魔の残滓③
「何それ」
地面に落ちる鳩を見つめる僕たちの背後から鋭い声がした。僕が振り向くと、そこにはリコとヒメちゃんがいた。ヒメちゃんは唇を噛んで腰を引き気味にしながら、リコの後ろに隠れるようにしている。二人とも玄関での僕と眞弓のやり取りを不審に思い、出てきたのだろう。
「わかんない」
「
僕と眞弓がリコの疑問に答えるのは、ほぼ同時だった。
「中で待ってなよ」
リコにそう促され、ヒメちゃんは僕を見る。僕がヒメちゃんに頷くと、彼女も頷き返して、家の中に戻り玄関の扉を閉めた。
「ねえ、ちょっと何それ」
リコが再び同じ疑問を口にした。そう言われても分からないものは分からない。近所に住む誰かのいたずら? それにしては、度が過ぎている。
「夢魔、貴様は感じないのか」
「何を」
「魔の匂い」
リコはハッとして、郵便受けに近付いた。急いで出てきたせいか、裸足のままだ。
「……する」
リコは舌打ちをする。
「え、え?」
僕は間抜けな声を漏らす。だって、そのことは蹴りがついた筈だろう。僕は椋島を殺した。それで終わりだ。それとも、やはり吸血鬼として不死だった椋島はあれでもまだ死んでいなかった?
「まさか、でもあいつは……」
「あいつは死んでる。間違いない」
狼狽える僕の目をしっかりと見つめ、リコが断言する。
「新聞で確認した」
リコが淡々とそう口にする。
「
僕はリコがつらつらと語る言葉に絶句した。僕は椋島の死がニュースになっていたことを今知った。この二ヶ月間、スマホやテレビを開くこともなかったし、椋島の死体のことは正直、考えないようにしていた。僕は椋島の件は片が付いたと思っていた。いや、そう思い込もうとしていたことに気付く。考えてみればそうだ。あの日、僕たちが椋島から逃した二人も、椋島のあの様子を見ればもうこれ以上関わろうとはしないだろうだとか、自分に都合の良いように考えようとしていた。
「ごめんね。叶斗を変にまた心配させたくなかったから」
「ううん、良いんだ……」
リコが吸血鬼のくせにそうした機微に聡いことは、もう付き合って随分経つのだから、僕だって分かっている。
「あたしのご主人は叶斗だし、叶斗はここに留まる気だった。あたしもそれには異論ないし。でも、あたしはあたしで警戒はしてたよ」
「そっか。流石だね」
僕たちの町で、リコは吸血鬼として何人もの人間を殺して、警察からも魔を狩る者からも逃げおおせていた。僕は知らないところで、そういうリコの用心深さに救われていたのだろう。
「じゃあ、一体誰が?」
これが、実は生きていた椋島の仕業ではないとするなら、誰のせいだというのだ。
「奴の仲間に、他にもいたということだろうよ」
ボソリと眞弓が呟く。それからチッと舌打ちをする。
「この俺に対して、何とも無礼な」
「待って。待ってよ」
僕は眞弓の言葉を制止する。思考が追い付かない。もう終わったことではなかったのか。
「警告ってことなんじゃないの」
けれど、そんな僕の混乱など関係なく、リコが淡々と言った。
「仲間を殺した奴がここにいることは分かっている。だけど、すぐには殺さない」
「そんなの……」
どうすれば良い? いや待て。僕らのことを襲おうと思えば襲えた筈の椋島の仲間が、こうして脅しの手段に出た理由を考えろ。
「殺されたくなければ、ここを立ち去れと?」
「さあ?」
リコは肩を竦める。鳩の死体を見下ろしながらイライラしている眞弓や、事態を飲み込めず冷や汗をかきはじめた僕に比べて、その様子はあまりに冷たい。
「逃げようと思えば殺すって奴かもしれないし? ああ、あたしらには敵わなさそうだから脅しだけに留めたって可能性もないことはない。ま、こんだけ気配消してる奴──奴らかもだけど──だし、それはなさそうとあたしは思うけど、どっちにしてももうこの場所に居るのはやめた方が良いかも」
僕は息を呑む。確かにリコの言う通りか? いや、でもヒメちゃんはどうする? 僕たちについてきてくれるか? この脅しをしに来た奴にとって、ヒメちゃんはどうでも良いか? いや、僕らが椋島と遭遇したのはヒメちゃんとのことがあったからで、寧ろそいつにとってはヒメちゃんこそ殺しの対象になるんじゃないのか?
僕はあのビルの一室でのことを思い出す。今でも鮮明に覚えている。椋島は仲間を躊躇なく、己の餌にした。その仲間が、同じような吸血鬼ではないと?
僕は自身の右手を開き、手のひらを見つめた。鉄杭を奴の心臓に突き刺した時の感触と、ぬらぬらと鈍く月明かりを反射した血の赤を覚えている。同時に僕の脳裏に、眞弓の顔が浮かぶ。吸血鬼に襲われて苦しみに喘いでいた彼女と、動けなかった僕。椋島との闘いの中でも、僕が決意したこと。あの時、僕は椋島から僕らが逃げたところで、更にヒトの血肉を喰らって力をつけ、犠牲者を増やすだけだと考えた。あの時しか、椋島に対峙できる機会はないと、そう思って、僕は奴との対決を選んだ──。
「ねえ、何考えてんの?」
リコの鋭い声が響いた。その声が、ズキンと肌に突き刺さるかのように感じる。普段のニコニコとした表情のリコとは違う。あまり見たことのない顔だ。
「流石にこれは逃げ一択だって。追ってくる可能性もあるかもだけど、対峙するよかマシだよ」
「でも」
「夢魔よ」
僕の反論に被せるようにして、眞弓が強い語気を伴って、リコを睨んだ。それから鼻で笑い、リコを見下すようにして腕を組む。
「あの夜は、お前も協力的だった。なのに何故、今はそんなにも弱腰なのだ」
リコは答えない。代わりに、沈黙を貫いたまま眞弓を睨んでいる。二人が喧嘩するのはしょっちゅうのことだ。けれど、今の雰囲気はそういうことじゃない。
「とにかく叶斗。馬鹿なこと考えないで。あたしは今回は降りる」
「貴様独りでも逃げる、と?」
眞弓は変わらず語気を強く、リコに尋ねる。リコは小さく溜息をつき、今度はしっかりと答えた。
「そうね」
「いや、それは──」
ダメだ。僕とリコが一緒にいて、僕が彼女に食事を提供しているのは、彼女のことを監視する為だった。彼女が僕と一緒にいて、僕と暮らす以上、他の人間を犠牲にすることはなくなる。だから──。
「殺す?」
今度は僕がリコの冷たい視線に、睨まれる番だった。
「椋島にしたみたいに、あたしの心臓にあの杭を突き刺して?」
「それ、は……ッ!」
僕はこれまでのリコとの生活を思い出す。初めのうちは、倒錯した関係だからこそ、線引きはきっちりしようと思った。それを自身に言い聞かせるつもりもあって、リコを敢えて冷たく突き放したりもした。けれど、リコは椋島との対決の時に一緒になってくれた。ヒメちゃんを守ってくれた。眞弓と、犬猿の仲を演じながらも、こうして共にいてくれている。
「ま、それも良いかな。叶斗に殺されるなら、長い長ーい魔としての生、終わらせても。あ、杭持ってこようか?」
リコがにこりと笑顔を見せる。けれど、その笑みは見慣れた彼女の表情とは決定的に違っている。僕は初めてリコと対峙した時のことを思い出していた。僕たちの街の人間を襲っていた彼女が、初めて僕に見せたのも、今見せているのと同じような顔だった。
「夢魔、貴様これ以上勝手なことを──」
「とにかく、叶斗がまた戦いたいなんて言うなら、今回あたしはパス」
リコはそう言って、ひらひらと両手をはためかせて体を翻らせる。リコは郵便受けから離れて玄関まで向かい、裸足のまま外に出たせいで汚れていた足の裏の土をパンパンと手で落としてから、バタンッと大きな音を立てて家の中へと消えて行った。
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