彼女と僕の闘争③
「ど、どうして」
僕の体に悪寒が走った。今目の前にいるのはあの日、眞弓が踏み潰したのと同じ吸血鬼の顔をしている。そんな奴が僕を体を跨ぎ、恍惚な表情を浮かべて僕を見下ろしている。
「どうしてって」
僕の腹に乗る彼女は首を傾げると、僕の目をじっと見つめながら言う。
「不死者たるもの、同族に殺されたくらいで死なないって」
その言葉に、僕は思わず体を震わせた。
あれで死なないというなら、こいつは一体何をどうしたら死ぬってんだ?
「ただまあ、完全復活ってわけにはいかなかったな」
そう言って彼女は、僕の頬に手を添えた。僕はその手を振り払おうとしたが、体が動かない。そんな僕の様子を見て、彼女はおかしそうに笑った。
「せっかくの良い夢から覚めちゃったのは想定外だったけど、拘束は効いてるね」
「は?」
「夢、見てたでしょ。ずっと起きたくないって思うくらい幸せな夢の筈なんだけど」
僕はさっきまで見ていた夢の内容を思い出していた。眞弓と何でもない日常を送る夢は、確かに僕にとって幸福なものだった。
「あれは、お前が?」
僕の問いかけに対して、彼女は楽しげに頷いた。
「そう。今の私は夢魔」
「夢魔……」
言って、彼女は僕の唇に自身の唇を重ねた。
「……ッ!?」
咄嗟のことに、僕は混乱したが、変わらず体は動かない。今僕の目の前で自身を夢魔だと言った彼女はさっき「拘束は効いてる」と言っていた。思えば、夜の路上で初めて会った時も、彼女が言葉を発することで体が動かなくなっていた。吸血鬼としての性質以外に、人を催眠状態に落とす能力のようなものが彼女にはあるようだった。
彼女は僕の唇に吸い付くようにする。途端、急激な疲労感を覚えた。腕立てや腹筋運動などのちょっとした筋トレをし終わった後の負荷が、何もしていないのに体にのし掛かるような感覚。
彼女は唇を離した。気付けば、さっきよりも長くなっている髪をかき上げて、彼女は僕にニッコリと微笑む。その笑みには、僕を見下したような侮蔑の色が滲んでいた。
「吸血鬼ってのは、格上だからね。あの時、君の
彼女は滔々と語り続ける。そこでふと思い出した。眞弓はどうした? 同じ部屋で寝ていた筈だし、あの人格の眞弓がこんな奴を野放しにするわけがない。眞弓の無事を確かめたいが、僕を跨いで拘束する、この夢魔のせいで僕は首すら動かない。
「泣く泣く夢魔まで格を落とした。最初の獲物は私をこんな風にした君って思ったのに、どこか行っちゃってるもんだからさあ」
「……違うだろ」
目の前の夢魔が語る言葉に反論しようとしたら、動かないと思っていた口が動いた。
「ありゃ?」
夢魔は不思議そうに僕の目を見る。僕も彼女を見つめ返した。
「お前を殺したのは、眞弓だ」
自分の格を落とした奴を最初の獲物にすると言うなら、眞弓の方がそうだ。眞弓を無視して僕の方を狙うのは、道理が合わない。それとも、もう眞弓は襲われた? こんな奴に? そう思うと、一刻も早く眞弓の様子を確認しなくてはと焦った。
僕はもう、無力なままでいたくない。
「ああああああ!」
僕は叫ぶ。息を大きく吸って、声の限りに声を出した。夢魔は目を丸くして驚いた表情をしている。その瞬間、彼女が腰を上げて僕にかかる彼女の体重がなくなるのを感じた。
「こっのっ!」
勢いに任せて、僕は上体を起こした。今まで見えない力に拘束されていた体が動く。全身が痺れる。ずっと正座をしていた時に脚がビリビリとするあの感覚が全身にある。普段だったら耐えられない。今だって平気なわけじゃない。けれど、こんなものに屈していては、眞弓の側にいられない。
「ああああああああ!」
痛みを誤魔化すように、僕は叫び続けた。あまりの痺れに涙が両頬を伝う。情け無い。けど、あの日吸血鬼に襲われた眞弓に手を出せなかった時や、初めて眞弓に血を吸われた時に痛みに耐えきれずに失神した時に比べたらマシだ。
「ちょ、待って」
夢魔の顔に、困惑の色が混じる。それだけではなく、理解できないものを見た時の恐怖もか。そんなことを感じながら、僕は彼女に手を伸ばした。
「うげっ」
夢魔の口から、濁った声が飛び出した。僕は彼女の首元に手を掛けている。そのまま腕を首に押し付けるように、自分の全体重をかけて絞めつけた。
──もしも眞弓の吸血衝動の度が過ぎた時。その時に備えてと、あの人から最低限の対処は教わっていた。殆どの場合、人間の力では吸血鬼には敵わないけれど、それでも万が一にでも反撃できる術を知っているか知っていないかでは天地ほどの差がある、と。どんな屈強な相手でも、吸血鬼の体が人体である以上、弱点はある。
たとえば頚動脈。首絞めの目的は相手を窒息をさせることではない。頸動脈を絞め、血流を止めることで、脳への血液供給量を激減させる。そのことで人体は防御反応として、落ちる。
「かっ……! はっ……!」
対峙する彼女の目線の焦点がブレたかと思うと、その体がだらんと弛緩した。そのまま力をかけ続け、僕は辺りを見渡した。眞弓は隣のベッドの上で、穏やかな表情で仰向けに寝ていた。僕はホッと一息をつく。
「眞弓! 眞弓!」
眞弓の名前を呼ぶが、返事をする様子はない。僕は一瞬躊躇いつつも、夢魔の首から手を離し、眞弓の方に駆け寄った。
「眞弓! 起きて!」
僕は眞弓の横について、彼女の肩を揺さぶる。それでも動く気配がない。彼女もまた、さっきの僕のように、夢を見せられているのか? 僕は目を覚ますことができたけれど、眞弓は起きる様子がない。
僕は部屋の中にあったボールペンを手にすると、その先っぽで勢い良く、抉るように手のひらを引っ掻いた。
「あああああ!」
先程までの体の痺れとはまた違う、純粋な痛み。ボールペンで抉られた手のひらから、じんわりと血が滲む。僕は手首をぎゅっと押し込む。手のひらの傷から、血が滴った。
「眞弓……」
僕は再び眞弓の元に向かい、自身の手のひらを眞弓の口元に近付ける。
「おまええええッ!?」
不意に、背後から喉の枯れたような乾いた叫びが聞こえ、僕はビクリと肩を震わせた。その声に僕が振り向いたその刹那に、僕の目の前に鬼の形相の女が現れる。僕に首を絞められ、意識が落ちていた筈の夢魔がいつの間にか、今度は彼女が僕の首を絞められる程に近付いている。彼女の冷たく、思ったよりも華奢な指が僕の首筋に触れた──。
「貴様──ッ!」
僕は思わず目を瞑った。けれど、それとほぼ同時にドシン、という鈍い音が部屋中に響いた。僕は目を開ける。
「あ」
ベッドの下、部屋の片隅で、眞弓が立ち上がっていた。その足元に、あの夢魔が転がっている。
「一度ならず二度までも! 貴様ッ! この俺の──!」
眞弓が大きく足を振り上げて、夢魔の腹を踏みつけた。
「うげっ」
夢魔の口からか細い声が漏れる。口からはどろりとした涎が垂れて目鼻からも体液が流れていた。夢魔は恐怖の眼差しで、眞弓を見上げ、何度も首を横に振っている。眞弓がまた脚を振り上げる。夢魔は顔中をぐしゃぐしゃにして眞弓に向かって抗うように両手を掲げながら、ギュッと目を瞑った。
「──眞弓、待って」
眞弓が足を夢魔の頭に振り下ろそうとしたその直前、そんな言葉が、口をついた。僕の頭には、吸血鬼に襲われて涙を浮かべていた、あの日の眞弓の顔がこびり付いて離れてくれない。その眞弓の表情に、今の夢魔がダブって見てた。
「──何か意見か?」
瞳を大きく見開いた眞弓が、僕を睨む。その顔には、怒りの色がありありと浮かんでいる。この眞弓も、僕が守りたいものには違いない。けれど、それよりも今僕の脳内にこびり付いてチラつく眞弓の顔と同じ表情をしているのは、傲岸不遜な吸血鬼としての人格の眞弓以上に、眞弓に今にも頭を潰されそうになり、自分よりも強大な力に怯えて竦んでいる彼女の方だった。
「そいつ、眞弓が殺しても死ななかった」
僕は言葉を選ぶ。間違えれば、きっとこの眞弓は、僕であっても同じように頭を踏み潰す。そして一度眞弓に頭を西瓜みたいに踏み潰されても尚、こいつは生き返って僕と眞弓を襲いに来た。魔を殺すには、相応の手順が必要になる、とはあの人も言っていた。僕ら人間が生きるレイヤーと違うところで生存する魔には、僕らの世界の常識が通用しない部分がある。
「きっと、また殺しても死なない」
「だからどうした」
「そいつを野放しにしたら。また人を襲うだろ」
僕はベッドから降りて立ち上がると、二人の前まで歩いた。それからしゃがみ込み、夢魔の目を覗き込む。未だ彼女の瞳からは涙が溢れている。頭から血が流れているのは、さっき眞弓に吹き飛ばされた時の怪我か。少しだけ異臭がするのは、さっき僕が首を絞めた時、また眞弓に殺されそうな恐怖に失禁した彼女の下半身から漂う臭いであることも、近付いてわかった。
「なら、僕と眞弓の監視下に置こう」
「はあ?」
眞弓は信じられない、という風に僕を見下ろした。眉間に皺が寄り、理解できない物を見るような眼差し。そうだろうな、と思う。こいつには理解できないのかも知れない。僕だって、まともじゃないことを口にしているのは分かっている。
「ほら、血だ」
夢魔との契約が、吸血鬼と同じなのかは分からないが、こいつだって元は吸血鬼だ。概念とはしてそんな違うものでもないんじゃないか。わからないけれど、そのつもりで僕は彼女に近付く。幸い、僕の手のひらからは既に血が滴っている。彼女も額から出血している。僕は彼女の口に、手のひらを押し付けた。彼女は僕の腕を掴む。眞弓が拳を振り上げたが、僕はそれを反対側の手で制す。眞弓は渋々振り上げた拳をおろしたが、それでも脚をぶらぶらと揺らしていつでも夢魔を蹴り上げて攻撃できるような体勢になっているのが見てとれた。
僕の腕を掴んだ夢魔は、貪るように僕の手のひらを舐めた。少しのくすぐったさを感じて、小さく笑みが溢れた自分の頭のおかしさを自覚しつつ、僕は夢魔の額に口付けをする。夢魔がそうしているように、僕は舌を突き出して、額から溢れる血を舐めとった。彼女の涙や鼻水や他の体液も混じったようなドロドロとした物が、僕の口の中に入り思わず吐きそうになったが、それでも僕は血を舐めとる。
そうしていると、頭がふわふわし出した。眠気にボーッとするような感覚。僕の意識とは関係なく、瞼が落ちる。
叶斗、と眞弓が大声で僕の名前を呼んだような気がしたが、僕の意識は既にそれが現実か幻聴かも分からなくなって、まるで舞台の灯が消えるみたいに、フッと暗転した。
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