがカランとなった。


「…!どうも、いらっしゃい」

「こんばんは。忙しくなはいかい?」


そう言って傘を閉じる男は昨日僕を助けてくれた先生だった。


先生と学校以外で会うのが初めてという訳では無いのに、昨日の今日ということでなんだか僕は緊張してしまっていた。

先生は自分の傘を傘たてに入れて、1番右の、他のどの席よりもドアに近い席へ腰をかけた


「もし忙しかったら、帰るつもりだったんですか?」


カウンター越しに僕がそう尋ねると先生は少しキョトンとしたあと

「そうだね、今からでもそうしようか」と、少し肩を上げて笑っていた。


「父さん、この人がバンディ先生。昨日僕を助けてくれた人だよ」

「…おぉ、どうも、息子がお世話になってます。昨夜はご迷惑をおかけしたようですみませんね」


丁寧に右手を出しながらそう挨拶する父さんは新鮮で、ちょっと面白かった。


「いえいえ、そんなに堅くならないでください、生徒を助けるのは私たち教師の役目ですから。ルイスくんが無事で何よりです。」

「ハハ…今日は好きなだけ飲んでいってください!お礼も兼ねて安くしますから。」


そう言って2人は握手を交わしていた

親と先生が握手している姿を見るのはどうにもむず痒い。まるでお堅い三者面談をしている気分だ


そのあとの父さんは、やっと暇じゃなくなったと嬉しそうに酒を作っては先生に「サービスです」と、2,3杯お気に入りの酒を提供していて、僕が酒を作ろうとしても「いいから」とカウンターに入れてもらえなかった。


仕方ないからその間僕らは自己紹介から他愛ないことまで、色んなことをゆっくりと話した。


「私はよく休日に踊るんだ、空気を相手にして、社交ダンスや、自分なりに好きに踊ったりもする」

「相手はいないんですか?」

「ううん、いらないんだ。私は邪魔されるのが好きじゃなくてね。」

「踊るのが好きなのに、もったいない」

「本当にね、私も克服したいと思ってる。

どうだい?試しに私と踊ってみないか?」


酒を1口飲みながら先生は言った。


「はは、いや、僕は踊れない。僕も今の今まで相手がいた事がないんです、だからきっとあなたの邪魔になる。」

「それは君が誘わなかったからだ、君のその綺麗な顔なら相手はいくらでもいるだろうに

…しばらく思っていたんだが、君はなぜ表に出ようとしない?」

「出たくないんです、目立つのも得意じゃないし、父さんの店と生きていければ充分です。」


僕は先生から距離を置くように答えた。

心の内に入られそうになったら、僕はいつもこうする。否定されるのが怖いから


「…先生は?バンディ先生は学生の頃、誰かを誘ったことはある?」

「あぁ、もちろんあるよ、17歳の時にね。

小柄で可愛らしい子で、それでいて真っ直ぐで、周りに愛を渡して回るような子だった」


それを聞いて僕はすぐに “ダニエルみたいだ” と思った。

彼も太陽みたいに明るく、愛に満ち溢れていて、僕なんかすぐに置いて行ってしまいそうなくらい、いまを生きる人間だった。


必死に考えないようにしていたのに

先生との他愛ない会話で今朝のことを思い出してしまった僕は、あまりいい気分ではなかった。


でも、そんなことなど忘れてしまうくらい

次に先生が放った言葉は僕にとって聞き捨てならないものだった。


「…私はその女の子と踊ったんだけどね。

本当は、同年代の男子を誘いたかったんだ」



「…え?」


その言葉を聞いた瞬間、僕の中には先生に対する期待と困惑が芽生えていた。

もしかしたらこの人は僕と同じ苦難を抱えているかもしれない。

でももし仮に僕と同じだったとして、なぜ先生はそれを僕に言うのか。

何も分からなかった


ただ、その言葉が僕の判断を鈍らせるには十分すぎるということは頭のどこかで理解していた。


先生は大きく目を見開いて呆気にとられている僕を探るように一瞬だけ見つめたあと、グラスに残っている半分ほどの酒を一気に飲み干した。

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