第5章 それでも彼女は血を喰らう
夢魔の焦燥①
🧚
郵便受けに入れられた鳩の死体を目撃してから、リコは普段は使われていない二階の客間に閉じ籠もっていた。眞弓に独りで逃げるのかと問われた時はそれを否定もしなかったが、家を出ていく素振りはなかった。僕と眞弓がどうするのかを決めてから、リコも実際にはどうするか考えるつもりなのかもしれない。
「リコさん大丈夫、なのかな」
「どうなんだろ」
リコ抜きでの朝食を終えた頃、心配そうにしていたヒメちゃんの問いに対して、僕は首を傾げる。
ヒメちゃんが朝食の為にリコを呼びに行った時も、彼女は「今日は良い」と部屋の中から返したきり、何も言わなくなったそうだ。
「それよりもあの死体だ」
僕とヒメちゃんよりも早く、とっくに自分の分を平らげてソファに横になっていた眞弓がそう言った。
「あれが脅しであれ警告であれ宣戦布告であれ、無視を決め込むというわけにもいくまい」
「やっぱり、あれはあの人たちが?」
ヒメちゃんが俯きがちになり、上目遣いで僕を見て尋ねた。その唇が微かに震えているように見えた。
「あいつらの仲間がやった可能性は高いと思う」
僕は静かに今想定できることだけを口にした。
「少なくとも奴らの仲間に一人以上、魔の者がいる」
眞弓もそう僕の言葉に続けた。
「それは確かなの?」
眞弓は不機嫌そうに舌打ちをして、頷いた。
「間違いないな。あの夢魔が小娘の匂いに気付いた時、俺はそれがあまりにも小物の物ゆえ気づかなかったが」
眞弓はこの期に及んで微妙にリコに対してマウントを取ろうとしているらしい。その事実にまた溜息が漏れそうではあったが、眞弓がリコの態度に関係なくいつも通りであることに、どのかホッとする自分もいた。
「今回の物は違う。あれはあまりにも臭過ぎる」
眞弓は死体を目にした時のことを思い出したのか、顔を顰めて鼻をひくつかせた。それからゴシゴシと左手で鼻を擦るので、僕がティッシュを手渡すと、何も言わずにそれを引ったくり、鼻をかんだ。
あの死体は、僕と眞弓とで庭の奥に埋めた。倉庫を探すと穴掘り用のスコップが見つかったので、僕が地面に穴を掘り、その間に眞弓が鳩の死体を両腕に抱えて持ってきてくれて、穴の中に放り込んだ。躊躇なく鳩の血と泥まみれになった眞弓を見て僕は慌てたが、そこでは何も言わずに死体に土を被せて合掌し、家に戻るなりごねる眞弓を言い聞かせてシャワーを浴びさせた。本来ならもっと正しい処理の仕方があるのかもしれないが、動物の死体を見つけた時にどう対処すれば良いのか僕は知らなかったし、知っていたとしても生憎、このことをどこか公的な機関に伝えるわけにもいかない、そもそも僕らは、不法にこの家を利用させてもらっているのだから。
「それって、あいつよりも強いってこと?」
僕は頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。眞弓は何も答えない。眞弓だって、そんなことは分かりようがない。どれだけ傲岸不遜な吸血鬼としての人格をトレースしていようと、その実は僕と同じ高校生に過ぎない。いや、それよりも生まれたばかりの人格であり、今の彼女が常識的な判断や知識にも乏しい存在であるということをここ数十日の共同生活の中でも僕は色々と思い知っている。下手をすると、今この場で眞弓こそが最も幼いとも言えるのだ。
眞弓よりもリコの反応の方が気になる。リコはあの惨状を見てすぐに、今回自分は関わらないと決めたように感じた。それは僕が思った通り、あれが椋島よりも高位の魔による仕業だと考えたからなのか、それとも椋島とのことがあって二度とあんなことはごめんだと思っただけなのか。死体を庭に埋めてから僕はリコと顔を合わせていない。
「ごちそうさま」
僕はそう言って、自分と眞弓の分の食器を片付けると眞弓が横になっているソファを見下ろした。
「なんだ」
眞弓は怪訝そうに僕の瞳をじっと見つめた。僕も目を逸らさずに彼女の眼を見つめ返す。こうやって改めて眞弓を凝視していると、眞弓の瞳は深く、吸い込まれそうに感じる。不意に僕は、彼女にキスをした時のことを思い出した。元の眞弓の人格は相変わらず戻ってきそうにない。けれど、今の眞弓のことも僕は大切に思っている。どちらの眞弓も、僕にとっては眞弓に変わりない。眞弓にキスをしたのはあれ一度きりだったけれど、今も僕から彼女を抱き締めて口付けをしたいという欲求が沸々と湧いてくる。僕は眞弓に両手を伸ばそうとして、近くにヒメちゃんもいることを思い出して、ぷるぷると小さく頭を横に振った。
「リコのところに行ってくる」
僕は眞弓にそう伝えた。
「食事をやらないと」
続けてそうも言う。リコのところに行くだけで全然意図は伝わるんだから、ここまで言う必要なかったな、と少しだけ後悔した。口の中が乾いている。僕は口を閉じながら自分の歯の周りを舌で舐めて唾液の分泌を促した。何だかんだで、眞弓とリコの本命の食事の順番は、眞弓が先にするか、同時に行うことが習慣になっている。リコの方が寝室や風呂に僕が一人でいるところに潜り込み、結果それに気付いた眞弓と取っ組み合いの喧嘩を始めることも何度かあったが、リコはあれで眞弓に対しては少し遠慮をしていたのだと僕は思っている。
「好きにしろ」
眞弓はそう言って、ゴロンと横を向いて目を閉じた。
「わかった。ごめん。ありがと」
かける言葉の正解が分からず、そんな風に思いつく色々な言葉を口にして、ヒメちゃんにもリコのいる部屋に行ってくると伝えてから、僕は二階に上がった。
「リコ?」
僕はリコのいる客間の前でノックをして、彼女の名前を呼ぶ。返事はない。
「食事、いるだろ」
リコの返事を待たず、僕はそう呼びかける。リコだって食事は必要だ。だが、もしかしたら今日一日くらいは大丈夫なのかもしれないな、とは思う。リコが僕の体液を求める衝動は、おそらく眞弓程には強くない。ただ、リコが「絶対ないとダメ」と言っていたものだから、リコに僕以外の人間と接触させるわけにはいかないこちらとしては、彼女の言うことをそのまま飲み込むしかなかった。数分待ったが、やはり返事はない。
そこで僕はふと考える。客間にだって窓はある。それにリコは影の中に入り込み、そこを移動することができるという魔としての能力すらある。そんな彼女が、ずっと独りでこの部屋にいるとも限らないのではないか? そう思うと、薄ら寒いものが背筋を襲う気持ちがあった。リコがこの家から去って、僕たちとの関係を断ち切れば、リコはまた人間を襲い出すだろう。それは考えたくない可能性だった。
「リコ?」
僕はまた名前を呼ぶ。相変わらず、返事はない。この部屋は、内側から鍵がかけられるタイプだったっけか。ここ最近、二階の寝室とリビングを行き来するくらいで、書斎の探索だってしていないから、記憶が朧げだ。それにリコだって、普段から僕のことなどお構いなく振る舞っていたのだから僕だって──。
そんなことを考えて、客間の扉のドアノブを握ろうかと手を伸ばしたその時だった。
「入って」
リコが部屋の向こうから、ガチャリと扉を開けた。少しだけ開かれた扉の隙間から、リコはじっと上目遣いで僕を見ていた。リコの表情は、これまでに見たことのない冷たい物だった。いつも作り物の笑顔を顔に張り付かせているリコが、こんな顔をしているのを見るのは初めてだ。僕はごくりと唾を飲む。
「わかった」
僕はリコの開けてくれた扉に手をかけて、客間の中に入る。客間は電気もつけられておらず、窓のカーテンも閉められている。陽の光が全く差し込んでいないのは、雨戸を閉めているからだ。客間だけではなく、万が一外から見られて怪しまれないように、基本的にこの家の部屋は全て雨戸を閉めている。それに一応、眞弓もリコも日中行動することができるとは言え、日光に強いわけではない。
僕が部屋に入るなり、リコがバタンと扉を閉めた。廊下から入り込んでいた光すら遮断され、部屋の中が真っ暗になる。
「ねえ」
りこが、ぬっと僕の背後に立ち、脇の間に腕を差し込んで、手で僕の服の裾を捲り、素手で僕の肌をすりすりと触った。
「どうするか決めたの?」
リコの温かい吐息が耳裏から鼻筋にかけて通る。
「まだ」
僕は正直に言う。
「そっか」
リコは変わらず、僕の肌を弄る。彼女の手のひらが、僕の腹から胸の辺りまでスルスルと滑っていく。
「叶斗」
リコが僕の名前を呼ぶ。背後にいるリコが、どんな表情をしているのか、僕からは見えない。
「キスして?」
リコが耳元で囁いた。彼女の吐息が耳の中に吹き込まれ、僕は身体を震わせる。
「叶斗がこの間したみたいなキスじゃないよ? 前にあたしからしたみたいな、濃厚で官能的で刺激的なキス」
リコの左手が、僕の服の中から首の襟ぐりを通り過ぎ、僕の唇に触れた。右手は未だ僕の胸の辺りを弄っている。
「叶斗の方から、して?」
かつて、リコが僕を夢の中で襲ってきた時のような蠱惑的な声音が、僕の全身を通る。その時と違うのは、その時は夢で、今は現実であるということ。いや、これすらもリコの見せる夢であると言えるのかもしれない。サキュバスとしての力を、普段のリコは意識して封印している。契約の力は、どれくらいお互いを縛るってあの人は言っていたんだったっけか。リコに密着されて身体中を弄られ、ぞくぞくとした感覚で脳が揺さぶられる中、そんなことを思う。
「叶斗がキス、してくれるなら、あたしも我儘言わないかも」
「リコ」
僕はリコの左腕を掴む。僕の唇から彼女の左手を離し、それから手を反対方向に回して、僕はリコに向き合った。暗闇の中ではあるが、部屋に入ってきた時よりは目が闇に慣れてきて、これくらい至近距離であれば、リコの顔の輪郭くらいは視認できる。リコが今度は僕の首周りに両手を回す。その状態で、リコは僕の目を見つめていることも分かる。心臓の鼓動が高鳴る。リコに食事をさせるのも習慣めいてきて、こんなにも彼女の前で緊張したのは、久しぶりだった。
「それはダメだ」
「どうして?」
僕の言葉に、リコは首を傾げる。
「前にも言ったろ。僕は──僕は弱い」
思っていたのとは違う言葉が口から飛び出して、僕は無意識に顔を顰めた。リコから僕の表情は見えているのだろうか。
「だから、僕は僕が自分で決めた線をできるだけ踏み越えたくない」
「人を殺しておいて?」
リコが間髪入れずに紡ぐ言葉に、さあっと僕の身体全体に冷たい物が流し込まれる心地がした。僕はぎゅっと目を瞑る。今でも椋島を手にかけた時の感触は、夢の中でなくたって思い出せる。
「そうだよ」
僕は答えたが、その声は思っていた以上にか細く、自分にすら聞こえない。僕は息を深く吸い込み、僕の首に回されたリコの両腕を掴んだ。それからその腕を下ろして、手を離した。
「そうだよ。だからこそだ。一つ線を踏み越えたからって、他の線もどんどん踏み越えようなんて、思わない。思いたくない」
「……そ」
パチン、という音と共に暗闇が消える。部屋の中に光が灯って、急な眩しさに僕は目を瞑った。その瞬間、僕の唇に柔らかく湿った物が触れる。
「うわっ」
僕は思わず悲鳴を上げる。その様子を見て、リコがケタケタと笑った。彼女の先程までの冷たい雰囲気もまた、暗闇と共に消えたように感じた。
「頑なだなあ。まあでも、それならあたしは今回ホントにパス。すぐに家を出てくってならついてくよ? けど、そうじゃないならこの部屋から出ない」
「……いや、それで良いよ」
僕はホッと一息をついた。どうやら、最悪の想像はしなくていいらしい。リコは安堵の息を吐いた僕を見て、不思議そうに首を傾げた。
「叶斗はそれで良いんだ?」
「リコが嫌って言うなら」
「叶斗はあたしとの主従関係では上なんだから、もっと強く命令しても良いんだよ?」
「そうなんだっけ」
そういえば、リコと契約した時も彼女はそんなことを言っていた気がする。多分、あの人もその辺りのことを詳しく言っていた気がするが、あの頃の僕の頭には、眞弓の為にだったら命だって惜しくないという気持ちしかなかったものだから、そう細かいところまでは聞いてなかったし、覚えてもいなかった。
リコは強く鼻息を漏らす。
「分かった。ご飯でしょ。ありがとね」
リコは慣れた手付きで僕のズボンを下着ごとずり下ろす。あっと僕が言う暇もなかった。いつものような、いつもの調子のリコだ。僕も観念して、リコに身体を委ねる。
「……ん」
リコがいつものように僕の性器を握って咥えたところで、彼女はまた首を傾げた。
「どうしたの」
僕は足の間にいるリコを見下ろす。
「いや……やっぱり今は良いや」
リコはすっと立ち上がる。今度は僕の方が首を傾げた。
「大丈夫って言うなら、良いけど……」
僕はズボンを履き直して、リコを見る。
「勝手にいなくなったりしないでよ」
「何それ? なんか、喧嘩あけに男を引き留める女みたいなこと言うね」
別にそれ反対でも良いだろ。なんで僕の方が女側なんだ。
「いや、何でも」
もしかしたらリコが部屋の窓や家の影を伝って外に出ることを想像していたとは、彼女には伝えなかった。
「信じてるから」
その代わりに何か別のことを言おうと思っていたが、僕の口から出たのはまたも考えていたのとは違う言葉だった。僕は喉元まで出かかっていた溜息を飲み込む。今朝見た物が衝撃的過ぎて、頭もいつもよりうまく回っていないな、と思う。
「ふっ」
リコは僕の放たれた言葉に対して笑いを口から溢した。
「そ。でも、さっきも言ったようにあたしはここから出るつもりないから」
「分かったよ。じゃあ、また」
「……うん。また」
僕は部屋の扉のノブに手をかけて、リコに対して手を上げる。リコはニコリと微笑み、その手に自分の手をパンッと重ねた。ちょっと痛い。
「はあああ」
僕は廊下に出て扉を閉めると、喉元で留めていた溜息を、一気に放出した。
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