第30話 魅亡人

「ずいぶんと飲んだわね、レインくん……」


 バーに入店してから三時間後。

 カナリエは個室でひとり、テーブルに散乱した空の酒瓶を眺め、呆れるようにつぶやいた。

 あれからレインは浴びるように酒を飲んだ。カナリエのアドバイスが効いた証だ。飲むスピードはすこし心配だったが、カナリエとしては願ったり叶ったりの成果だった。


 当のレインは、数分前に退店させた。都度、チェイサーに水を飲ませていたおかげか、悪酔いはしておらず千鳥足にもなっていなかった。

 あの様子なら、ちゃんと宿屋ビレビハにも帰れるだろう。

 もし途中でなにかあっても、護衛が助けてくれるはず。


(ほんと、うらやましい)


 カナリエは滅多なことでは酔えない。いわゆるザルだった。

 作戦がうまくいったのだ。今日くらいは、仕事のことを忘れて酔いつぶれたかった。

 そんな風に憂いていると、コンコン、と控えめなノック音が響いた。

 カナリエの返事も待たずに扉が開く。


 入ってきたのは、スーツ姿の若い青年だった。

 上背があり、肩幅も広くガッシリとしている。鍛えているのが一目でわかる身体だ。

 近衛師団の人間だ――帽子を取り、たどたどしく挨拶する青年。緊張しているのか、笑顔がぎこちない。一目で女性経験の少なさが見て取れた。


「こんばんは。連絡してくれてありがとう。鍵を閉めて、そこに座って?」


 はい、と青年は硬い声で応え、施錠すると、カナリエの五十センチほど隣に座った。


「そんな遠くなくていいわよ、もっとこっち」


 ポンポン、とソファを叩くカナリエ。

 青年が戸惑いながら腰を上げて、距離を詰める。

 肩と肩がぶつかる。カナリエはグラスをテーブルに置き、青年のほうを向いた。

 青年の純朴な瞳がカナリエを見つめ返す。

 期待、困惑、それとわずかな欲に満ちた瞳だ。

 近衛師団の仲間になんと言われて来たのか、自然と察することができる。


 カナリエは、青年の両頬にそっと手を添えた。

 唇が触れるほどの至近距離。

 酒の匂いと、カナリエから漂う女性の香りが、青年の思考をスパークさせる。

 これからなにをされるのか想像して、青年が生娘よろしくギュッと目をつむる。


「ダメよ。閉じたら、仕事にならない」


 言われて、青年はすこし不思議そうにまぶたを上げた。

 仕事にならない? ああ、彼女にとって、これはもう仕事なのか。

 そんな考えを巡らせた頃には、トプン、と青年の意識は深い水底に落ちていた。

 青年の瞳から光が失われる。だが、

 カナリエは至近距離から青年の網膜を見つめ続け、仕事に集中する。


【魅亡人】。

 至近距離で見つめ合うことで対象者の精神を操ることができる、誰も知らないカナリエのスキルだ。

 カナリエはそこに、前騎士団長から教わった古式ゆかしい魔術を掛け合わせることで、対象者の肉体をも操ることに成功していた。

 つまりは先日、騎士団寮に押しかけてきた近衛師団――そのうち師団長のラルフを除く全兵士が、カナリエの【魅亡人】にかかっていたわけである。

 カナリエは、【魅亡人】にかかった人間のことを、皮肉を込めて『傀儡かいらい』と呼んでいた。

 つい先日、ローザが自身を傀儡と皮肉ったときは、思わず苦笑いがこぼれたけれど。


(がんばれる)


 網膜に魔力を流し、脳に直接魔術式を刻む。

 その魔術式の回路に【魅亡人】のスキルを発動することで、永続的な精神操作と肉体操作を実現させる。

 ゆえに、魔術式を構築しているカナリエにしか【魅亡人】を解除することはできない。


 完全な傀儡にするまでに十数分を要するため、使い勝手のいいスキルとは言えないが、事前に『堕として』おけばいくらでも活用できる。

 視界の届く範囲でなければ操れない、という点が玉に瑕だけれど。


 本来のスキル能力である精神操作により、傀儡はこの店で『カナリエと性行為をした』と偽りの記憶を擦り込まれる。

 甘く蕩けるような最上級の性体験だ。

 と同時に『騎士団のカナリエは簡単にヤレる』という印象を植えつけておく。

 こうすることで、傀儡は面白がってカナリエというオモチャの情報を近衛師団内で共有するようになる。


 あとは、次の獲物がかかるまで待つだけ。

 厳しい規律で抑圧されたお坊ちゃんたちだ。欲望に負けてカナリエに連絡してくるまで、そう時間はかからない。

 この青年も、まさしくそうした手口に釣られたひとりだった。


(わたしは、がんばれる)


 ただし、誰彼かまわず釣っているわけではない。

 カナリエは、傀儡にする相手を近衛師団の兵士のみに限定していた。

 なにか諍いが起き、国王が騎士団を潰そうと挙兵した際、その凶行を未然に防ぐためである。

 同時にそれは、反乱をいつでも起こせるようにするためでもあった。


 前騎士団長に拾われ騎士団で育ったカナリエにとって、騎士団寮舎は家で、団員たちは家族だった。

 その騎士団を護るためであれば、なんでもする、

 殺人だって厭わない。

 それがカナリエの信条だった。

 殺す相手がたとえ、国王であろうとも。


 無論、カナリエがこのような防衛策を打っていることを、騎士団長のローザは知らない。教える気もなかった。

 汚い仕事は副団長に任せて、主人公はその輝かしい道を突っ走ればいい。

 そして。たどり着いた道の先で後ろを振り返り、自分のことを相棒と呼んでくれたなら、それ以上の喜びはない。

 カナリエはそう、っていた。


(騎士団のためなら、がんばれる)


 と。青年が口を半開きにし、ピクピク、と身体を震わせはじめた。

【魅亡人】の精神操作により、脳内でカナリエとの性行為を開始したのだ。

 記憶だけ偽っても、証拠がなければ嘘だとバレる。

 対象者が果てて、下着にソレを放出するまで、至近距離で見つめ続ける必要があった。


 鼻先数センチの近距離で、青年が獣よろしく呼吸を荒げる。

 視界の下で、青年の下腹部がズボン越しに、はち切れんばかりにふくれ上がっていた。

 その数秒後。青年の身体がブルル、と一際大きく震えた。

 ふくらんだズボンの先端に、じわりと染みが広がっていく。

 終わったようだ――最後に傀儡になっていることを確認して、カナリエは両手を離すと、青年を置き去りにするようにして個室を出た。

 



 

 足早に退店して、夜道をあてもなく進む、進む、進む。

 バーの建物も見えなくなって、中央広場が近づいてきたあたりで、カナリエはピタリと足を止めた。

 よろめきながら近くのレンガ壁に手をつき、その場に屈みこむ。


「……ただの生理現象、ただの生理現象、ただの生理現象……」


 個室内での出来事を記憶から抹消するように、何度も自分に言い聞かせる。


 カナリエは――とんでもなくウブだった。


 お姉さんぶって飄々とした態度を取ってはいるが、内面は誰よりも乙女だった。

 先ほど、冗談でレインに好きと口にしたときも、顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。

 しかし、本人にウブという自覚はなかった。

 こんな方法で傀儡を増やしている上に耳年増なものだから、自分はそういうことに慣れている、と思い込んでしまっていた。


「ま、毎回思うけど、あんなに大きくして痛くないのかしら……って、ちがうちがう!」


 つい思いだしてしまった光景をかき消して、カナリエは深いため息をつく。


 できれば、こんなことはしたくない。

 だが、騎士団のことを……辛すぎる運命を背負っているローザのことを思えば、そんな甘えは許されなかった。

 前騎士団長は古い魔術師の家系で、精霊魔術はもちろん、精霊契約した稀人についても詳しかった。

 稀人が払うことになる、その重すぎる代償についても、無論。

 だからカナリエは、稀人であるローザがどんな人生の結末を迎えるかも、知っていた。


〝団員たちには黙っていてくれよ。特に、幼なじみのレインには〟


 三年前。魔族の軍勢17万匹を殲滅し、ローザが鳴り物入りで騎士団長に就いたばかりの頃。

 精霊契約の代償の話を振ると、ローザは人差し指を口に当て、隠し事をする子どものように笑った。

 笑ってみせたのだ。なによりも残酷な別れが待っているにもかかわらず。


「このくらい、ローザの辛さに比べたら……ッ!」


 気合で羞恥心を抑え込み、カナリエは歩きはじめる。

 精霊契約は、契約者が代償を払うまで破棄することはできない。

 別れのその瞬間が来るまで、ローザにしてやれることはなにもない。

 そんな無力な自分が歯がゆくて、悔しくて、カナリエは情けなさで死にそうだった。

 いっそ泥酔して泣いてしまえば楽になれるのだろうが、カナリエはザルだ。

 素面のまま、こうして辛い現実を噛みしめて飲み干して、進まなければいけない。


「ほんと、残酷」


 カナリエは、このときほど酔えない自分の体質を呪ったことはなかった。

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