魔の残滓②

 トイレから出て、二階に戻ろうとするとリビングから薄く明かりが漏れてきているのに気付いた。僕はリビングに入り、中の様子を見る。


「あ、ヒメちゃん」

「叶斗さん」


 リビングではヒメちゃんがソファに座って、いつかも持っていた自身の携帯機でゲームをしていた。


「ごめん、トイレ?」

「いえ、眠れなくて」

「そっか」


 僕は少し悩んでから台所まで行き、冷蔵庫の中にあった緑茶のペットボトルを取り出して、グラス二つに注いだ。


「はい」

「ありがとう」


 僕はヒメちゃんに緑茶を入れたグラスを手渡し、少しだけ距離を取って彼女の横に座った。


「叶斗さんも」

「ん?」

「叶斗さんも眠れなかったの?」


 ヒメちゃんはゲームの液晶画面から目を離し、僕の顔を見た。それからハッとしたように少し大きめに目を開き、小さく頭を下げた。


「あ、ごめんなさい。タメ口」

「え? いや、別に良いよ」


 そんなこと気にしてたのか。そういえば、確かにヒメちゃんに初めて会った時、身分証なしで泊まれるラブホの場所を教えてもらった時は、ヒメちゃんは敬語じゃなかった。あれがヒメちゃんにとっては自然体なのだろう。


「そっちの方が楽ならそっちで」

「ホント? うん、だったらそうする」


 ヒメちゃんはおそるおそるそう口にする。そんなヒメちゃんを見て、僕は思わず噴き出した。ヒメちゃんは眉間に皺を寄せて僕を睨んだ。


「笑うことない、じゃん」

「いや、だって。ずっと気張ってたの?」

「叶斗さんたちには助けてもらったし、それに眞弓さんとリコさんも怖かったし……」


 そりゃ男複数人を、見た目は華奢な女の子なのしてしまう現場を見たら、必要以上に警戒もするだろうものだ。それにヒメちゃんは僕と彼女たちの関係を、昨日まで誤解していたわけだし……。


「ごめんなさい。でも正直、私久々にちょっとホッとしてるから」

「え?」

「もう、あいつらに追われることはないんだと思って」

「ああ、いや……まあ、そうか」


 ヒメちゃんに突っかかっていた男たちが今どこで何をしているのかはわからないが、その元締めだろう椋島は死んだ。その事実は、ヒメちゃんにとっては大きな安堵なのだろう。


「ごめん」

「何で謝るの」

「叶斗さんは、辛そうだったから」

「……」


 ヒメちゃんは僕から目を背け、またゲーム機の液晶を見始めてしまった。その手は全く動いていない。もしやとは思ったけれど、さっきの嘔吐の声は聞かれてしまっていたか。できるだけ声を抑えていたつもりではあったんだけど。


「でも、僕はヒメちゃんが敬語やめてくれたのは嬉しいよ」


 話題を逸らすつもりもあって、僕はそう口にする。ヒメちゃんは驚いたように目を見開いて、何度か瞬きをした。それから今度は反対にじーっと目を細める。


「叶斗さんって、学校じゃモテたでしょ」

「へ?」


 思っていたのと違う反応をされ、僕は素っ頓狂に高い声をあげてしまった。


「え? いや、そんなことはないけど……」


 モテるかモテないかとか、あんま考えたことなかった。高校じゃ僕はほとんど眞弓のことしか考えていなかったし……。


「叶斗さん、結構背も高いし筋肉質だし。スポーツとか?」

「いや、部活はやってない」


 中学生までは水泳スクールに通ってはいた。それに眞弓が血を吸われて、あの人に吸血鬼との対峙の仕方をレクチャーされてからはある程度の体作りはしていたし、平均よりは筋力もある方だとは思うけど。


「モテたりはしてないよ」

「女の子複数人とこんな生活しておいてよく言う」

「うっ」


 それはズルい。それに今、僕らがこうしているのはモテるとかそういうの関係ないし。眞弓ともリコとも、なるべくしてこうなった。それだけだ。


「今年のバレンタイン、何個チョコもらった? 義理あり、家族なしで」

「え……確か、四個?」


 眞弓から一つ、放課後学習でも一緒に勉強してて眞弓とも仲の良いクラスメイトから一つ、委員会で一緒の係になって話すようになっていた後輩から一つと、近所に住む中学の頃の先輩から一つだ。


「モテだ」

「ええ……」

「何も貰ってない人もいるんだから」

「ひ、ヒメちゃんは? 部活とかは?」


 自分のことをこれ以上掘られることに耐えきれず、僕は一つ前の話題に無理矢理戻そうとした。


「私も部活やってない」

「そ、そうなんだ」

「親がそういうのやらせてくれなかった。習い事も全部……」


 また思っていたのとは違う方向に話が進んでいく様子に、僕は頭を抱えた。当たり前かもしれないが、お互いのことを僕らは何も知らないのだな、と改めて思う。ふっ、と小さくヒメちゃんが笑い声を漏らした。


「本当、ありがとう」

「そんな何度も言わなくても」

「ううん、お陰で眠れそうかも」


 ヒメちゃんは、グラスに残っていた緑茶をぐっと飲み干し、立ち上がった。


「その前に私もトイレ。叶斗さんは先に寝室戻ってて良いよ」

「うん。僕の方こそありがとうね。気持ち、結構落ち着いた」

「なら、良かった」


 ヒメちゃんは、はにかむような笑顔を浮かべて、早足でトイレに向かった。実際、ヒメちゃんと他愛ない話をしたことで、自分の中にあったどんよりとした感覚はかなり消えていた。もう二度と戻ることはないのだとしても、少しでも学校の話ができたのも、楽しかった。僕も自分の分の緑茶を飲み干して、ヒメちゃんがテーブルに置いたままにした分も一緒に、台所のシンクに空のグラス置いてから、大きく伸びをして寝室に戻った。眞弓とリコはまだ二人ともよく寝ていた。二人の寝顔を確認し、僕がベッドの上に寝転がった頃にヒメちゃんも寝室に戻ってきた。


「おやすみ、ヒメちゃん」

「おやすみなさい」


 今度はすぐには眠れないと思ってもいたが、そうやって言葉を交わして目を閉じると、不思議と眠気が降りてきて、僕は今度こそぐっすりと眠った。朝に目を覚ました時には、寝室には僕一人で、一階からの話し声が聞こえたから、三人ともリビングにいるのだと分かった。僕は布団から抜け出して、一階に降りる。三人ともに二階から降りてきた各々「おはよう」の挨拶をした。リビングには既に四人分、朝食が用意されていた。ヒメちゃんが眠そうに欠伸をしているところを見ると、あの後ちゃんと朝に起きてこれを用意してくれていたらしい。僕は正直にすごいな、と感嘆の息を漏らす。


「リコさん、私お箸用意するの忘れちゃった。持ってきてもらっても良い?」

「おっけーおっけー」


 朝食を用意している間に、ヒメちゃんはリコとも敬語を外す旨のことを話したらしい。ただ、眞弓に対しては敬語のままだった。まあ、あの性格と態度だし、自然と畏まってしまう気持ちも分かる。

 四人で食卓を囲み、いただきますの挨拶をする。少し前のことが嘘みたいに平和な朝だった。


 そんな風にして、この家を拠点とした四人での生活が改めて始まった。ヒメちゃんが食事を作って、僕らが買い出しに行く。ゴミ出しは基本的には僕かヒメちゃん。ヒメちゃんが用意してくれる食事とは別に、眞弓とリコは本命の食事も毎回欠かさずに済ませる。最初のうちは食事の後にしていたが、ヒメちゃんのお陰でかなり規則的に食事の時間を取ることが出来るようになると、食事の用意の間の方が都合が良いということになった。

 それ以外にもヒメちゃんの誘いで、リコも連れて夜にゲームセンターに行くこともあった。眞弓は「くだらん」と興味を示さなくて、僕は眞弓も連れて行きたかったのだが、リコが「頑固者は良いからー」と僕の背中を押して外に出した。以前に少し心配したように、近いうちにいつか尽きるであろうお金の問題もあるが、今はとりあえずこの生活を続けることに注力した。眞弓とリコは相変わらず、些細なことでもよく喧嘩をした。僕とのの順番を争うのはしょっちゅうだったし、眞弓が食べかけのおやつのゴミを捨ててないだとか、リコがソファを占領しているだとかでも言い争いのみならず、眞弓がリコに掴み掛かって噛み付いたり、リコが眞弓に応戦して髪を引っ張って脛を蹴り上げたりと、かなりバイオレンスに喧嘩をすることもあった。けれど、そんな風に争っても、お互いに殆どダメージはなく、一度そんな風に取っ組み合い、殴り合いの喧嘩をしても、次の日には両者ともにケロリとしていた。そんなだから、初めのうちは彼女らを見ておろおろとしていたヒメちゃんも、いつしか「またやってる」と溜息をつくばかりになったし、何なら喧嘩で家具や食器が壊れるとヒメちゃんが二人に怒鳴るなんて光景すら見られるようになり、僕は思わず笑ってしまった。ある意味、これも彼女らの自然体というものかもしれない。

 ──そんな生活が、ふた月ほど続いた。



🪦


 異変を察知したのは、眞弓だった。


「嫌な臭いがする」


 ゴミ出しの日の朝、眞弓はそう言ってゴミ袋を持った僕の横をつかつかと歩いて、僕が行くよりも先に玄関の外に出た。そもそもこの時間に彼女が起きているのも珍しい。生活の中でゴミは出るからゴミ出しはするが、出来るだけ人に見つからないよう早朝にしている。出せなかった時は諦めて次の週にまわしていたから、僕がゴミ出しに行ったのも数えるくらいしかない。この家で普通に人が生活していることは隠した方が良いとも思っているので、外に出る時は気をつけている。だが、眞弓はそんなことを気にする素振りもなかった。


「ちょっと、眞弓!? 待って」


 僕はゴミ袋を一旦、玄関の前に置いて眞弓を追った。眞弓は玄関先の郵便受けの前に立って、佇んでいた。


「何か、あったの」


 眞弓は答えない。その代わり、少しだけ後ずさりをして僕に郵便受けの中を見るように顎で促す。郵便受けを覗き込むこともなく、僕はギョッとした。


「うわっ」


 思わずそう声が出る。手紙の取り出し口から赤い液体が滴っていた。郵便受けの中に、何か肉の塊のような物が詰まっており、そこから滴っている物だと分かる。

 血だ。僕はそう確信する。吸血鬼が日常と結びつく中で、あまりに慣れ親しんだその液体の正体が何なのか、悩むことすらなかった。僕は郵便受けの中に入った塊を素手で手に取る。

 鳩だ。公園でパンくずを狙っているような、間抜けな顔をして鳴いているどこにでもいるような土鳩。その死体が二つ、全身をべったりと血塗られた状態で、ごとりと地面に落ちた。

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