第10話 見えない不安

ハルトとレニが美術館を訪れてから数日が過ぎた。レニは自分のペースで絵を描き始め、ハルトと出会う前の自分では考えられなかったような充実感を少しずつ感じていた。毎晩、ノートに日記をつけることも習慣となり、自分自身の気持ちを整理する時間がレニにとって大切なひとときになっていた。


しかし、そんな穏やかな日々の中で、ふとした瞬間にレニの胸に押し寄せてくる不安があった。


「今の自分は本当にこれでいいのだろうか?」


ハルトと出会い、彼女は確かに成長している。しかし、それでも心の奥底には、過去の影響や社会とのギャップに対する恐れが残っていた。外に出て新しいことに挑戦する一方で、自分自身が他の人とは違うという感覚に、時折打ちひしがれそうになる瞬間があった。


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その日もカフェでハルトと会っていたレニは、静かにコーヒーをすすりながら、心の中にある不安をどう伝えたらいいのか迷っていた。ハルトの前では素直に話せる自分がいる一方で、心の奥に隠しているものをすべてさらけ出す勇気がなかなか湧かなかった。


「レニ、なんだか今日、少し元気がないみたいだけど、大丈夫?」ハルトは彼女の表情を見て、すぐに気づいた。


レニは驚いたように顔を上げた。「え…そんなことないです。少し考え事をしていただけで…」


「そう?無理しないで、もし何かあったら話してくれよ。」ハルトは優しく微笑んだが、その笑顔が余計にレニの胸を締めつけた。


「話したら、また迷惑をかけてしまうんじゃないか…」そんな思いがよぎり、レニはどうしても言葉が出てこなかった。


「うん…ありがとう、ハルトさん。でも、本当に大丈夫です。」レニはそう答えたが、自分でもその言葉に自信がないことを感じていた。


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その夜、レニは自分の部屋で絵を描きながら、ハルトとの会話を思い返していた。彼が優しく接してくれることがどれほど救いになっているか、それはレニにとって間違いのない事実だった。しかし、同時に「このままではいつか彼に依存しすぎてしまうのではないか?」という不安も浮かんでくる。


レニは深くため息をついて、絵筆を置いた。いつものように日記を書こうとノートを開いたが、今日は何を書いたらいいのか分からなかった。心の中でぐるぐると回る思いを、どう表現すればいいのかさえ見失っていた。


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翌日、レニはハルトに会うために、いつものカフェへ向かった。カフェに入ると、ハルトはすでに席に座っており、レニを見つけて手を振ってくれた。


「おはよう、レニ。今日はどう?」


「おはようございます…今日は、少しお話したいことがあって…」レニは少し躊躇しながら、椅子に腰掛けた。


「何でも話していいよ。」ハルトはいつも通り、優しい笑顔で答えた。


レニはしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。「最近、少し不安なんです。自分がちゃんと前に進んでいるのか…ハルトさんのおかげで変わってこれたけど、それでも時々、自分が何も変わっていないような気がして…」


ハルトは静かに頷きながら、レニの話を聞いていた。「そう感じることがあるんだね。でも、レニは確実に変わってると思うよ。前は話すのも難しかったけど、今はこうして自分の不安も言葉にできてる。」


「そうかもしれません…でも、いつもハルトさんに頼りすぎてしまっている気がして。自分一人じゃ何もできないんじゃないかって、そう思ってしまうんです。」


その言葉に、ハルトは少し考え込んだ。レニが抱える不安は、彼もまた共感できるものだった。自分自身も、車椅子生活を送る中で、他人に頼りすぎているのではないかと感じることがあった。


「レニ、頼ることは悪いことじゃないよ。俺もそうだけど、誰だって一人で全部できるわけじゃない。それに、俺だってレニと一緒にいることで助けられてるんだよ。お互いに支え合うのは自然なことだと思うよ。」


レニはその言葉に少し驚いた。「私がハルトさんを支えている…ですか?」


「もちろん。レニが頑張ってる姿を見ると、俺ももっと頑張ろうって思えるんだ。だから、レニは俺にとって大切な存在だよ。」


その言葉に、レニの目には涙が浮かんできた。自分が誰かの支えになっているなんて、これまで考えたことがなかった。


「ハルトさん、ありがとう…本当に…」レニは涙を拭いながら、ようやく心の中にあった不安を少し軽くすることができた。


「だから、無理しないで少しずつでいいんだよ。俺も一緒にいるから。」ハルトは優しくレニの手を握り、彼女を安心させた。


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その日、レニは初めて「支え合う」ということの意味を深く実感した。ハルトとの関係は、単に一方が他方を助けるものではなく、互いに助け合い、成長していくものだった。レニは、これからも少しずつ不安に向き合いながら、前に進んでいこうと決意した。


それが、二人の新たな一歩であり、より深い絆を築くための大切な瞬間となったのだった。

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