夢魔の焦燥②
🦇
首筋から血が滴る。眞弓はその血を、舌を使って丹念に舐め取る。喉元近くに歯を立てて、頸に噛み付き、垂れる血をまた舐め取る。僕はそんな眞弓の様子をちらりと横目で見た。彼女は僕の背中に腕を回して、服をぎゅっと掴みながら、眞弓は焦点の定まらない、とろんとした目をしている。今日の眞弓はいつもよりも丁寧に、一滴たりとも溢さないとでもしているかのように、ゆっくりと吸血をしていた。
「ふッ、ん……」
僕の首を噛み、舐める間、眞弓の鼻から息が溢れる。喘ぐように漏らすその声を聞きながら、僕は眞弓の背中に手を回して静かに口を閉ざしていた。
「ぷ、はぁ」
眞弓は満足したのか、いつもの倍程の時間をかけて吸血を堪能して、僕の背中に回していた腕を解き、真っ直ぐに僕の顔を見た。その表情は先程と同じように蕩けている。僕は思わずドキリとする。眞弓の吐息が顔にかかる。今朝、リコの部屋に行く前に眞弓にキスをしようとしたことを思い出す。今も僕が少し眞弓を抱き寄せてれば、唇を重ねられるだろう。
「それで、あの夢魔は何と?」
僕がそんなことを考えていたら、眞弓が口から深く息を吐いた後に僕に尋ねた。僕ははっと我に返り、あははと誤魔化すように笑う。
「リコね。うん、今すぐにでもここから出ていきたいみたい」
「ふん」
眞弓の表情は、いつの間にかいつものように自信に満ち溢れた、傲岸不遜な吸血鬼のそれに戻っていた。
「奴が独りで逃げると言うなら、俺がまた奴を轢き潰す。そして──」
眞弓は僕の両頬に手を重ねた。急なことに、僕は目を見開いた。
「貴様がその肉塊に、杭を突き刺せば良い。そうすれば、奴は二度と生き返ることなく、身体も残すことなく消え失せる」
眞弓が僕の額に、自身の額をこつんとぶつける。
「いや、そうはならないよ」
僕は迅る鼓動を落ち着けようと、自身の胸を自分の右手で強く押さえ付けた。
「リコは勝手にいなくなったりしない。リコがそう言ってた」
「貴様はそれを信じるのか」
眞弓が淡々と尋ねる。僕は眞弓の手首を掴んで下に下ろす。そして額を離し、眞弓の顔を見て頷いた。
「うん。眞弓だって、そうだろ」
僕の言葉に眞弓は一瞬、目を丸くしたが、すぐに鼻で笑った。
「馬鹿が。俺はあいつのことなどどうでも良い」
眞弓はそう言って僕の手を振り解き、胡座をかいて右の膝と肘をくっ付けて頬杖をついた。
「それでどうするのだ」
「どうするって」
眞弓は舌打ちをする。
「逃げるのか?」
ああ。眞弓の言いたいことを理解した。眞弓としては、あの死体が脅しにしろ何にしろ、それで何もせずにいるというのは屈辱的という思いがあるのだろう。眞弓自身は反撃を望んでいる。
「もし、そうしたら?」
「そうだな」
眞弓はじいっと僕を上目遣いで睨み、口元を歪めた。
「逃げたければ、どこへなりと逃げるが良い。俺は止めん」
自分がどうしたいのかは言わないんだな、と思う。眞弓自身、元より答えの出る問いではない。僕は口から深く息を吸い込んで吐き出した。
「逃げないよ」
「ほう?」
眞弓の眉がピクリと吊り上がる。僕の答えは、彼女が予想していたのとは、違う回答だったのかもしれない。
「決めたんだよ。僕はもう、二度と間違えないって」
椋島に立ち向かった時、僕はあいつを野放しにすることは、みすみす奴の犠牲者を増やすことだと思った。椋島を手にかけた記憶はきっと簡単に薄れるものじゃない。だからと言って、僕はあれが間違いだったとは思わない。
「終わってないんだろ。じゃあ、終わらせなきゃ」
僕は自分に言い聞かせるように、そう口にした。僕は椋島との戦いを、間違いだったとは思わない。けれどここで逃げてしまえば、間違いだったということになってしまう。そう思った。僕はぐっと両手で拳を作った。そうしていないと、体全身が震えてしまいそうだった。
「手伝ってくれる?」
僕は眞弓に尋ねる。眞弓はにやりと笑う。答えは、聞くまでもなかった。
眞弓と僕はお互いに頷き合い、寝室から出て一階に降りた。一階のリビングで、ヒメちゃんがソファに座って待っていた。ゲーム機も何も持たず、静かな部屋でじっと壁の方を見つめている。
「あ、叶斗さん」
僕らが部屋に入ってきた音に気づいて、ヒメちゃんはソファに座ったまま、僕らの方を振り向いた。そして僕と眞弓を交互に見て、小さく息を吐く。
「リコさんはやっぱり?」
「まだ部屋から出る気はないみたい」
「そっか」
ヒメちゃんは少し寂しそうに俯いた。無理もない、と思う。普通じゃない、もしかしたらかなり歪な生活なのかもしれないとしても、僕と眞弓、リコとヒメちゃんでの暮らしはそれなりにうまく行っていた。僕もここ数十日のことは楽しかったとすら、思う。元々、僕らがここにいるのは眞弓の罪から逃がれている途中に過ぎない。その道中でまた罪を犯し、もう元の生活に戻れるような気はしない。
「それでどうするの?」
ヒメちゃんが不安げに尋ねた。僕はゆっくりとヒメちゃんの隣に座る。
「ヒメちゃんはリコと一緒にいて」
「え?」
「リコはこの家に残るみたいだから。後で、僕らがいない間なら部屋から出てくれるかリコにも聞いてみる」
「じゃあ、叶斗さんは?」
僕は目を瞑り、頷いた。
「今夜から、家の前を見張る」
「誰だか知らんがあんな真似をした奴が、脅しにしろ警告にしろ、俺と貴様らをこのままにはせんだろう」
僕の言葉を続けた眞弓の顔を見て、僕は再び頷いた。
「僕もそう思う。何かしらアプローチをかけてくると思う。吸血鬼本人が来ることはなくても、ヒメちゃんにバイトをさせてた奴らとか、誰かしらまた近いうちに」
こうなるまで、気配すら眞弓にもリコにも気取らせなかった相手だ。こっちから相手の居場所を探ることはできなくても、向こうがこちらに接触してくることは間違いないと考えれば、そこで向こうの袖を掴めば良い。
「この家のことは知られてるだろうし、もしものことがあったらヒメちゃんはリコと逃げてほしいんだ」
「そんな……」
ヒメちゃんは震えた声を出した。たかだか二ヶ月、一緒に過ごしただけではあるけれど、そんな間柄でもヒメちゃんは僕たちを心配してくれている。それが僕は嬉しかった。眞弓の罪を背負い、自分でも咎を受け入れて、こんな風に他の人間と接することができるなんて、思ってなかった。だけど、それに甘えていてはいけない。僕たちの選んだ道は、そういうものだと思うから。
「眞弓もそれで」
「良いに決まっているだろう、愚か者めが」
眞弓は、僕の言葉に食い気味に言葉を被せる。それから僕を見下ろして、傲岸不遜な吸血鬼らしく、ニヤリと歯を見せて笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます