第37話 過去話5

 その日の夜。

 ローザは、村外れの集会場にある大浴場にひとりで浸かっていた。

 自宅の風呂が壊れたわけではない。つい先刻、ローザの家にレインが晩飯を食べにきたのだが……母が変な気を利かせて風呂を沸かしはじめたので、またレインと一緒の風呂に押し込まれる前にこっそり逃げてきたのである。


 第二次性徴というやつか。ここ数年でレインはさらに男らしい体つきになった。

 去年とは肩幅や筋肉のつき方が比べものにならない。いつの間にか背も抜かれた。

 また母に一緒の風呂に押し込まれようものなら、今度はローザが反応してしまいかねない。


 それに加えて、昼間した【氷の精霊】との『感情』の話だ。

 どうしたってレインを意識せざるを得ない。

 いまレインに裸を見られたりでもしたら、恥ずかしさで死んでしまえる。


『雪が降り積もる中、湯浴みのためだけにわざわざこのような場所にまで逃げ込むとは。これは逆説、それほどまでに小僧への想いが強――』

「シヴァっち、うるさい」


 雑音を遮って、湯船で顔をすすぐローザ。

 誰もいないのをいいことに、【氷の精霊】も姿は見せぬまま声だけを表に発している。


『感覚共有している妾に隠し事は不可能です。認めてしまいましょう。小僧を恋愛対象として見ているから裸を見せるのも恥ずかしいし、小僧の裸を見るのも恥ずかしい、と』

「べ、別にそういうわけじゃあ……」

『ローザ様。出会いこそアレでしたが、妾はローザ様にすこしでも幸せになってほしいのです。そのためにも、まずは小僧を恋愛対象として認識するところからはじめましょう。ええ、わかりますよ? 気持ちを伝えたら関係が壊れてしまうんじゃないか、そもそも、この感情はソレなのか、不安になる気持ちもわかります。しかし、第三者から言わせてもらうなら、その感情は完全にソレでしかないのです!』

「…………」


 と。突然、ローザはザバッ、と無言のまま立ち上がり、窓の外の雪景色を見つめた。


『なにもすぐに、とは言いません。ですが、せめて騎士団に入団する前には――』

「――すぐに出るぞッ!!」


 叫ぶが早いか、ローザは湯船から飛びだし、裸のまま大浴場を後にした。

 ローザのその叫びで、【氷の精霊】はようやくその気配に気づいた。

 同時に、ここまで接近されて気づけなかった自身の怠慢を呪う。

 色恋話に浮かれていた思考を切り替え、【氷の精霊】はすぐさま姿を顕現した。


『ローザ様、少々喰います!』

「かまわん、頼む!」


 主の了承を得て、【氷の精霊】は魔術を行使。

 脱衣所を抜ける前に、ローザの細い肢体に冷気の鎧をまとわせた。

 これで、濡れた身体で極寒の中に出ても凍えることはない。

 一糸まとわぬ姿のまま雪原を駆けて、ノードン村につながる坂道に差しかかる。


「ハァ……ハァ……、嘘、嘘だ……、嘘だッ!!」


 雪に足を取られ、転びそうになりながらも、ローザは坂上の村を見据えて走る。

 目が離せない。信じられない。信じたくない。

 村が――真っ赤にライトアップされていた。

 それが、村全体が炎に包まれているのだと気づくのに、ローザは数秒を要した。


「嘘だ……嫌だ、こんな……、こんなの……ッ!!」


 轟々と燃え盛る火炎が、真っ黒な雪空目指して揺らめいていた。

 樹々が燃える音、家屋が燃えて倒壊する音に混じって、獣の雄叫びのようなものが聴こえてくる。それも、一匹じゃない。少なくとも、この村の村人よりも多い数。おそらくは、100近くか。


『魔物の群れ?』


 ローザに寄り添う【氷の精霊】が言った。


『だが、ついこの間、神官が村に防護壁を張ったばかり。魔物が村を見つけることは不可能なはず……あの群れの中に、防護壁を破った誰かがいるのか?』

『――我だッ!』


 そのとき。

 空気を震わせるような胴間声とともに、ローザの眼前になにかが降り立った。

 雪原の雪を四方に飛び散らせ、着地したその異形が顔を上げる。

 マグマのように赤黒い肌をした異形だった。背丈は五メートル超。頭部にウシのような角が二本生えており、筋骨隆々な全身に火の粉をまとわせている。


『我が防護壁を破ったのだ! 防護壁の外からでもわかる、成熟した魔力の香りがしたのでな。周辺の魔物を誘導し、〝極上品〟のあぶり出しに利用した! これほどの魔力体であれば、魔物の夜襲に遭っても生き残るだろうと踏んでな!』

『【炎の精霊イフリートス】……お前、なぜここに』


【氷の精霊】が信じられないといった風に問うと、赤黒い異形――【炎の精霊】は、心底愉快だと言わんばかりに豪快に笑った。

 笑うだけで、肌を焦がすような熱波がローザたちに押し寄せた。


『おかしなことを訊く! 我ら精霊が存在していることに理由などないッ! 喰らいたければ喰らい、殺したければ殺す! そしていま、極上品を見つけ喰らいに来た、それだけのことだ! 【氷の精霊】も大方、我と同じ理由でここに――、む?』


 ふと。【炎の精霊】はその巨木めいた両腕を組み、不思議そうに首をかしげた。


『なにか様子がおかしいと思えば……【氷の精霊】、貴様そこの極上品と精霊契約を交わしておるな? この数千年、誰ともつるまず孤高の精霊とまで言われていた貴様が、なにゆえ下等な人間などと……』

『……下等などではない。少なくとも、この方はな』

『〝この方〟? 待て、なんの冗談だ? 誰よりも人間を見下していた貴様が、なぜただの食糧を敬って――』


【炎の精霊】が余裕を持って話せたのは、そこまでだった。

 直後。吹雪のような冷気が吹きつけたかと思うと、【炎の精霊】はバランスを崩して、足元の雪原に顔から倒れ込んだ。


『………………は?』


 雪に顔を半分埋めたまま、【炎の精霊】は唖然とつぶやく。

 見ると、自身の赤黒い両腕両脚が、根本からバッサリと斬り落とされていた。

 頭と胴だけになってもなお、【炎の精霊】の痛覚はまだ叫んでいない。

 痛覚を置き去りにするほどに、ローザの氷の剣による斬撃は、神の速度を超えていた。

 精霊の目にも留まらぬ、都度七回におよぶ神速の斬撃。

 その神の御業によって発生した冷気の余波が、奥で燃える村の炎を一瞬でかき消していた。

 ローザの髪色が、氷のような水色に染まる。


「確認だ、赤いの」


【氷の精霊】に作らせた急増の氷剣を手にしたまま、ローザは【炎の精霊】に歩み寄る。

 その顔は、背筋が凍てつくほどに無感情だった。


「私の村を燃やしたのは、お前なんだな?」

『し、【氷の精霊】! こ、この人間は、いったいなんな――』

「答えろ」


 氷剣を、ためらいなく【炎の精霊】の右眼に突き刺すローザ。

 大気を震わす、低い断末魔が轟く。


『こ、の――、ッ!!』


【炎の精霊】が意趣返しとばかりに、ローザ目がけて口から火炎を吐きだした。

 岩を水のように溶かす数千度の火炎。

 生身の人間なら、一秒と原型を保っていられない。

 生身の人間なら。


『は……ガハハッ!! 貴様のような下等生物に我が――――、ァッ!?』

「答えろ」


 生身の人間ではない、【精霊の加護】を持つローザに、精霊の攻撃は通用しない。

 髪の毛一本も焦がさず、ローザは質問を繰り返した。


「三度目はない。私の村を燃やしたのは、お前で間違いないんだな?」

『グッ……、そ、そうだ!』


 苦渋の表情で【炎の精霊】は明かす。


『家屋だけを燃やして、村人が外へ逃げだしたところを魔物どもに襲わせた! その中で、極上品が生き残るのを見守っていたが、それらしき者は見当たらなかった。香りを辿ろうにも、我の火炎の魔力香がむせ返ってしまって辿れぬ……そんな折、ふと村外れに鼻を向けてみたところ、ようやっと貴様の香りを見つけたのだ!』


 見当たらなかった。

 過去形で語っている辺り、村の人間は、もう。


「……私を食べるためだけに、魔物を誘導し、村ひとつを燃やしたのか?」

『ああそうだ、それがどうした!? 人間の貴族も動物を追い立て、無闇やたらに殺す遊びをしているだろう。それと同じだ! 生まれてから数千年、我はそうして我の欲望だけに従って生きてきた! それのなにが悪いッ!!』

「いいや」


 ローザは鼻で笑う。


「なにも悪くないさ。自分のしたいようにすればいい」


 ローザは突き刺した氷剣を引き抜き、【炎の精霊】の太い首筋に当てた。


「私も、私がしたいようにする」


 言って、一息で氷剣を薙ぎ、一瞬にして【炎の精霊】の息の根を止めた。

 ローザが知りたかったのは因果関係だった。誰が悪いのか、なにが悪かったのか。知りたかったのはそこだけだった。精霊の倫理観にもポリシーにも興味はなかった。


『ガ……ァ、……わ、我が……我が、人間なぞ、に……ッ、……――』


 炎の魔力が火の粉とともに散り、【炎の精霊】だったものが霧散しはじめた。

 役目を終えたとばかりに、ローザの髪色が元の銀髪に戻っていく。

 唖然とした表情で、ローザは言う。


「要は、私の魔力が成熟し、香りを増したせいで、村は燃えたということか……」

『ローザ様……』

「……急ごう、シヴァっち」


 大気中に残る炎の魔力残滓をつまみ、残りは払って、ローザは村に向けて走りだす。

 気づけば、魔物たちの雄叫びはひとつも聴こえなくなっていた。

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