【02】不審死(2)

「国定先生。申し訳ありませんが、先生の仰る意味が理解できません。

酸素というのは、空気中にある酸素のことを仰っているんですか?」

鏡堂が困惑した表情で尋ねると、国定淳之介くにさだじゅんのすけは即座に頷いた。

「勿論そうだよ」


「先生。酸素を吸って、人間が死ぬようなことがあるんでしょうか?」

「通常では起こらないが、酸素分圧がかなり高い状態で呼吸すると、人体に傷害が起こる。

そして今回の遺体のように、深刻な傷害を受けた場合は、死に至ることになる」


その言葉を聞いて、鏡堂は益々混乱した。

「それは例えば、周囲の酸素の濃度が高いと、傷害が発生するということでしょうか?」


「濃度というよりは、酸素分圧の問題だね。

高濃度ではなく、高分圧になった場合に人体への傷害が発生する。

尤も、酸素濃度が高いと、物質の可燃性が昂進するから、別の意味で危険だがね。


人体への毒性に関しては、大体2気圧程度まで分圧が上昇すると危険とされているが、それ以下でも暴露時間によっては、傷害は十分発生し得るだろうね」


その言葉に、鏡堂と天宮は揃って首を捻った。

しかし国定は、二人のその様子にはお構いなしに説明を続ける。


「今ここで君たちに、気体の圧力に関する講義をする時間はないから、解剖所見だけを説明しよう。

詳細は剖検報告書に書いたから、そちらを見てくれ。


澤村氏の遺体の主な特徴だが、気管及び肺の損傷が著しい。

心臓、肝臓、腎臓などの主要臓器にも損傷が認められ、溶血も起きている。

そして最も特徴的なのが、網膜の損傷だ。


これらの特徴を総合的に判断すると、酸素毒性による傷害という結論に至る。

もちろん毒物による傷害という可能性も考えられるが、遺体の体組織と血液から、毒物の痕跡は認められていない。

結論としては、死因は酸素中毒ということになる」


早口で一気にまくしたてる国定に、鏡堂たちは圧倒されて声も出ない。

「これで用は済んだ筈なので、私は仕事に戻るが、まだ他にあるかね?」

そこで話を切り上げようとする国定を、鏡堂が制した。

「先生、もう一点だけお訊きしたいんですが」

「構わんが、手短に頼むよ」


「承知しました。

実は澤村さんは、屋外で突然倒れて亡くなられたんですよ。

先生が仰った高分圧という状況は、屋外でも起こり得るんでしょうか?」


「君の言う<屋外>が、何か特別な環境ではなく、通常の<建物の外>という意味であれば、絶対に起こらないだろうね」

国定からの答えはにべもなかった。


しかし鏡堂は、彼に食い下がる。

「例えば澤村さんの周囲を、何らかの方法で酸素100%の状態にしても、酸素中毒というのは起こらないんでしょうか?」

その問いに国定は、やれやれという表情を浮かべる。


「いいかね。

大気圧というのは平地にいる限り、1気圧なのだよ。

だから人間の周囲の空気組成が、すべて酸素に入れ替わったとしても、1気圧にしかならない。


酸素が人体に毒性を示すのは事実だが、それは特殊な環境下でしか起こらない現象だ。

例えばスキューバダイビングや、医療分野では高酸素療法の際にリスクがあると言われている。

後は新生児への治療の一環で酸素補給を行った際にも、傷害の発現が報告されているくらいだな」


「通常の状態ではあり得ないということですが、万が一起こるとすればどんな状況か、先生のご意見をお聞かせ願えれば」

鏡堂は尚も食い下がったが、彼の努力は国定によって一蹴される。

「それを調べるのが、君たち警察の仕事ではないのかね?

私の仕事はあくまでも司法解剖と、その結果を警察に伝えることだと思うが」


そのご尤もな意見に、鏡堂はぐうの音も出ない。

二人の刑事は、国定に礼を述べて剖検報告書を受け取ると、彼の研究室を後にした。


同じ日の夕刻、〇山市民会館の中会議室では、<靜〇川南岸地域リゾート開発計画>に関する公聴会が開かれていた。

公聴会は、開発推進派と反対派の両方が参加し、意見交換を行うという趣旨で、県が主催したものだった。


推進派の論者として演壇に登ったのは、県会議員の黒部一と県商工会議所理事の松木悟朗の二人で、リゾート全体のデザインを担当する、建築プロデューサー兼デザイナーの渡会恒わたらいひさしもオブザーバーとして演壇に端座していた。


黒部は県選出の与党衆院議員嵯峨利満さがとしみつの派閥に属する県議会議員で、開発計画の顧問を務めている。

そして松木は、<靜〇川南岸地域リゾート開発計画>実行委員会の、委員長の任に付いていた。


一方反対派の論者としては、<靜〇川弥生遺跡を保護する会>代表の椹木健作さわらぎけんさくと、弁護士の桐山隆司きりやまたかしが演壇に登っている。

桐山はリゾート計画の一部として政府に申請を行っている、カジノ誘致に反対する立場だった。


二人ともリゾート計画そのものに反対しているのではなく、椹木はリゾート候補地内にある、遺跡があると想定されている一部区域の保全を主張しているのであり、桐山もカジノ誘致の一点のみに反対しているのだった。


そして推進派、反対派の演者が、それぞれ自身の主張について説明し終わった時、突然会場の雰囲気がおかしくなった。

会場には400人の聴衆がいたのだが、前列付近に座っていた一人が、突然立ち上がって自分の主張を大声で叫び始めたのだ。


その参加者の主張は支離滅裂な部分が多かったのだが、本人は眼を血走らせ、自身満々で喚き散らす。

そして周囲に座っていた数人が立ち上がり、同じように興奮状態でその男の主張を支持し始めたのだ。


場内は騒然となり、他の聴衆からも怒号が飛ぶ。

会場整理に当たっていた県職員が、その男を制止しようと駆け寄った時、事態は一変した。


前列にいた聴衆が、立ち上がって騒いでいた者も含め、頭を抱えて苦しみ出したのだ。

中にはその場に倒れ込む者も現れた。

それはやがて壇上にも派生していき、司会者と4人の演者、そしてオブザーバーの渡会恒わたらいひさしまで、苦しみ始めた。

特に右側に座っていた反対派の二人の様子は深刻で、椅子から転げ落ちて、ぐったりとしている。


座席後部にいた聴衆に影響は及んでいなかったが、目の前で繰り広げられている光景を見たひとりが「テロだ」と叫んだことが契機きっかけとなって、我勝ちに会場から逃げ出して行った。


そして前列にいた聴衆のうち、歩ける者は皆ふらふらと覚束ない足取りで、出口を目指して歩いて行く。

それらの人々は会場の外に出ると、そのままその場に座り込んでしまった。

皆真っ青な顔で、苦しそうに息を吐いている。

中にはその場で嘔吐する者もいた。


そして会館内が騒然とする中、救急隊員と警官たちが時を同じくして到着する。

「テロ」という通報を受けたため、現着した警官隊はガスマスクを装着していた。


救急隊員たちが、会議室外で苦しんでいる被害者たちの状況を確認する中、警官たちは室内に入っていく。

そしてパイプ椅子が散乱する会議室内を進んで、中に残っていた被害者たちの救出に当たった。


しかし彼らが駆けつけた時、被害者たちは苦しそうではあるが、全員意識ははっきりしているようだった。

そして彼らは警官たちの肩を借りて、次々と外に歩き出ていく。

それは演壇上も同じだったのだが、ただ椹木健作さわらぎけんさく桐山隆司きりやまたかしの二人は、床に倒れたまま身動き一つしていなかった。


結局何らかの症状を示した者は、軽症者を含めて40人以上に上り、椹木、桐山の二人を含めた症状の重い数名が救急搬送されて行く。

その後、会議室内に危険がないと判断されたため、警察による現場検証が行われることになった。


鏡堂と天宮は、会議室内後列にいて被害に遭わなかった参加者たちからの、訊き込みを担当することになった。

その結果分かったことは、前列の一人が突然立ち上がって騒ぎ始めたということと、その騒動の最中さなかに演壇上の演者たちと、前列に座っていた参加者たちが突然苦しみ始めたという漠然としたものだった。


会議中に何か異臭がしたり、変な音がしたりすることはなかったようだ。

そのことは、事情を訊かれた全員が口を揃えて言っていることだった。


会議室内には鑑識課員も数名来ていて、室内の測定を行っている。

鏡堂は顔なじみの小林誠司こばやしせいじを見つけると、近づいていって様子を尋ねた。


すると小林は手にした測定機器を下ろして、困惑した表情を見せる。

「何の痕跡もない。

あれだけ被害者が出ているのに、毒性ガスの痕跡がまったくないんだよ。

まあ搬送先の病院で、被害者の体から何か検出されるかも知れんが」


「他に何か変わったことはないのかい?」

鏡堂の問いに、小林は益々困惑した表情を強めた。


「ないねえ。

通常の大気そのものだ。

強いて言えば二酸化炭素濃度が微妙に高いくらいかな。

それも誤差範囲だけどね。


何か毒物を撒いたような形跡も残ってないし。

鑑識としては異常なしと報告するしかないね」


そう言って小林は困ったように笑う。

鏡堂としても、それ以上は何も訊けなかった。


〇山市民会館を出た鏡堂と天宮は、その足で〇山市立病院へ向かった。

救急搬送された被害者たちの状況を確認するためだ。

そこで鏡堂たちを待っていたのは、二名の死亡者が出たという事実だった。


死亡したのは公聴会に演者として参加していた、<靜〇川弥生遺跡を保護する会>代表の椹木健作さわらぎけんさくと、弁護士の桐山隆司きりやまたかしの二人だった。


事情を説明してくれたのはICUの坪井医師で、鏡堂たちを見た途端、「大変ですねえ」と言って同情のこもった笑顔を見せる。

坪井の説明によると、椹木と桐山は救急搬送された時点で既に死亡したいたらしい。

他の患者は何れも軽症で、すぐに退院できる状態のようだった。


「椹木さんたちの死因が何だったか分かりますか?」

鏡堂の質問に、坪井から返ってきたのは意外な答えだった。

「二人とも、二酸化炭素中毒の可能性が高いと思います。

他の患者さんも、症状から見てその可能性が高いですね」


「今度は二酸化炭素中毒ですか?」

鏡堂が思わずそう口にすると、その言葉に興味を持ったらしく坪井が訊き返してきた。

「今度は、ということは、昨日の澤村さんの死因も近いんですか?」


鏡堂はその質問に答えるべきか一瞬躊躇したが、他に口外しないという条件で坪井に告げた。

「実は澤村さんの死因は、酸素中毒だったんですよ」

「酸素中毒?

それは珍しいですね。

間違いないんですよね?」


「そんなに珍しいんですか?」

鏡堂が訊き返すと、坪井は肯いた。

「ええ。稀にスキューバダイビング中の事故で起こると聞いたことはありますが、それ以外はねえ。

それもずいぶん昔の話で、最近は事故自体が起こってないんじゃないですかねえ」


坪井の答えを聞いて、鏡堂と天宮は顔を見合わせる。

二人の脳裏に、過去の怪異事件の記憶が蘇ったからだ。

――これも六壬桜子りくじんさくらこが言っていた、封印が解けた影響なのだろうか。

そう思う鏡堂の表情が、次第に険しいものに変わっていくのだった。

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