第31話 騎士の夢

 バーを出た俺は、酔いを醒ますためにすこし遠回りして宿屋ビレビハに帰ることにした。

 中央広場の人混みは逆に酔いを悪化させそうなので、人気の少ない裏路地を進む。

 秋の夜風が酒で火照った頬をなでる。

 雲の上を歩いているようなこの浮遊感がなければ、最高に気持ちいい散歩になったのに。


 裏路地を抜けると、夜の闇に眠る騎士団寮舎が姿を現した。

 いつの間にか、騎士団寮のある区域に来ていたらしい。

 ここ最近、騎士団寮に何度も通っていたせいか。足が無意識にここに向いてしまっていたようだ。


(……ローザは、もう帰ってるかな?)


 そんなことを考えながら、なんとはなしに騎士団寮の外壁に近寄ると、寮の敷地内から、ブン、となにかを振る風切り音が聴こえてきた。

 この外壁の奥は、たしか訓練場。

 風切り音と一緒に、わずかに女性のものらしき甲高い掛け声が届く。

 騎士団に女性はふたりだけ。

 そして、カナリエはまだバーにいる。

 なら、この声は。


(ここまで来たんだ。せっかくなら顔だけでも)


 俺は小走りで正門に回り、「お邪魔します」と小声で断りを入れると、隣にある関係者用出入口から敷地内に入る。

 果たして。

 見慣れた銀髪の少女がひとり、月明かりに照らされた訓練場で、木剣片手に訓練に励んでいた。

 ローザだ――土埃が舞い、銀髪がなびく。俺と手合わせするときのようなスローな動きではない。実戦を想定した機敏な動きだ。


 ローザが木剣を薙ぐ動作とともに、こちらを振り向く。

 直後。互いの視線が交差し、同時に「「あ」」と声をあげた。

 ローザが不思議そうな顔で戦闘態勢を解き、木剣を下ろす。


「レイン? どうしてここに……」

「よ、よお。ちょっと散歩がてら寄ってみたんだ。邪魔しちまったか?」

「いや、問題ない。ちょうど休憩しようと思っていたところだ」


 そう言って、ローザは訓練着の袖口で汗を拭いながら、こちらに歩み寄ってくる。

 ローザの額には大粒の汗が浮かんでいた。上の訓練着は汗で濡れて肌に張りついている。何時間訓練していたのか。俺が声をかけなければ夜通しやっていたのではないだろうか。


(……それぐらいしないと、騎士団長は務まらないってことか)


 ローザは騎士団でがんばっている。

 その事実に、俺はどうしてか妙な焦りを覚えた。


「……あ」


 と。目の前に来たローザが突然、なにかに気づいたようにして後ずさり、俺との距離を空けはじめた。


「どうした?」

「い、いや、その……いま私、汗がすごいから」

「ああ、臭いんじゃないかって? 何年幼なじみやってると思ってんだ。俺もいま酒臭いだろうし、そんくらい別に気にしねえよ」

「私が気にするんだ! まったく、レインは本当に、まったく……」

「悪かったって。とりあえず汗拭けよ。そのままだと、ほんとに風邪引くぞ?」


 言いながら、俺はポケットに入れていたハンカチを取りだした。

 今回は止血のためではないけれど、子どもの頃からの習慣も役に立つものだ。

 ローザは不満げに俺を睨んできていたが、しばらくしてこちらに近づき、渋々といった風にハンカチを受け取った。


「……ありがとう」

「どういたしまして――にしても」


 ふて腐れた様子のローザから視線を切り、静まり返った訓練場を見やった。


「騎士団では、こんな遅くまで訓練するのが普通なのか?」

「いや」


 汗を拭きながらローザは言う。


「緊急時や合同演習中でもない限り、普段はここまで追い込みはしないさ……今夜はちょっと、うん、考え事をしたくてな。色々整理するために訓練していたんだ。ここまで没頭するつもりはなかったんだがな」


 張りついた訓練着をつまんで、ローザは困ったように笑ってみせる。


「……そうか、騎士団長も大変だな」


 考え事の内容は訊かなかった。というか、訊けなかった。

 国王とのプライベートな話とやらが関係しているのか……なんであれ、騎士団長として考えなければいけないことを、農家の俺が理解してやれるとは思えなかったからだ。


「大変……ああ、そうだな。大変だ」


 汗を拭き終わったローザは、決意を示すようにハンカチを握り締め、こう続けた。


「だが、誰でもない私が選んだ道だ。後悔などないさ」

「――ッ、」


 その、固い意志の込められたローザの言葉を耳にし、俺はようやく、先ほど覚えた妙な焦りの正体に気づく。

 俺は、置いていかれたくないのだ。

 真っすぐ騎士の道を突き進むローザに追いつき、肩を並べたいのだ。


 同じ――騎士として。


 とっくに夢など捨てたと思っていた。諦めたと思っていた。

 けれど、王都に来てキャロルやミルルといった、自分の目標や夢を追いかけるひとたちに出会った。

 農家だから、自分が選んだ人生だから、と惰性でクワを握り続けてきた俺を浮き彫りにする、まぶしい光にくらんだ。

 光にくらみ、目を開けると、俺の中で燃えたはずの絵本が形を取り戻していた。

 騎士になる夢が、憧れが、甦っていた。


 農家になると決めたのは誰でもない俺だ。あの夜の決意に嘘はない。

 けれど、今日までの三年間が空虚だったことも、まぎれもない真実だった。


〝空っぽな人間だったのだな〟


 ガラハに呆れられるのも当然である。

 そうした、置いていかれる焦燥感を紛らわすために、俺は事あるごとにローザを案じていたのだろう。

 ハンカチを渡したのがそのいい証拠だ。

 洗濯物を洗い、食事を作り、汗を拭かせて……そうして世話してやることで、俺は前を走るローザと対等になったつもりでいたのだ。


 ああ、さぞ気持ち良かったことだろうな、俺。

 保護者ぶって、輝かしい道を突き進む幼なじみと肩を並べたつもりになるのは。

 何者にもなれていないくせに。なにかを成し遂げたこともないくせに。

 目標も夢も捨てて、空虚で怠惰な日々を送ってきたくせに。

 この口から出る言葉だけは、いつだって一丁前だ。


〝俺だけは、お前の味方だからな〟


 反吐が出る。


「――――ン、レイン?」


 ふと。暗闇に沈みかけた意識を、ローザの声が引き戻した。


「ど、どうした? ローザ」

「いやだから、このハンカチは洗って返すからな、って」

「ああ……いや、大丈夫、そのまま持っててくれていいよ。替えがあるから」

「む。それはなにか? 私の汗がついたハンカチはもう持っていたくないとか、そういう本気で落ち込む類の拒絶か?

「あ、いや、そういう意味じゃなかったんだけど……なんか、悪い」


 ローザのいつもの冗談もさばき切れず、俺はバツが悪そうに視線をそらした。


「…………レイン?」


 いつもの俺の反応ではないからか。ローザが怪訝そうにこちらを覗き込んでくる。

 汗など気にせず近づいてきたローザからは、俺がしてこなかった努力の香りがした。

 俺は半身を翻し、「さて!」とわざとらしく声を上げる。


「そろそろ帰るわ。悪かったな、急に来ちまって」

「あ、ああ……わかった。帰り道に気をつけてな」

「ありがとう。それじゃあな」


 背中越しに言い残して、俺は逃げるように訓練場を後にした。関係者用出入口を抜け、早足で宿屋ビレビハを目指す。

 酔いはとっくに醒めていた。

 代わりに、焦りという燃料が心臓をバクバクと蹴っている。

 だが、不思議と不快な気分ではない。

 むしろ、三年間詰まり続けていた胸のつっかえが取れたような爽快感があった。


 間に合うだろうか?

 いまからでも、ローザの隣に並べるだろうか?


「……騎士になる。農家の俺が、騎士に……」


 うわごとのようにつぶやいた声は、秋の夜風に吹かれて消えた。

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