第2話マスターの夜

「今夜は少し早めに店をしめたよ」

 ほの暗い灯りの下、カウンターに琥珀色の酒が入ったグラスを置いた。

「君も呑むだろ?」

 もうひとつ、同じ酒が入ったグラスをフォトスタンドの前に置く。「カラン」と氷が泣いた。写真には髪の長い笑顔の女性。

「返事をしてくれたのかな」

 笑みがこぼれる。

「雨の夜は…思い出してしまうよ。あ日のことを」


「お願いだから約束して」

 君は大粒の涙を流しながらも笑顔になろうとしてるのがわかって。僕は君を抱きしめた。

「ダメ…私の顔をちゃんと見て約束して」

「もう何も言わないでくれ…お願いだから」

 僕は懇願した。

「これだけは約束してほしいの」

「嫌だよ。どうせ僕には守れそうにはない約束なんだろ」

「ひとつだけ…ひとつだけでいいの」

「嫌だって言ってるだろ」

「私が逝っても追ってきちゃダメよ。あなたは…」

「嫌だ、そんな話しは聞きたくない。僕にはまだ君とやりたいことや見たい景色もあるんだ。君と居たいんだよ」

「私は…忙しくなるから無理よ」

「えっ?」

「あちらの生活にも慣れないといけないし、先に逝った憧れのシンガーにも会いに行きたいから」

「バカを言わないでくれ」

「お願い…生きて幸福しあわせになってもらわないと、私が困るのよ」

「困るくらいなら…」

「無理よ…神様との約束はキャンセルはできないの」

「その日が来るまで、私も諦めないで精一杯生きるから…あなたも」

「お願いだよ…もう…」

「そうね…あなたは一度嫌って言ったらきかないものね」

「ひとつ、お願いきいてくれる?」

「だから…」

「違うの…ピアノを弾いてほしいの」

「ピアノを?」

「ふたりとも顔も気持ちもぐちゃぐちゃでしょう?このまま眠ってもいい夢は見られないわ」

「そうだね…何の曲がいいかな」

「雨の曲がいいわ。今夜の雨は優しいから…今ある哀しみや後悔や…いろんなものを思い出にしてくれると思うの」

「思い出…」

「あなたがへこんでどうするの…私だって今は平気そうに見えてても約束の日が近づいてきたら…」

「わかった!わかったから…ごめん」

 ポーンと高い音を一音だけ鳴らして、君の言葉を遮ってしまった。


 いつの日からか…君を守るんだって決めていたのに…。どう抗っても、さすがに神には勝てなかった。約束の日は来てしまった。

 もう君が苦しまないことに正直、少しホッともしたけど…君の笑顔が見られない、君の声が聞こえない現実の日々は、予想より遥かに厳しい日々だったよ。


「こうやって、店をしめてから君と話をするようになって何年経つのかな」


「今夜は、よく来てくれる青年が久しぶりに彼女を連れて来てくれたよ。くるくると表情が変わって愛くるしいお嬢さんなんだよ」


「君が好きだったナンバーを流していたんだけど「淋しいピアノね」って言ったんだよ」

「あ~君がこの曲を聴いてる時は淋しかったのかなと思ったよ」


「雨の話しになってね、お嬢さんは「四季があるって素敵」って言って、青年にその季節全部をあなたと過ごしたなんて、すごくない?って」

「僕はそのあどけなさに笑ってしまいそうになったけど、君がいたら感動してたかもな」

「…そうだね。大切なものを失う前に気がつくなんて、素敵なお嬢さ…いや、素敵な女性だね」

 左手の親指を女性の頬に当てた。

「君がいたら…相性がいいかもな」

「時々、君とかさねてしまう時があって…他の女性のお客様にはそんなことはしないんだけど…どこか似ているのかな、あの頃の僕たちに。歳も近いせいもあるかな」


「もう何回も、何百回も…それ以上か…君の居ない雨の夜を過ごして来たけれど、慣れないものだね、淋しさは変わらない」


「あの頃の歳より倍の歳になったよ…とりあえずでもこの歳になるまで生きて来たことを、君は褒めてくれるかな…」

「いつか空で再会あった時、君は若くはない僕に気がつかないかも…わかるか、わかるよね、きっと」

「君は心配性なところがあったから、今もきっと見守ってくれてるんだろ?ごめんよ、いつまでも安心させてあげられなくて」


 君との最後の約束は必ず守るよ。だけど幸福しあわせかどうかは自分で決めるからね。それだけは許してくれ。


「見えなくてもあるんだよ。雲で月や星が見えなくても、失くなったわけじゃないでしょ」


 君は言っていたけど、ひとつだけ情けないことを言っていいかな…。


「君の声が聞きたいよ」






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