第3話 沈黙の病室

東日本医科大学附属病院 入院棟 一般病室。


 あやは救急車で運び込まれた。病院の廊下に響く救急車のサイレンが消えると、じんはその場に立ち尽くつくす。彩はストレッチャーに乗せられ、二人の看護師によってガラガラといった音を立てて処置室へと運ばれていった。迅は白衣達の後ろ姿を見つめ、震える手で拳を握りしめる。


 身体の損傷は擦り傷程度だったが、彩の目は虚ろで、焦点が定まっていない。医師が迅に『大きな外傷はないが、精神的なショックが大きい』と告げたとき、迅は胸の奥がギリギリと締めつけられるのを感じた。彩は医師とも、警察とも、一言も口を開かない。兄である迅にさえも、言葉は一切なかった。


 彩のベッドの脇に立って、警察が事務的な質問をしてきたが、被害届を出せる状態にはほど遠い。やり取りはすぐに終わり、警察はあっさりと立ち去る。部屋には静寂だけが残る。


 その日はすでに深夜。彩は一晩入院することになった。病室の薄暗い照明の中、迅は妹の無表情な顔を見つめながら、ベッドの横に座る。彩の体は硬直したままで、掛け布団の中で指がわずかに震えているのが見えた。


 夜が深まるにつれ、病室の静けさが重くのしかかる。彩は一晩中、目を閉じることもなく、ただ天井をじっと見つめていた。その目には、どこか遠い場所を彷徨っているような、深い虚無が漂う。


「お水……飲む?」迅は囁くように声をかけるが、彩は微動だにしない。


 まるで言葉が届かないかのように。迅は手元のコップを見つめ、何もできずにただ息をのむ。


 やがて、東の空が明るくなり始め、病室に朝の光が差し込んできた。窓の外の景色がぼんやりと動き出す中、五十代くらいの看護師が静かに病室に入ってくる。彼女は穏やかな笑顔を浮かべ、柔らかい声で彩に話しかける。「病院食で美味しくはないかもしれませんが、朝食をご用意しましょうか?」


 しかし、彩は微動だにせず、天井を見つめたまま。その無反応な様子に、看護師は一瞬だけ困惑したが、すぐにその表情を取り繕った。迅が慌てて代わりに答える。「ありがとうございます。いただきます。よろしくお願いします」


 看護師はにこやかに頷き、朝食を運んできた。プラスチックのトレーには、白米、焼きシャケ、納豆、卵、そしてヤクルトが並べられていた。迅は彩の好物であるヤクルトを手に取り差し出したが、彩は全く興味を示すこともなく、ぼんやりと窓の外を見つめる。小さな容器を握りしめ、迅は言葉を探したが、どれも彩に届かない。


 九時過ぎに看護師が足早にやってきて、今日の予定について手短に説明した。「すぐに退院なさいますか?」という問いに、迅は静かに頷いた。彩は何も言わないままだが、状況は理解しているようで、無言で自分の荷物をカバンに詰め始めた。


 ゆっくりと、まるで何かに抵抗するかのように彩は立ち上がった。夢遊病者のような足取りで、彼女は出口へと向かって歩き出す。迅はその背中を見つめ、何か言葉をかけようとしたが、喉が詰まって声にならなかった。二人はそのまま無言で病院を後にした。


 外はまだ蝉の声が響きわたっていたが、迅にとってはまるで音が消えたかのような静寂が続いていた。

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