【06-1】ヒ素(1)

高遠純也たかとうじゅんやが死亡した事件の翌日、鏡堂達哉きょうどうたつや天宮於兎子てんきゅうおとこは、被害者の司法解剖の結果を確認するため、〇〇大学法医学研究室に、国定淳之介くにさだじゅんのすけ教授を訪ねていた。

二人を教授室に招き入れた国定は、高遠の剖検報告書を鏡堂に手渡して言った。


「今回の遺体の死因は至極明確だよ。

急性のヒ素中毒だった」

「ヒ素中毒ですか!?」

国定の言葉を聞いて、鏡堂と天宮は同時に驚きの声を上げる。

彼らの予想とは、大幅に違っていたからだ。


「その通り。詳しくは言わんが、各種臓器だけでなく皮膚に至るまで、典型的な症状が現れていた。

そして何よりも、毛髪と爪からヒ素が大量に検出されているので、間違いないね」

国定はそう断定的に言って、戸惑う刑事たちを見る。


「先生、ヒ素が原因というのは分かりましたが、その、ヒ素というのは酸素や二酸化炭素のように、空気中に存在するものなのでしょうか?」

「それはあり得んね。

土壌の中には存在するが、大気中には意図的に散布でもしない限り、存在しない」

国定は鏡堂の疑問を即座に否定する。


すると鏡堂は、更に困惑した表情で国定に訊いた。

「先生。では今回の被害者は、どこからヒ素を吸い込んだというか、呑み込んだんでしょうか?」

その質問に対して、国定はそれまでとは違って、歯切れの悪い答えを返す。


「報告書にも書いたが、そこが私も明確に結論が出せない点なのだよ。

通常ヒ素による中毒は、口からの摂取によって起きるものだ。


<愚者の毒>という言葉を、君たちが知っているかどうかは分からんが、ヒ素、まあ正確にはヒ素化合物は、古来毒殺に用いられてきた。

その際にも食べ物や飲み物に混ぜて、ターゲットに摂取させるのが一般的だ。


実際今回も、食道や胃から大量のヒ素の痕跡が検出されている。

しかしそれに加えて気道にも痕跡が残っていたし、皮膚、特に露出部分からも検出されているのだよ」


「それはどういうことなんでしょうか?」

「つまりヒ素化合物を顔や手に浴びると同時に、口から大量に摂取したことになる」

「どのような方法を採ると、そんなことが可能なんでしょうか」

「私には分からんね。

以前も言ったと思うが、それを調べるのが君たちの仕事だと思うよ」


国定の口調は相変わらずにべもない。

そして鏡堂にはそれに対して、返す言葉もなかった。


国定の元を辞して、難しい顔で車に向かう鏡堂を見て、天宮が恐る恐る言った。

「鏡堂さん。蘭花先生のお知恵を借りてはいかがでしょうか?」

その言葉に鏡堂が即座に反応する。

「お前、なにを。

それより何でお前、あいつのことを<蘭花先生>なんて親し気に呼んでるんだ」


「それはあの後色々と」

天宮は鏡堂から目を逸らして口籠った。

その様子を見て、鏡堂は嘆くように言った。

「早速取り込まれたのか。

もしかして、例の女子会とかじゃないだろうな」


「皆さん忙しいので、女子会はまだです。

ただLINEのやり取りをしてるだけですから」

少し切れ気味に言われた鏡堂は、勢いに押されて黙り込む。


「そんなことより、私たち素人がいくら考えたって、埒が明かないじゃないですか。

だから蘭花先生の知恵を借りましょうよ」

「しかしあいつと会うのはなあ」

そう言って渋る鏡堂に、天宮が切れた。


「私一人で、蘭花先生にお会いしてきます。

いいですよね?」

――こいつ最近怒りっぽいよな。

天宮の言葉にそう思いながら、鏡堂は渋々頷くのだった。


その日の正午前。

早速緑川蘭花みどりかわらんかから約束を取り付けた天宮於兎子てんきゅうおとこは、〇〇大学の流体力学研究室を訪れた。


講師室の扉は開け放たれていて、中を覗くと彼女に気づいた蘭花が席から立ち上がる。

「於兎子ちゃん、いらっしゃい。

今日は、達哉は一緒じゃないの?」

いつの間にか、呼び名が<天宮ちゃん>から<於兎子ちゃん>に替わっている。


自分への親しみが増したのだろうと思いながら、天宮は答えた。

「鏡堂さんはちょっと」

天宮が言葉を濁した意味を察した蘭花は、意地悪そうな笑みを浮かべた。

「私に会うのが照れくさいのね。

女々めめしいやっちゃなあ。

あ、女々しいってジェンダーダイバーシティに引っ掛かるんだっけ?」


天宮がその勢いに圧倒されていると、蘭花は白衣を脱ぎながら言った。

「お問い合わせの件だけど、私は専門外なんで、専門家を見繕っておいたわ。

ランチの約束をしているから、今から行きましょう」

そう言って蘭花がさっさと歩き出したので、天宮は慌ててその後に従った。


大学内の食堂は昼時ともあって、学生で込み合っていた。

天宮も〇〇大学に通っていたのだが、文系だったため理系学部のキャンパスの食堂に来るのは初めてだった。


注文した日替わりランチのトレイを持って蘭花の後についていくと、窓際の席でこちらに手を振っている、二人連れの女性が見えた。

彼女たちが待ち合わせの相手のようだ。


蘭花と並んでテーブルに着くと、挨拶する間もなく天宮の前の席に座った女性が、顔を覗き込んで来る。

「本物の刑事さんだ。初めて見た。カッケー」

それを隣の席の女性が、「止しなさいよ」とたしなめる。

天宮はいきなりのことだったので、面食らってしまった。


「この二人はうちの大学の教員で、弓岡さんと田村さん。

今日は於兎子ちゃんから問い合わせのあった件で、知恵を借りることにしたの」

そう言って蘭化が二人を紹介すると、天宮の正面の女性が軽く会釈する。

弓岡恵子ゆみおかけいこでえす。

地質構造学講座で助教やってまあす」


続いて蘭花の正面に座った女性も、天宮に笑顔を向けた。

「初めまして。

田村薫たむらかおると申します。

薬物作用学講座で、同じく助教をしています」


慌てて天宮も挨拶を返す。

天宮於兎子てんきゅうおとこと申します。

県警捜査一課に勤務しています。

本日はお忙しいところ、お時間を取って頂きありがとうございました」


「それじゃあ話は食べながらにしようか」

互いの自己紹介が終わったのを見て、蘭花が三人を促した。

弓岡と田村は既に半分ほど食べ終わっていたので、残りを食べながら早速話を始める。

天宮と蘭花も自分の分を食べながら、二人の話を聴くことにした。


「先ずは質問の一つ目。

ヒ素がどこにあるかということですけど」

そう言って弓岡恵子が話し始める。


「単体、化合物とも、ほぼ地中に存在していて、誰かが意図的に散布しない限り、空気中には存在しないと言い切っていいと思います。

地下水や井戸水には、地中から溶け出してることもありますけど」


「それはどうしてですか?」

「ヒ素も化合物も、常温では個体だからでえす。

確か金属ヒ素の昇華温度って、600℃くらいじゃなかったかな」

その答えに頷いた天宮は、

「地中のどこにでもあるんでしょうか?」

と訊いた。


「微量であれば、そこら中にあると言ってもいいんですけどお。

ヒ素っていうのは、土壌汚染対策法で第2種特定有害物質に指定されてるんですね。

つまり、毒物扱いされているということなんです。


なので、土壌中とか水中のヒ素濃度は、かなり規制が厳しいんですよ。

とは言っても、農薬とか防腐剤とかに使われているで、極端な話、私たちって毎日少しずつヒ素を採ってることになるんですけど」


「農薬に使われてるんですか」

「その辺りの規制も厳しいんですけどね。

取引量とか取引先とか、結構厳しくチェックが入る筈ですよ」


「すると町の中に、沢山ある訳ではないんですね?」

「殆どないでしょうねえ」

そう言って弓岡は、付け合わせのポテトフライを一つ口に入れた。


それを見て、今度は田村薫たむらかおるが周囲を見回し、声を潜めて天宮に訊いた。

「天宮さん、これは殺人事件の捜査に関わることなんですよね?」

天宮も彼女に釣られて周りを見回し、無言で頷いた。

すると田村は、今度は蘭花に目を向ける。

「でしたら蘭花先生、ここからの話はあまり人に聞かれない方がいいのでは」


「それもそうね。

それじゃあ、さっさと食べてしまって、私の部屋に移動しようか。

二人とも都合は?」

蘭花が確認すると、弓岡と田村は一斉に頷いた。

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