第4話 真の神

自宅。


自宅に戻ってから二日が経った。あやは一言も発さず、風呂に入るどころか、食事も水さえ取らず、ただベッドでクリーム色の壁紙を見つめながら横たわっている。薄暗い部屋の中で、カーテン越しに差し込むわずかな光が彩の体を淡く照らしていた。じんは、無反応な妹の背中を見つめながら、焦燥感と不安に押しつぶされそうになる。


「彩ー、何か食べられるモノ、リクエストしてくれないかなぁ?」ため息混じりに問いかけ、ベッドの脇に立ってじっと反応を待ったが、彩は微動だにせず壁を見つめ続けている。


「……」


苛立ちがこみ上げ、少し強い調子でもう一度声をかける。「なんか食べなきゃダメだよ!甘えているんじゃないよ!いい加減にしろよ!」ベッドの端を軽く叩く。


「……」


それでも彩は何も反応しない。ただ静かに背中を向けたまま、彼女の肩は小さく上下して呼吸を繰り返すだけだ。


その姿に、迅は自己嫌悪に襲われ、彩のベッドの脇で頭を抱えて床に座り込んだ。


「このままでは本当にまずい…」心の中でそう呟き、すぐに病院に相談することを決めた。医者からは、入院して点滴で栄養を補給することを提案され、迅はその提案を受け入れることにした。


---

東日本大学付属病院 入院棟 一般病室。


案内された病室は、六人部屋の窓際だった。無機質な白い壁に囲まれたベッドの上で、彩は相変わらず無言で天井を見つめている。迅はその姿をベッドの横から見守りながら、言葉を探すが、何も口にできない。


次の日も、その翌日も、彩は一言も発さず、ただじっと天井を見つめ続けていた。面会時間の間、迅も何をするでもなく、無言で彩の隣に座っていた。彼は腕を組んで椅子に沈み込み、時折彩の表情を窺うが、彼女の顔に変化はない。先が見えない、経験した事がない、とてつもなく長い時間だった。


「もう二度と…このまま失語症になったら…」不安な思いが頭を巡り、迅の気力は日に日に萎えていった。


入院から三日目の昼、病院に向かう途中、昔、彩とよく行ったモスバーガーが視界に入った。二人でジャンケンをして、負けた方が買いに行くルールだったことを思い出しながら、無意識に足が店の方へ向かっていた。


「テリヤキバーガー、ひとつください」衝動的に、彩が好きだったメニューを注文していた。手に包みを持ちながら、迅は病院に向かう。


病室に入ると、迅はテリヤキバーガーを包みから取り出し、彩のベッド脇の小さなテーブルにそっと置いた。彩の顔は、相変わらず天井を向いたままだが、迅は何かが起きることを期待しながらその様子を見守る。


すると——


彩の視線がゆっくりと天井から動き、テリヤキバーガーに移った。迅は見ていないフリをするために視線をはずして息を飲んだ。どくどくと心臓が高鳴るのを感じた。彩はゆっくりとベッドの上で起き上がり、無言のままテリヤキバーガーに手を伸ばす。彼女はちらりと迅に視線を向け、ぎこちない笑顔を浮かべた。


その瞬間、迅の中で感情の堰が崩壊する。今まで抑えていた思いが一気に溢れ出し、涙が止まらない。言葉にできない感情が胸を突き上げ、迅は声も出せず、ただ涙を流すことしかできなかった。あの事件から一週間、迅にとっても苦しみの毎日だったが、今、ようやく光が差し込んできた。


彩は一口齧ると、小さな声で呟いた。

「おいしい」


彩の声が一週間ぶりに空気を震わせた。言葉がしっかりと耳を打ち、迅は再び涙が溢れ出すのを止められない。彼は泣き顔を覆うように額に手をあて、床を見ながら、震える声で「よかった」と呟いたが、それ以上の言葉が続かなかった。


彩がテリヤキバーガーを頬張りながら、マヨネーズをほっぺたに付けているのを見て、迅はこっそり小さな笑顔をつくる。長かったトンネルの先に光を見たような、ほっとした安堵感が広がっていった。


「ポ、ポテトは全部食うなよ…俺の分、残しておけよ…」なんとか言葉を絞り出すと、彩は静まり返った穏やかな顔で答える。

「えー。ポテトは早いもの勝ちでしょ」と言い終わると、ポテトをひとつ口に入れた。


ついに、いつもの彩が戻ってきた。迅は涙でぐしゃぐしゃになった顔を手で隠し、どうにか平静を装おうとするが、感情が制御できない。


「ちょ、ちょっと用事あるから、帰るよ!」迅は慌てて立ち上がり、彩に背を向けて扉の方へ歩く。ドアの取っ手に手をかけると、振り返りざまに彩の笑顔をちらっと見て、そのまま部屋を後にした。


もっと長く居たかった。

もっと長く話したかったが、感情の嵐に襲われ、涙が溢れてどうにも対処できなかった。

カッコ悪くて、その場にとどまれなかったのだ。


玄関を出ると、涙はまだ止まらないが、安堵感がどっと押し寄せる。

『今日は、最高の日だ……!』

『テリヤキバーガーは真の神だ!』

迅は一週間ぶりに空を見上げる。涙で滲んだ視界の向こうに広がる青空。いつもの彩が戻ってきた。それだけで幸せだった。

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