クロスロード

tsumuri

第1話

クロスロード


カランと音をたて店の扉が開いた。

「いらっしゃいませ。」

すぐ様ハキハキとした挨拶を返したのはこの店の店主のマリだ。

「お好きな席へどうぞ。」

ゆずはいつものようにカウンターであくびをひとつ。

「ふぁ。常連のおばあちゃんか。優しく撫でてくれるからキライじゃないな。」


駅から少し歩いた閑静な住宅街の一角に、そっとたたずむ小さなカフェ「クロスロード」。

近所の人が、一息つきにやって来たり、絶品のコーヒーを求めて少し遠くからこの店を訪れる人もいる。

お世辞にも立派とは言えないこの店は、マリの夫のコウスケが始めたカフェで、マリ自身初めは反対していた。

こんなご時世にお店を出したってうまくいく訳はないとたかをくくっていたが、マリの予想に反して店は2人が暮らせるくらいに賑わっていた。

贅沢ではないが慎ましい生活。

そんな生活に満足していたし、2人は幸せだった。


何不自由のない暮らしをしていた2人に子供が出来ないことを告げられたのは結婚して3年目の事だった。


すぐにでも子供が欲しい訳ではなかったので意識していなかったが、一度調べてみようと2人で病院に行ってみた。

結果はすぐにわかった。

理由はマリの方にあった。卵巣機能不全。

はっきりとした原因は分からないが恐らくストレスが関係しているのだろう、最近増えてきているんです。と医者は言った。


最愛の人と慎ましくも幸せな暮らしの中にいる自分にストレスなんか思いつかなかったが、どちらにしても原因は不明。

苛立ちと悲しみが同時に押し寄せ言葉を失った。


帰り道。

2人は猫の里親募集の張り紙を見つけた。

なんらかの理由で飼う事が出来なくなったか、捨て猫を拾ってしまったのだろう。

動物愛護団体というわけではなく、個人で作ったと思われるどこか素朴な張り紙には、白黒で可愛いネコの写真が5枚ほど載せてあった。去勢手術や感染病などの検診は済んでいるようで安心感が持てた。

2人は話し合うことも無くその張り紙が示す場所へとなんとなく足を向けた。

家からそこまで遠い場所ではなかったが、知らない角を一つ曲がるとあっという間に知らない場所に入る。

「へー、こんな所もあったんだなぁ」

と、落ち込むマリを気遣うようにコウスケは優しく声をかける。

「そうだね。」とマリは力なく返した。

少し歩くと同じ張り紙のしてある家を見つけた。

どこにでもあるごく普通の一軒家。

白い壁、青い屋根。

ベランダでは洗濯物が気持ちよさそうに泳いでいた。

マリがインターホンに手を伸ばそうとすると、2階から声が聞こえた。

「あら?どちら様ー?」

泳いでいた洗濯物をかき分けるようにして女性が身体を乗り出していた。

「あ、私達張り紙を見て、、あの、ネコの、、」

「あー!ちょっと待っててー!」


乗り出した身体がまた洗濯物に包まれるように消えた後、玄関が開いた。


「いらっしゃいませ。ようこそ時猫へ。」

「ときねこ?」

「そう、時間の時に猫、で時猫。時計の針が交差するみたいに色んな猫と里親さんが出会えてそこから同じ時間を幸せに過ごして欲しいなって願いを込めてここをそう呼んでるの。

私はここのスタッフのソノです。宜しくお願いします。」


「そうなんですね。素敵なお名前ですね。

マリです。宜しくお願いします。」

「あ、コウスケです。どうも。張り紙になんか惹かれちゃって。」


振り向いたマリに促されるようにコウスケも挨拶をする。


「ありがとう。さぁ入って。」


不思議な感覚だった、外観からは想像がつかない中の様子に異世界にでも来てしまったんじゃないかと錯覚を覚えるほどだ。

玄関の内側が異様に広い。エレベーターを降りたワンフロアがそのまま部屋になっているような感じと言えばわかりやすいだろうか。

その上部屋が丸く見える。どうなっているんだろう。

部屋の中央には天窓が見え優しい光が降り注いでいる。

少し遠くに二階に上がる階段が見える。

部屋には窓がなく壁は淡いパステルカラーの水色や薄い黄色で塗られており、心がふわっと優しくなれる気がする。

キャットタワーがいくつかあり、猫が楽しめるようなアスレチックもたくさん用意されている。

床がフワフワとした材質でもし雲の上を歩いたならこんな感じなのかと考えた。

この場所の全てがどれをとっても夢見心地だ。


視線を部屋の中央に戻すと、降り注ぐ光の中で黒い塊がもぞもぞと動いていた。

そーっと近づいてみるとその黒い塊からぴょこんと耳としっぽが現れた。

写真に載っていた子がここに何匹かいた。

特に警戒している訳では無さそうだが、知らない人間に対しての緊張がこちらにも伝わってきた。

こちらに敵意は無いこと、遊びたいだけということをわかってもらう為にじっとその時を待つ。

マリはその子たちから三メートルくらいまで歩いて近づいたあと、そっと腰を下ろして話しかけ始めた。


こんにちわ。初めまして。

マリです。宜しく。


ヒゲを2度ひくひくとさせた後、興味をもったのか一匹の黒猫がマリに近づいて来た。


マリは話続ける、

「ちょっとだけ辛いことがあってね、誰が悪いワケじゃないんだけど、なんか凄く、つらくて、強いていうなら私が悪いんだよね。

でも、だからといって出来ることなんてなくて、誰かに助けて欲しくて、、。」

気が付くと涙が頬を伝っていた。


うずくまっていたマリの手のひらに温かい感触があった。ゆっくりと顔を上げてみると真っ黒な猫がマリの手のひらに前足を乗せ一声鳴いた。

泣かなくてもいいよと言われた気がした。

そっと反対の手を伸ばすと頭を擦り寄せてくるこの黒猫が愛しくて仕方なかった。

「良かったね。巡り合わせだよこれも。」

ソノはそんな2人を温かく見守っていた。


出会いを見ていたソノさんがトントン拍子に話を進めてくれ、最低限の確認と調整で黒猫は2人と一緒に住むことになった。

名前は悩んだ挙句、ゆずに決めた。

柑橘系の大好きなマリの「やっぱり女の子はスパイスが効いてないと。」という謎の言葉が決め手になった。

コウスケは自分が考えていたジジという名前への思いが捨てられなかったがマリが笑顔になるならそれでいいかと1人頷いていた。


クロスロードは一軒家を改造して一階をお店にし、二階が住居スペースになっている。一回のお店はまだまだ遊び盛りのゆずの格好の遊び場だった。


営業中もそこかしこを走り回る為、当初はお客さんに驚かれたもののいつしか看板娘になっていた。

マリは営業中は二階から出すつもりはなかったが、1度逃げ出して店の中での2人の追いかけっこをお客さんが楽しそうに見ていたので、それ以降はゆずの好きにさせることにした。

看板娘の噂が噂を呼びお店も繁盛した。

ゆずを一目見ようとするお客さんさんが多い日には30人以上訪れた。

しかし、不思議なことに最初マリと出会った時のような愛想の良さを見せることはあまりなく、お客さんに懐くことはほとんどなかった。


お店もしっかりと軌道に乗り、2人で営むこのお店はいつも慌ただしく活気に溢れていた。

ゆずはそんな2人をいつもカウンターから見守っていた。

目が合うといつも小さな声で応援してくれている気がした。

さぁ、頑張れ頑張れと。


そんなある日少し早く目が覚めたマリがお店の開店準備をしていると、「すぐにコウスケの様子を見て!」と声が聞こえた。

慌てて辺りを見回してみたが、近くには誰も居ない。

しかしマリにははっきりと聞こえた。

コウスケはまだ部屋で寝ているハズだ。


ふと、視線を感じカウンターを見るとゆずが真っ直ぐにこっちを見ていた。

「早く!コウスケの所に行って!」

「う、うん。」

ただならぬ気配を感じ二階への階段を駆け上がった。

今のはゆずなの?頭の中に直接声が響いたような気がしたけど、一体なんだったんだろう。


言われるがまま寝室に向かいコウスケのもとへ向かう。

まだ布団に包まっているコウスケに声をかけてみた。

「おはよー。疲れてるのはわかるけどそろそろ準備をしてくださいねオーナー。」

返事はない。

「コウスケ?」

異変を感じコウスケに駆け寄る。

揺すって起こそうとしてみてもコウスケはなんの反応もしない。

ふと、大変な事に気がついた。息をしていない!

「え?なんで?コウスケ!起きてよ!」

何度も揺すってみてもコウスケはなんの反応もない。

「きゅ、救急車!!」

慌ててお店に降りる。

階段を降りたところでゆずがマリのスマートフォンをくわえていた。

「急いで!」

「わかってる!今かける!」

ゆずと会話をしたことに気がついたのは救急車に乗り込んだときだった。



コウスケは目を覚まさなかった。

たくさんの機械や管に繋がれた様子がまるで拘束されているようでくやしかった。

もうコウスケを返してくれないようなそんな気さえした。

マリは落ち着いて聞いていたものの、医師の説明がなかなか理解出来なかった。

脳の血管が詰まり意識を失ったとこと。

あと少し遅ければ命が危なかったこと。

それでも、目を覚ます可能性は五分五分だということ。


マリは話を一通り聞き終えロビーで座り込んでいた。とりあえず入院をすることになったコウスケの身の回りのものを準備しなくてはいけない。

よろよろと立ち上がり病院の前に止まっていたタクシーに乗り込む。窓の外の流れて行く景色を見るともなしに眺めていた。


家に戻ると、お店の前で常連のおばあちゃんが佇んでいた。

「あら?マリちゃん?今日はお店はお休みなの?」

「あ。田中さん。すみません、夫が倒れまして、入院することになったので、今日はお休みさせて頂こうと思います。折角来てくださったのに申し訳ありません。」

「あら?そうなの!?それは心配ね。お客のことなんか気にしなくていいから早くコウスケさんの所にいってあげてね。」

「はい。ありがとうございます。」

田中さんを見送りながら、本当にこのお店はお客様に恵まれているなと思った。きっとコウスケやゆずのお陰だろうな。

そんな事を考えながらふと、ゆずと会話をした事を思い出した。

扉を開けてお店に入る。

ゆずはいつものカウンターの上でお店に入ったマリを見つめていた。

「ゆず?あなたもしかして...」

言い終わるより先に声がした。

「コウスケはどうだったの?」

「やっぱり喋れるの!?早く言ってよ。とりあえず命は助かったわ、ゆず、あなたのお陰よ。ありがとう。でも、いつ目を覚ますのかまだ分からない。」

ゆずと話をしている状況が思いの外受け入れられたのは、出会ったときからきっとその声を聞いていたからなのかもしれない。もちろんコウスケの事で気持ちが昂っていた事もあるだろう。

「そう。なんとか繋ぎ止められたのならよかった。少し大変になるけどマリなら大丈夫よ。アタシもいるからね。」

不安の波が少しずつ引いていくのがわかる。

1人じゃないということがこんなにも嬉しいことだったなんて。

マリは涙を流しながら頷いた。

「ありがとう」と何度も呟きながら。


数日後、マリは時猫を訪ねてみようと思った。

ゆずと話が出来る。この不思議な現象をもしかしてソノさんは知ってるんじゃないかと思ったからだ。

しかし、向かう途中で奇妙な感覚に陥った。

時猫の場所を思い出せない。

病院からの帰り道で見かけた張り紙が無くなっていたので、どう行けばいいかはっきり思い出せないにしても、場所がまったくわからないのはなぜだろうか。

マリは思いつく場所をグルグルと歩いてみたがとうとう時猫を見つけることが出来なかった。

今度コウスケが元気になったら一緒に探してみよう。ゆずに聞いてみてもたぶん覚えてないだろうな。

そんなことを考えながらその日は家路についた。


「店主の都合により少しお休みを頂きます。再開は未定です。またの機会にお越しくださいませ。クロスロード店主」

もうお店は1週間以上開けてなかった、このままではお店が潰れてしまう。

だが、自分にはコウスケのように美味しいコーヒーを入れることは出来ない。

以前もホールのスタッフとして働いていただけなので、サラダの盛り付けくらいしかやったことはなく調理が出来る訳ではなかった。

このままコウスケが目を覚さなかったらどうしよう...。

マリは不安な日々を過ごしていた。


ある日、いつものように1階のお店で朝食を取ろうと降りていくとゆずがテーブルの上に座っていた。


飲食店の都合上テーブルに上がることだけは

して欲しくなかったので、子供のうちからしっかりとしつけはしていたつもりだ。


「こら、ゆずっ!テーブルに...」

と、言い終わる前にゆずが話始めた。

「マリは自分とコウスケ、どちらかの命が助かるならどっちがいい?」

ゆずの急な質問に戸惑ったが、答えは1つしかなかった。

「え?あぁ、私はコウスケが戻るならなんでもするよ。例えこの命に変えても。」

「そうだね。そう言うと思ったよ。ごめんね。変な質問をして。実はね、私は死神なの。時猫はもう無かったでしょ?」

え?死神?余りに現実味の無いワードに戸惑いを隠せなかった。

しかし、時猫を見つけられなかったのは事実だ。

「あ、ごめんごめん、死神って言っても命を奪いに来た!とかそんな大層なもんじゃないよ。私に出来るのは結局見守ることだけ。死の匂いがする場所に行ってそこにいる人の心の在り方を見るんだ。」

「心の在り方?」

「そう。何億という人が生きているこの地球で、その数だけ魂がある。その魂が濁っているとうまく天国に行けないのよ。天国に行けずに迷子になってしまう魂を探し出して、ちゃんと導く仲間もいるんだけど、私は見守る役目なの。」

「よく分からないけど、あなたと話が出来てる時点でもうなんでも受け入れるわ。」

マリは深呼吸を1つしてゆずと向かいあった。

「ありがとう。人が生きていく中で様々な出来事があるの。その一つに出会いがあるわ。なぜ見ず知らずの人と出会い、話をし、時には恋に落ちるのか。それはみんなが生まれてから死ぬまでずっと同じ方向に歩いているからなの。一人一人それぞれの道の上を。ところがみんなが真っ直ぐには歩けない。紙に線をいくつも描き続けるとどこかの線に触れてしまうように。角度が急な接触なら短い時間。角度が緩やかな接触なら長い時間一緒にいることになるわ。でも、いずれにしても別れはやってくる。」

「うん、なんとなくわかる。」

マリは必死に頭の中で線を浮かべてみる。

色も長さも太さも違う線が紙いっぱいに描かれていく。

人と人は様々な触れ合い方をするんだろう。

田中さんだって病院の先生だってソノさんだってコウスケだって、きっとその線が私とどこかで触れていたんだろう。

そう考えると出会いはとても素敵なことに思える。その線が重ならなければ一生出会うことなんて無いし、今重なってない人だってこれから先できっと触れる機会もあるんだろうな。

ふと、お店の名前が頭をよぎる。

『クロスロード』

コウスケはこのお店をたくさんの人が交わる交差点にしたいって言ってた。

コウスケの思いとゆずの話はこんなにも類似している。

「マリ。あなたの心の在り方はとても素晴らしいと思う。だから、選択肢をあげるわ。」

「選択肢?」

「そう。私達死神は一度だけ誰かの人生のラインを変えることが出来るの。」

「ラインを変えるとどうなるの?」

「今までのマリの人生で出会えた人と出会えない可能性が出てくる。勿論大きく変える訳じゃないからもう一度出会える人だっているわ。でも、今までのあなたの記憶は全て無くなる。ラインを変えた後の記憶にすり替わっちゃうんだ。コウスケとは二度と会えないかもしれない。コウスケもマリと出会った今のラインとは変わった道を歩き始める。」

「それじゃあそうしてちょうだい!」

「でも、マリの記憶はなくなるよ?それでもいいの?」

「構わない!コウスケの居ない世界に居たって意味がない!お願いゆず!」

「わかった。マリ本当にありがとう。あなたに出会えて良かった。」

「私も!ありがとう!」

少しずつ目の前が白くなっていく、マリはひたすらにコウスケの幸せを願っていた。




「マリ?マリってば!大丈夫?」

「へ?」

「どうしたの?ぼーっとして?」

「あ、いや、何か夢を見ていたような。」

「やめてよ、こんな昼間っから居眠りしないでよね。」

向かいの席でオムライスを頬張っているのは大学時代から仲のよかったゆうこだ。

そうだ。

郊外のショッピングモールまで2人で買い物に来ているんだった。満足した私達は遅めのランチにありついた。

私は海鮮丼、ゆうこはオムライス。

好きなものを、チョイスして一緒に食べられるフードコートというのはなかなか良く出来ているなぁと今更ながら感心していた。

「なんだろう?ぽっかりと胸に穴が空いたような気がするんだよね。」

「えー、さっきの帽子そんなに気に入ってるんならもう一度見に行こうよ。」

「うーん。そんなんじゃないんだけどなぁ。でも、ゆうこがそこまで言うなら見に行ってもいいよ?」

「いや、こっちのセリフだよ!」

大きな声で笑っていたが、フードコートの喧騒はそんな2人の笑い声さえ飲み込んだ。

その後もたわいの無い会話と食事を楽しんだ。

理由は未だにわからないが帰りの電車の中でもマリの心にはぽっかり穴が空いたようだった。

欲しかったものをたくさん買えたし、ゆうこと一緒にいるのはやっぱり楽しい。

それでも、ふと我に帰る瞬間がある。

自分の居場所がここではないような、そんな不思議な気持ちになった。

そんな表情を見てゆうこが訪ねる。

「本当に大丈夫?今日ちょっと変だよ?」

「ねぇ?ゆうこ。私達ずっと一緒にいるよね?」

「え?何言い出すの?なんか変なモノでも食べたの?」

「もう!真剣に悩んでるんだから!」

「ごめん、ごめん!余りにも変なこと言うもんだから、つい。

そうだよ?少なくとも私とマリは大学の2年からずっと一緒にいる。たまたま席が隣になった講義があって、、そう言えば教授の悪口で盛り上がったところから仲良くなったんだったね。懐かしいなぁ。」

それは確かに覚えている。

女子トイレの盗撮疑惑で私達が卒業した後解雇されたとかなんとか。

確かに女子を見る目が気持ち悪かった覚えはある。

「うーん。覚えてるなそれ。」

「マリがずっと好きだった人はタカシくん。あんまり冴えない人だったけど、どこか優しげな雰囲気が漂う人だったね。あんまり冴えないけど。」

「2回も言うな!懐かしいな。」

「その後は、えーと、こ、、こ、、だれだっけ?」

「こ?こ、から始まる人なんていたっけ?」


電車のアナウンスがマリの降りる駅を告げた。

「あ、降りなきゃだ。ゆうこありがと!またね!」

「今日はゆっくり寝なね!なんかあったら1番に相談に乗るからね!またね!」

電車を降り振り返るとプシューという音がなりドアが閉まった。ガコンガコンと連結部分の引っ張られる音がし、電車が動き始める。

ゆうこが笑顔で手を振っている。

いい子だな本当に。マリは心からそう思いながら手を振り返した。


改札を抜けるとまたどうしようもない虚無感に襲われた。

急に大きな穴が空いた海みたいに、感情が急に胸の真ん中に向けて動き出す。

苦しい。

何か忘れてはいけない事を忘れている自分がいるんじゃないかと不安になる。


ふと、電信柱に猫の里親募集の張り紙を見つけた。

拾ってしまったか、飼えなくなったのか5匹くらいの写真が載せてあった。

どの子もまだ小さくて可愛い。

病気などの検診は済ませているようで健康状態に問題はなさそうだった。


マリの足は張り紙が示す場所に向かっていた。

なぜだろう?そうしなければ、何かを完全に失ってしまうんじゃないかという不安もあった。


駅から少し歩いた閑静な住宅街の一角にその場所はあった。

見たところカフェのようだが、お世辞にも立派とは言えない。でも、それが隠れ家のようで一目で気に入った。

「こんな場所にこんな素敵なカフェがあるなんて知らなかったなぁ。」

ひとしきり外観を眺めた後、意を決して扉を開いた。

カランと音が鳴り店内に足を踏み入れた。

「コウスケちゃんお客様ー!」

「あっはいはいー!っと、いらっしゃいませ。」

お店のスタッフを呼んでくれた女性は窓際の席で老婆と2人で話をしていた。

「ソノさんの笑顔が私の元気の源よ。」

「あっはっは!田中さんはお上手ねぇ!」

コウスケちゃんと呼ばれたスタッフが店内へと案内してくれた。

「お好きなお席へどうぞ。」

あ。まただ。

この人の声はなぜか耳の奥で優しく響いた。

いつまでも聞いていたいなと感じた自分をマリは不思議に思っていた。

「どうかされました?」

「あ、私張り紙を見て、ネコの、、」

「あぁ、そちらのお客さんでしたか。すみません。みんな貰われていくとなんか寂しくなっちゃって。最後の1匹は僕が面倒見ようと思ってます。張り紙、早く剥がさないとと思ってたんですけど、ほんとすみません。」

コウスケは深々と頭を下げた。

「あ、いえ大丈夫ですよ。そうなんですね。あ、ここはお店の名前はなんて仰るんですか?外で探してたんですけど見つけられなくて。」

「あ、看板ちょうど修理してて。うちは「ひなたぼっこ」っていいます。やっぱり僕もネコが好きで、このお店の中にいる時くらいネコみたいにのんびり過ごせたらなと思って。」

「そうなんですね。素敵な名前ですね。こういうカフェって常連さんもいらっしゃるでしょうけど、ふと立ち寄る方もいるじゃないですか?だから、私はいつも交差点ってイメージがすごくあって、誰かと誰かがほんの少しでもここで時間と場所を共有してるってなんかすごいなぁって思います。」

「交差点か。なるほど。面白いですね、それ。きっとあなたと僕の道が今ここで重なったんでしょうね。」

なんとなく、紡ぐ言葉の一つ一つが嬉しくて、何故か懐かしい。

「表の張り紙見たんですけど、バイト募集されてるんですか?」

「あ、そうなんですよ、先週1人やめてしまって、と言っても僕ともう1人いればなんとかなるので今は僕1人で回してます。回ってないんですけどね。」

「そうなんですね!明日履歴書持ってきてもいいですか?」

「え?本当ですか?あなただったら面接なんかいらないですけどね。もう明日からでも来て欲しいです。」

「本当ですか!?お店の雰囲気も好きだしやっぱりネコ好きに悪い人はいないですよね?渡辺真里です。よろしくお願いします!」

「もちろん!ネコ好きに悪い人はいないですよ!僕は吉澤浩輔です。よろしくお願いします!」

自己紹介を終え2人は色んなことを話した。

お店の空気、お客さんの要望、自分の目標、願い。

その1つ1つがマリにとって新鮮で懐かしかった。

「あ、そういえば最後の子はどこにいるんですか?」

「あ、ゆずはいつもあそこに。」

振り返った先にはカウンターがあった。

そこで1匹の黒猫があくびをしていた。

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