僕と彼女の選択③
食事を終えると、ヒメちゃんはテキパキと食器を片付けて洗い物を始めた。料理にしろ何にしろ、勝手もわからない筈の家の中で慣れた手つきが目立つ。それだけ、繰り返してきたのだろうということが伺える。僕も洗い物を手伝おうとヒメちゃんのいる台所まで向かおうとするのを、リコに腕を掴まれて止められた。
「何?」
「ちょっと良い? 急ぎではないんだけど」
僕は一人洗い物を続けるヒメちゃんと、リビングから動く気配のない眞弓をそれぞれ見る。元の眞弓ならこういう時、率先して動くのだろうが、今の眞弓にはそれを望めない。
「後片付け終わってからにしようよ」
僕はヒメちゃんの方を指差す。リコは何か言いたげに口元を動かしたが、すぐに溜息をついて肩を落とした。
「そうだね。あたしもあんな子一人に全部任せるの、ちょっとムズムズするし」
「リコって案外……」
常識あるよね、なんて言おうとして、僕は口を噤んだ。いや、それはさすがにここ最近の異常に毒され過ぎている。リコは吸血鬼として多くの人間を手にかけ、今もサキュバスとして僕と非常識な関係を結んでいる。
「何か?」
「何でもない」
僕は誤魔化すようにヒメちゃんのところへ早足で行く。
「洗い終わった食器、片すよ」
「ありがとうございます」
ヒメちゃんは、その場でペコリと頭を下げながらも洗い物の手は緩めない。
「あたしも手伝う」
そう言って、リコはコンロに置きっぱなしだった、空になったフライパンを手に取ると、ヒメちゃんを少し横にどかして、カレーの汚れをゴシゴシと落とし始めた。そんなリコにも、ヒメちゃんは小さく頭を下げる。洗い物は四人分の食器と料理するのに使った器具くらいだったので、三人で分担すればものの数分で終わった。すぐにリコが俺の隣に来て、脇を小突く。それから上を指差した。二階で話そう、ということらしい。リコは一足先に階段を登っていった。
「ヒメちゃん、リビング好きに使って良いから待ってて。眞弓、ヒメちゃん任せて良い?」
眞弓は静かに首を縦に振った。ヒメちゃんの前では、眞弓は変に大人しい。よく考えれば、吸血鬼人格の眞弓は僕とあの人以外の人間と話したことはない。リコとは敵対関係からのスタートだったからまた勝手が違ったのだろう。おそらく、今の人格のまま、普通の人間に対してどう接すれば良いのか、眞弓は考えあぐねているのだろう。
そんな眞弓をヒメちゃんと二人きりにして良いものか、少しだけ不安が残る。ただ、今の眞弓であれば、急にヒメちゃんに襲い掛かるようなこともないように思う。これからも彼女と付き合っていく以上、少しは今の眞弓のことも信頼するべきだ。眞弓と一緒に街を飛び出してからこれまで、彼女と文字通り片時も離れないようにしていたが、僕が気絶した時もそうだし、それにも限界はある。僕が眞弓を守りたいなら、同じ気持ちで眞弓を信じたい。
「よろしく。すぐ戻るから」
僕はそう言って、階段の上まで登っていたリコを追いかけた。リコは寝室のベッドの上に座っていた。普段とは違い、コロコロとした笑顔はなりを潜め、真剣な面持ちで僕を見つめている。
「どうしたんだ」
僕もリコの様子に合わせて、強めの口調で言う。リコの表情は、僕と眞弓を襲った時のものと似ていた。まさか、今になって反逆しようとしているわけではないだろうが。眞弓と一緒に登ってこなかったのはやはり失敗だったろうか、と考える。ここ数日で、疲れもあるとは言え警戒心が薄れていたかもしれない。
「食事なら、今日はもう済んだろ」
僕の言葉に、リコは肘と膝を合わせて頬杖をついた。眉間に皺が寄り、何かを迷っているように見える。リコは露骨に嫌そうな顔をして、大きめの溜息をついた。
「それは、またしてほしいのはそうだけど、違くて」
リコは意を決したように、ふっと一息して僕の目を見た。
「君は気付いてないと思うけど、あの子、魔の匂いがする」
「……え」
リコの言葉に、僕はうまく反応できなかった。そもそも、どういう意味なのかを理解できていない。
「あの子からって言うか、あの子の交友関係なのかな」
「それは……ヒメちゃんが家出してから、これまでに、吸血鬼か何かと触れたってこと?」
「どうだろう、それもわかんない。でも、感じたのは確か。ただ道ですれ違うくらいじゃああは匂わない」
「それ、眞弓は分かってるのかな」
下に残してきた二人のことが急に心配になった。でも、あの人の家のおおよその場所を割り出したのもリコだし、眞弓よりもリコの方がそういう匂いに敏感なんだろう。
「眞弓が気付いてないなら、教えた方が良いかな」
「さあ? そこまで面倒見きれないってば」
リコは呆れ顔でベッドの上に体を投げ出した。
「ただ、あたしが気付いたことはちゃんと君には報告した方が良いな、と思ったから。後から文句言われても嫌だし」
「そっか。ありがとう、リコ」
「どういたしまして。ねえ、感謝してるならさ」
「──ダメだ」
僕はリコの言葉を遮った。リコはつまらなさそうに溜息をつくと、すぐにベッドから体を起こした。
「まだ、あたしなんも言ってない」
「水分補給だかおやつだかをくれって言うんだろ」
これまでも、同じような理由で僕はリコにキスをされている。それに僕は抗うことができずに、されるがままにリコのキスを受け入れてしまった。けれど、この間散々反省したようにリコに主導権を握られたままではまずいのだ。彼女が暴走した時に、僕は彼女を止められる側に立たないといけない。頼れるあの人の助けはない。
「ああいうのはもうダメ」
「ケチ」
「──でも」
僕はベッドの上に座るリコに向かって近付く。僕は、自分の息が荒くなりそうなのを何とか抑える。
「え、何?」
僕はリコの顎を掴んだ。まさか、僕にそんなことをされるとは思わなかったらしいリコの目が泳いでいる。心臓の鼓動がうるさい。リコの顎を掴む手が震えている。それに気取られないようにと、僕は反対側の手をリコの頬に添えて、販売にリコの顔を上に向けた。
「ちょっ」
「僕の為にやってくれることで、何も見返りがなくちゃ、今度同じようなことがあった時、リコはもう僕に報告しないかもしれない。それは困る」
僕はリコの口の中に指を入れた。親指と人差し指を使って、無理矢理にリコの口を開ける。そして、自分の口の中でくちゅくちゅと唾液を分泌すると、それをリコの口の中に垂らした。
「……ッ!?」
リコは声にならない声を発して脚をバタつかせた。リコの目が、トロンとする。さっきまでは泳いでいたが、今は焦点が合っていない、と表現した方が正確そうだ。だが、すぐにリコはハッと息を呑むと、自分の両手を股下に挟んで、バタつかせていた脚を内股にして俯いた。僕がそれを見て、リコから離れようとした瞬間、リコは自ら上を向いた。
「ん、あ」
リコはまた目を蕩かせて、口を大きく開けた。その表情に、僕は思わずぞくりと体を震わせる。そのままリコの口に顔を近づけそうになり、僕は自分の右頬をパシンと叩いた。ダメだ。彼女のペースに従ってしまってはならない。僕はまた唾液をリコの口の中に垂らした。今度は自分から口を開けているので狙いやすかった。リコは僕の口から垂れる唾液を漏らすことなく口に含み、ゴクリと飲み込んだ。
「……人間の体液は全部、サキュバスの食事になるんだろ」
僕はそう言って、リコに背を向けた。これ以上リコと対面すると、彼女のペースに飲まれそうだった。
「ねえ、君」
リコは背を向ける僕を呼び止める。
「名前、なんだっけ。かな、かな?」
「……叶斗」
「そう、叶斗だ。叶斗」
満足げな声で、リコは僕の名前を繰り返した。その声にも、油断したら引き込まれそうだ、と思う。
「慣れないことはしない方が良いよ、叶斗?」
「……うるさい」
僕はざわつく心臓を右手でギュッと抑えながら寝室から出て、眞弓とヒメちゃんのいる一階に降りていった。
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