【03】炸裂!緑川蘭花
立て続けに発生した二件の不審死に対して、〇〇県警刑事部は何れも事件性はなく、偶発的な事故として取り扱うことを決定した。
一件目の
そして二件目の集団二酸化炭素中毒の件は、会場内の換気の問題で、出席者の呼気中の二酸化炭素が充満したという、かなり現実離れした原因が採用されることになった。
現場で人為的に二酸化炭素が撒かれた形跡が認められなかったため、そのような結論を採用せざるを得なかったというのが実情であった。
それはつい最近彼が経験した事件で、金属を自在に操り、人を殺害するという、信じられない犯行の手口を目の当たりにしていたからだ。
しかしその事件については、厳しい箝口令が県警本部長直々に言い渡されており、公の場でそのことを主張することは出来なかった。
更に今回の二件の<事故>では、前回の事件のように明確な犯行の証拠が残されていなかったため、鏡堂が事件性を主張しても、それを証明することは困難だと思われた。
もし空気を自在に操ることが出来る犯人がいて、今回のような犯行に及んだのだとしたら、それは正に完全犯罪と言えるだろう。
そのような犯行を証明する方法が、鏡堂には思い浮かばなかった。
しかしだからと言って、そのまま放置することは出来ないと、彼は考えている。
もしそのような犯人が存在するのであれば、また同様の手口で、犯行に及ばないとは言い切れないからだ。
そして少なくとも犯行手段の原理くらいは、把握しておくべきだと鏡堂は考えた。
先日〇〇大学法医学教室の
そこで彼は、鑑識課の
彼女に酸素や二酸化炭素のようなありふれた物質で、人が死に至る原理を説明してもらおうと思ったからだ。
鏡堂から、予め質問事項を書いた紙を受け取りながら、国松由紀子は言った。
「姉も科学者だから、基礎的なことは分かると思うけど。
なにしろ専門分野じゃないから、あまり期待しない方がいいよ。
それにしても、どうしてこんなことが気になるの?
この前の事故絡みだということは分かるけど」
その問いに口を濁す鏡堂に、国松は「まあいいや」と言って、姉への取次を引き受けてくれた。
そして国松佐和子との面会当日、鏡堂には
「何であんたたちがついて来るんだ?」
「だって興味あるじゃん」
「私は鏡堂さんのバディですから」
鏡堂が困惑して訊くと、二人から返ってきたのは、にべもない答えだった。
天宮の運転する車で〇〇大学に到着した一行は、材料形態制御学講座と書かれた研究室に向かった。
研究室で迎えてくれた国松佐和子は、開口一番彼らに告げる。
「問い合わせの件だけどね。
どうせなら専門家から話を聞いた方がいいと思って、話を通しておいたわよ。
今日来るって伝えたら、時間取ってくれるって。
ここの真下にある<流体力学講座>の講師室で待ってる筈よ」
それを聞いた鏡堂たちは、国松佐和子に礼を述べ、早速下の階に向かった。
<流体力学講座>と書かれた研究室は、上の階とまったく同じ構造で、中央の廊下を挟んでいくつも部屋が並んでいる。
その中の<講師室>と書かれた扉をノックし、
扉を開け室内に入ると、白衣姿の長身の女性が迎えてくれる。
その女性を見た瞬間、鏡堂が絶句して固まったしまった。
国松由紀子も驚いて目を丸くする。
「あらあ、誰かと思えば達哉じゃない。
久しぶりねえ。
由紀子さんもご無沙汰でえす」
笑顔で言いながら近づいて来るその女性は、目元くっきりの凄い美人だった。
スレンダーな体型は、白衣の上からでもモデル並みのプロポーションであることが見て取れる。
「佐和子先生から刑事さんが来るって聞いてたけど、まさか達哉だとはね。
びっくりい。
そうか。佐和子先生知らないんだ」
そう言いながらその女性は、長身を屈めるようにして天宮於兎子の顔を覗き込んだ。
「あなたも刑事さん?
初めまして。
鏡堂達哉の元妻の
あなたお名前は?」
「て、天宮と申します。
初めまして」
余りの驚きに辛うじて名乗った天宮に向かって、緑川蘭花は満面の笑みを向ける。
「あらあ、可愛い方ね。
達哉の相棒なの?
こいつのお守するの大変でしょ?
あ、あなた今こう思ったわね。
『鏡堂さん、どうしてこんな超絶美人の奥さんと別れたんですか?』って。
よし、この際だから説明してあげましょう」
その言葉を聞いて、「お前、ちょっと待て」と狼狽える鏡堂を、蘭花は笑顔で黙らせる。
国松由紀子は手で口を押え、爆笑を堪えている。
「私と達哉は大学の同じ学年だったの。
クラブで知り合ってね。
若気の至りでお互い
ところがどうしたことでしょう。
この刑事馬鹿は仕事一筋で、可愛い奥さんを顧みないし、それを
そして夫婦のすれ違いが続いたところに、私に海外留学の話が持ち上がったのね。
これはいい機会だと思った私は、達哉君に三下り半を突き付けたやったという次第です。
もちろん円満離婚よ。
お分かり頂けたかしら?」
天宮は目を丸くしながら、無言で頷いた。
それを見て満足したのか、蘭花は自席に戻りながら三人にも席を勧める。
「さて、余談はこれくらいにして、本題に入りましょうか。
達哉が来ると知ってたら、もうちょっと詳しく調べといてあげたんだけどね」
それを聞いた鏡堂が、何か言いかけるのを、蘭花は手で制する。
「心配しなくても、もらった質問にはきちんと答えてあげるから。
あなたの元妻を信じなさい」
彼女の前では、鏡堂はまるで子供扱いだ。
「まずは基本的なところから始めましょうか。
気体の分圧についてね。
由紀子さんには分かり切ったことだと思うけど、我慢して聞いてね」
そう言って蘭花は、鏡堂たちに説明を始める。
「気体の分圧というのは、混合気体において、ある一つの成分が混合気体と同じ体積を単独で占めたときの圧力のことね。
分かりにくいか。
ここにサイコロ型をした気密仕様の箱があるとしましょう。
その中の空気の圧力は1気圧、それは分かるわよね。
それで空気中の酸素の容積比は約21%だから、箱の中の空気から酸素以外の分子を全部取り除いた時の、箱の中の圧力は何気圧になるでしょうか?
はい、天宮ちゃん答えて見よう」
いきなり<ちゃん>付で指名された天宮は、まごつきながら答えた。
「0.21気圧、ですか?」
「正解、よく出来ました。
そしてそれが大気中の酸素分圧ということになるの。
分かるかな?」
鏡堂と天宮は一斉に頷く。
二人の様子を見て満足げに微笑んだ蘭花は、話を進める。
「そして次の質問は、酸素分圧を2気圧まで上昇させることが出来るか、だったわね。
答えはYes」
「出来るのか?」
鏡堂が思わず訊き返すと、蘭花はにやりと笑う。
「条件付きでね」
「条件付き?」
「ええ、そうよ。
高校の化学で習った、気体の状態方程式を憶えてるかな?
PV=nRTという式ね。
この場合Pは圧力、Vは容積、nは分子数、Rは気体定数で、最後のTが絶対温度ね。
つまり圧力というのは容積に反比例し、分子数と温度に比例するのね。
だから一定の容積の空間に大量の空気を送り込めば、その空間内の空気圧全体が上昇して、酸素の分圧も上昇するということ。
スキューバダイビングで使うボンベには、圧縮空気を詰めているでしょう。
あの原理よ」
「ちょっと待ってくれ。病理学者の国定先生に聞いた話では、いくら酸素を詰め込んで100%にしても、1気圧以上にはならないという話だったぞ」
鏡堂の反論に蘭花は質問で返す。
「それって開放された空間での話なんじゃないの?」
「屋外での話だが」
「それは国定先生の仰る通り無理ね。
さっきも言ったけど、大気圧は私たちの住んでいる付近では常に約1気圧なの。
大気の成分である窒素や酸素や、その他諸々の分子を集めた全体の圧力という意味ね。
だけど気体分子というのは、運動エネルギーを持って活発に運動しているから、開放された空間では、一定の容積の中にある分子数は一定値になるの。
簡単に言うと、私たちの周りのある領域を、切り取って見てみるとしましょう。
その中にある気体分子全体の分子数を100個とすると、通常の状態でその領域内には100個以上の酸素分子は入らなくて、それ以上詰め込もうとしても、100個を超える分子はその領域外に出て行っちゃうということね。
だからその領域の中の気体の圧力は、分子100個分の一定値になるのよ。
分かるかな?」
「先程先生は、気体の圧力は温度にも比例すると仰ったんですが、温度が高くなると、どうなるんでしょうか?」
鏡堂に替わって、今度は天宮が質問すると、蘭花はにっこりとほほ笑んだ。
「いい質問ね。
例えば100個の分子が入った領域の温度が瞬間的に上昇すれば、その領域内の気体の圧力も瞬間的に上昇するということも考えられるわね。
しかし開放された空間では、温度上昇によって運動エネルギーが増大した気体分子が活発に動いて外に拡散するから、領域内の分子数が減って圧力が下がるはず。
そして領域内の熱量が外に拡散するに従って温度が下がり、時間が経つと元の状態に戻ってしまうのよ」
「最初の質問に戻るが、屋外でその酸素分圧というのが上昇することはないんだな?」
鏡堂が念を押すと、蘭花は大きく頷いた。
「魔法か何かで空間を密閉して、その中に酸素をじゃんじゃん送り込まない限り無理ね。
そんな魔法使いがいたら、こっちが会ってみたいくらいかな」
その答えに鏡堂は大きくため息をついた。
その様子を気の毒そうな顔で見た蘭花は、次の話題に移る。
「次は二酸化炭素だったわね」
蘭花の言葉に、鏡堂と天宮は気を取り直した。
「質問の趣旨は、二酸化炭素中毒についてだったと思うけど、こちらは酸素より遥かに低濃度で傷害が発生するみたいね。
現在の大気中の二酸化炭素の容積比は0.04%と言われているけど、それが3 - 4 % を超えると頭痛、めまい、吐き気の症状が出て、7 % を超えると意識を失うようね。
そのままの状態が続くと、死亡もあり得るということらしいわね」
「それは1気圧の大気中でも起きるのか?」
鏡堂の質問に、蘭花は肯く。
「1気圧の大気中の濃度が7%を超えると、二酸化炭素の場合は人体への毒性が現れる。
そこが酸素との違いね。
酸素の場合は1気圧の空気成分を100%酸素に置換しても、短時間では毒性は現れないらしいから」
彼女の答えを聞いた鏡堂は、少し考えた後、顔を上げた。
「最後にもう一つ、知っていたらでいいんだが。
何かの気体を吸って、興奮状態になることってあるのか?」
その質問に蘭花は少し難しい表情を浮かべた。
「私は医学系の専門家じゃないから、はっきりとしたことは知らないけど。
例えば窒素でハイになるという話は聞いたことがあるわね」
「窒素?」
「そう。大気の主成分ね。
ダイバーに稀に起こる<窒素酔い>という症状があるらしいわね。
確か4気圧くらいの窒素を吸い込むと、お酒に酔ったのと同じような状態になるとか。
まあ、それも通常の状態では起こらないけど」
「つまり酸素と同じで、1気圧の大気中では起こらないということだな?」
「そう、達哉も随分と理解が進んだようね。
それで質問は終わりかな?」
鏡堂が肯くと、蘭花はにんまりと笑った。
「では最後に私から。
天宮ちゃん、こんど佐和子先生も交えて、4人で女子会をしましょう。
議題は『鏡堂達哉の光と闇について』ということで。
予定は由紀子さん経由で知らせるからよろしくね」
その提案に天宮は眼をぱちぱちさせて驚き、国松由紀子は遂に腹を抱えて笑い出した。
そして鏡堂は、「お前な」と言ったきり、言葉を失う。
学生への講義があるという緑川蘭花の言葉に、鏡堂たちは研究室を辞した。
そして県警本部に帰庁する車中で、鏡堂は終始憮然とした表情を浮かべている。
「蘭花ちゃん、久しぶりに会ったけど、相変わらずスーパーハイテンションだったわね。
あ、言っとくけど、姉は鏡堂君と蘭花ちゃんの関係を知らないから。
今日のことは、悪気はないと思うよ。
念のため」
国松のその言葉に、鏡堂は「分かってるよ」と憮然とした声で答える。
そして運転席の天宮に向かって、さらに憮然とした声で言った。
「あいつは言い出したら聞かないから、女子会に行くのは仕方ないが、あいつの言うことは話半分に聞いておけよ」
その言葉を聞いて天宮は目をパチクリさせ、後部座席の国松は声を殺して笑いこけるのだった。
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