第4話 疑惑
静まりかえったキッチン。もう夜10時になるのに、朝食で使った皿とコップがシンクにある。
カチカチカチカチと時計の音。この時計を選ぶ時、シンプルなデザインで静音の時計か、可愛いデザインだけれど静音ではない時計どちらにするかで夫と意見が分かれた。結局「家に長くいるのは君だから」と夫が折れた。北欧風で針が木の枝になっている。時計の縁は緑のツルが立体的に絡みついた様なデザインで、左右に鳥が飛んでいた。
「あっちにすれば良かったかなあ」夫が勧めた方の時計を思い出す。シンプルで数字が大きくて、学校の教室にある時計みたいだと思った。
「行ってくるね」結婚して2年。毎朝玄関で夫を見送る。「身体、気をつけてゆっくり過ごして」ぽんぽんと優しく私のお腹を触る。もう少しで臨月を迎えるそれは、出産に向けて胎動も徐々に少なくなり、いまかいまかと時を待っている。
ソファに腰を下ろす。今日1日、洗濯も掃除も茶碗洗いも何もしなかった。胸の中を色んな気持ちが嵐のように駆け巡ったり、頭の中が虚しさと悲しさで支配されたりした。
違うと思いたかった。勘違いだと思いたかった。自分にこんな安いドラマみたいな事が起きるなんて。
「サイフ忘れたと思う」夫から連絡があったのは、ちょうど一ヵ月くらい前の事だった。職場に来る途中に落としていないか確認したいから、家の中を見てみてくれないかと頼まれた。
「多分、洗面所か玄関の棚の上だと思う」
洗面所にも玄関にもなく、一度電話を切って探す事にした。リビングにも見当たらない。台所や旦那のクローゼットの中も見たが無かった。そう言えばと思い寝室を見ると、セミダブルのベッドの上にそれはあった。拾い上げると、チャックが開いていたのかカードや診察券が落ちてきた。「鍵も忘れてるじゃない」サイフの下にあったのはキーケース。結婚一年目の誕生日にプレゼントしたものだ。本当に夫は忘れ物が多い。ため息がでた。
「あったよー。ベッドの上にあった。家の鍵も忘れてる」
「あちゃー。ごめん!でも良かったわ。外で落としたならどうしようかと思った」
「帰りのお金大丈夫?」
「定期あるから。あと職場に万が一の時用に3千円くらい置いてあるし大丈夫」
「そか。じゃあ頑張ってね」
「はーい、ありがとう」
電話を切って、もう一度寝室に戻った。
ベッドの上には中身がこちゃこちゃ飛び出したサイフ。私と夫は、こういうだらしない所は似ている。私のサイフももうどこの店のものか忘れたポイントカードや、適当に突っ込んだままのレシートが入りっぱなしになっている。今夫のサイフから飛び出しているのも、まさしくそれだ。
よいしょ、とベッドのふちに腰を下ろし、サイフの中身を戻し始める。明らかにもう使わないレシート類は抜いた。サイフのチャックを閉めて、何気なくレシートを見る。ガソリンスタンド、コンビニ、コンビニ、ふと手が止まった。女性服のアパレルブランドのロゴが入ったレシート。ワンピース4800円、パンプス7400円。
「え、何これ」日付を見ると半月前だ。私はお腹が大きくなってきてからは、洋服を殆ど買っていない。まだ妊娠初期にテンションが上がって授乳用の前開きワンピースや、下着、妊婦用のスパッツやズボンを何着か買った。それきり、後は産後足りないものは買い足せばいいと思って何も買っていない。訳がわからず他のレシートも見る。メガネ2800円。夫はメガネをかけていない。パンツスーツ11200円。男の人のスーツも、パンツスーツって書くの?極め付けは、薬局のレシートだった。口紅2400円。
目の前が真っ暗になるとはこういう事なのだと感じた。見えているのに、見えない。頭の回転が止まって、何も考えられない。どのくらいそこに呆然と座っていたのか分からない。数分なのか、数十分なのか、もしかしたら1時間くらい経ったのだろうか。
私はヨロヨロとレシート片手にリビングに戻った。ダイニングの椅子に座り、レシートを机に並べる。
テレビではo157の集団食中毒のニュースが流れている。ついさっきまでは、私もこのニュースを見て心を痛めたり憤慨していたはずだ。
今はもう、何も感じない。
とりあえず、どうしようか。夫に問いただす?知らないふりをする?
だんだん気持ち悪くなってきて、私は雑にレシートを除けると机にうつ伏せになった。妊娠8ヵ月目くらいから、逆流性食道炎の症状に悩まされてきた。もう少し、もう少しでこの気持ち悪さともオサラバだ、と耐えてきたのに。嗚咽が漏れた。なんでなんでなんでなんでと呟いた。涙も鼻水も、うつ伏せのまま垂れ流した。お腹の子がグニッとお腹を突き上げた。左手をお腹に添える。子はそれ以上動かなかった。
結局、その夜は私は夫に何も聞かなかった。「ごめん、体調悪くてご飯作れなかった」と言うと、「全然いいんだよ。大丈夫?お粥とか作る?他に食べれそうな物あったら買ってくるよ」と言ってくれたが、「食べたらきっと吐くだけだから」と言って布団に潜った。洗濯機の回る音がする。夫が溜まっていた洗濯物を洗ってくれるつもりらしい。私は出てくる涙を布団に吸い込ませて、声が出ないように下唇を噛んで泣いた。彼の優しさも、暖かさも、素直に信じられなくなっていた。
次の日から、私は夫の行動をチェックする様になった。帰宅が遅かった日は服の匂いを嗅いでみたり、手帳に夫の帰宅時間を細かく書いた。夫がお風呂に入っている間に、財布に新しいレシートがないかも調べた。もう抜き取る様な事はせず、急いで内容をノートにメモる。すると、夫はなぜか街中にある手芸店にもよく行っている事がわかった。布やミシン用の糸、ゴム紐などを買い込んでいる。私は裁縫が大嫌いなので、家にはミシンは無い。夫は器用な人だから、手芸ができるということはあり得ない話しではない。一瞬、産まれてくる赤ちゃんの為にこっそり何か作っているのだろうか、と思った。だが、いったいどこでと疑問が湧く。夫の実家は飛行機に乗らないと行けない距離だ。私の実家と夫はあまりソリが良くないので、そちらに行く事も考えずらい。第一、だとしたらあの女性物の服や口紅はなんなのだ。
裁縫が大嫌いな私に嫌気がさして、裁縫好きの家庭的な優しい女に惹かれた?おねだりされて色々買ってあげているのだろうか。妊娠中は酷い悪阻、腰痛、貧血、逆流性食道炎と耐えず何かしら体調が悪かった。夫に当たってしまった事もある。そんな時いつも優しく接してくれていたが、心は離れていっていたのだろうか。
「今日は遅くなるから、先寝ていて」今までなら私の体調を気遣ってそう言ってくれているのだと捉えたが、もうそんな風には思えない。夫が家をでると彼のクローゼットを開けた。昨日までと違う物はないかチェックする。パンツ入れ、靴下入れの中も手をつっこんで何か入っていないか調べた。
その時ガチャリと玄関の鍵が開く音がした。身体がビクンと跳ねる。クローゼットから出ると、夫と鉢合わせになった。喉から「ヒッ」と言う声が出た。
「ああごめん。会社に出さなきゃいけない書類忘れた」
そう言ってダイニングテーブル横の本棚の上からバインダーを取った。
「どうしたの。顔色悪いよ」私は夫から視線をずらして、「赤ちゃんの服、以前もらったやつどこにあるか探してたの。しゃがんだりしたらちょっと気持ち悪くなって」と嘘をついた。
「そんなの言ってくれたらオレ週末でもやるから。無理しないでよ」と私の頭を優しく撫でた。
「じゃあ、行ってくるね。晩飯はコンビニかどっかで済ますから、先寝てていいからね」
夫は手を振りながら出て行った。
事態が動いたのは、夫がまた忘れ物をした日だった。昔からともかく忘れ物落とし物が多い人だったが、今はそれが突破口になる。夫は手帳を忘れて行った。手のひらサイズの、ブルーのレザー。
職場から電話があり、忘れ物をしたからお昼に一度戻ると連絡がきた。言ってくれたら私が届けるよ?と言うと、「大丈夫。ちょうど午後からそちらに行く用事もあったから」と一方的に電話が切れた。営業職でもない夫が仕事で外に出る事なんて珍しい。職場から自宅までは、電車で20分。そこから歩いて、片道40近くかかる。午前の業務を終えてすぐ職場を出たとして、家に着くのは12時30分前後だろうか。
私は家の捜索を始めた。猶予は1時間半。夫が何を忘れたと言っているのか知りたい。寝室に置かれた夫の作業机の周りや、ベッドやソファの下。クローゼットも調べた。特に変わった物はない。本当に仕事で使う書類だったら、私には見分けはつかないし探しても意味はない。でも、それだったらわざわざ取りにくるだろうか。私が届けると言った時、「大事な書類だから」とか言わないだろうか。
いくら探しても不審な物は見つからず、諦めかけたその時。洗濯機の上の棚に重ねたバスタオルの上に、夫の手帳が置いてあるのを見つけた。これだ、と思った。そう言えば、昔はよく家でも手帳を広げて予定を見ていたが、最近はあまり見ない。夫に不審を感じてから一度だけ、お風呂の時間を狙って中を除いた事がある。だが明らかに怪しいとわかる書き込みは何もなかった。第一、こんなものいくらでも嘘が書けるのだ。女と会う事を打ち合わせと書いてもいいし、ホテルの名前を会議室に変えても私にはわからない。そう思って以来、手帳を見るのはやめていた。
私は手帳が置いてある向きや角度を大まかに覚えて、リビングに持っていった。ソファに座って手帳をみつめる。手が少し震えていた。
怪しいものは拍子抜けする程すんなり見つかった。手帳の表紙の裏に、鍵が挟まっていたのだ。丸い輪っかに、2つの小さな鍵がついている。2つの鍵は全く同じに見えた。
これが明らかに住居用の鍵だったら、私の失意はまた深く深くなっていただろう。しかし、これはどうみても住居用には見えない。自転車につけるチェーンや、自宅用の小さな金庫に付いている様な大きさの鍵だ。
鍵にはアルファベットが掘られていた。
ALPHA
私は急いで寝室に行き、デスクトップのパソコンの電源を入れた。立ち上がりが遅くてイライラする。時計を見ると11時55分だった。
やっと開いた検索画面に「ALPHA 鍵」と打ち込む。
結果はすぐ出てきた。画面に映し出されたのは金色の南京錠だった。予想外の物に、理解が追いつかない。
私はもう一度夫の手帳の中身を見た。ふと思い立ち、夫の帰宅時間を書いた自分の手帳を出して、中身を比べてみた。夫が遅い日、22時を過ぎるくらいに遅いのは、だいたい週に1、2回程。20時すぎになる日を入れると、週に3、4回になる。遅い日は大抵青丸が付いていて、時間や場所が記入されている。
17時30〜ヤキタ生命の人来る
18時〜3会議室。津田さんと24日の打ち合わせ
18時45〜来年度からの各種連絡方法の変更について。2会議室
自分の手帳に書かれた夫の帰宅時間と、夫の手帳の内容を付き合わせると、気になる事があった。手帳に何も書いていないのに、23時過ぎて帰ってくる日が記録をつけ始めてから2回あった。そして、今日の日付をみるとそこは空欄。
「今日は遅くなるから、先寝ていて」
「晩飯はコンビニかどっかで済ますから、先寝てていいからね」
背中がゾクッとして、腕に鳥肌が立ったのがわかった。
手帳に書いていた内容は、嘘じゃなかったのかもしれない。何も書いていないところに注目すべきだったのだ。
夫は何をしているのだろう。挟まった南京錠の鍵。女性物を購入したレシート。それらは何を示しているのだろう。
私は時計を見てハッとした。12時23分。
急いで鍵を手帳に戻して、最初置いてあったようにバスタオルの上に置いた。心臓がバクバクいっている。
リビングに戻り、まだ少し震える手でココアを入れた。ソファに座って夫が帰宅するのを待つ。
玄関の鍵が開く音がしたのは、12時40分頃だった。思わず身体に緊張が走る。
洗面所でウガイをしている音がする。夫はのんびりした足取りでリビングに入ってきた。手にはコンビニの袋が下がっている。
「いやぁ、やっちゃったよ。物とったらすぐ行かなきゃ」
「そっか」
「これ、お土産。途中コンビニ寄って買ってきた」
夫から渡された袋の中には、焼きプリンやヨーグルトが入っていた。そのまま夫は寝室に入って行った。ガサゴソと音がする。戻ってきた手には、クリアファイルがあった。
「良かった。あったよ」ダイニングテーブルで鞄の中にそのクリアファイルを入れる。
「体調どう?」
「大丈夫だよ。少し冷えるからココア飲んでた」
「そっか。無理しないでしんどい時はすぐ横になるんだよ。掃除だってしなくていいから」
「ありがとう」私はなんとか笑顔を作って答えた。
「じゃあ、行ってくるね。先寝てていいからね。行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
ソファに座ったまま夫の後ろ姿に声をかけた。ドアが閉められ、鍵がかけられる音がする。
5分くらいそのまま座っていただろうか。私はソファから立ち上がり、洗面所に行った。
洗濯機上の棚に積まれたバスタオル。その上に置いてあった手帳は無くなっていた。
ここまでしなくてもいいのではと思ったものの、私は近場の量販店で新しい洋服を見繕った。上はメンズのオーバーサイズの地味なパーカー、下はお腹の都合上しょうがないので、手持ちの妊婦用Gパンだ。帽子も買って、いつもおろしている肩丈の髪は一つに縛った。安いショルダーバッグも買って、家から持ってきた鞄はそこに押し込んだ。
夫の職場の向かい側にあるバス停のベンチにすわる。
腕時計をみると、17時だった。何時が定時なのか昔聞いた気がするが、覚えていない。長期戦を見越して、途中のコンビニで麦茶とカロリーメイトを買った。ただしトイレが不安なので、水分補給はほどほどを心がけた。
外に出た事で、家の中にいる時より気持ちが落ち着いている。
夫の職場をこんなにゆっくり外から眺めたのは初めてだった。仕事にプライドを持っている事も知っているし、積極的に色々なアイデアを考えて挑戦する姿も見ている。家に帰ってからも、関連する本を読んだりして勉強していた。私には、その姿がとても眩しくて、夫を尊敬できるなんて幸せだな、と何度も思った。
ここ一ヵ月、夫の全てがわからなくなっていた。よく夫は「オレほど奥さん愛してる旦那はそうそういないよ」と冗談めかして言ってくる。付き合ってる時から一直線。夫を疑った事なんてなかったし、ずっと自分ではなく夫に似た赤ちゃんに会いたいと思っていた。優しくて誠実。面白くて情熱的。まさに理想の旦那様だった。
それが、脆くも崩れ去ろうとしていた。夫の事がわからない。優しい言葉も、裏に違う意図がある気がしてならない。あの南京錠の鍵は何を意味するの。女性用の衣類は誰にあげたの。
もし今夜、何か決定的な夫の裏の面を知ってしまったら、私はどうするのだろう。今まで通り何も知らないフリをして、家で帰りを待っているのが正解なのではないだろうか。手のひらにジワリとした嫌な汗が浮かぶ。夫に早く出てきて欲しい。出てこないで欲しい。夫の職場の正面玄関を見ながら、色々な思いが私を襲った。
18時17分。ついに夫が職場から出てきた。腕時計をチラリとみながら、駅の方へ向かっている。私は向かい側の通りから夫を追いかけた。途中信号で止まった時に、夫側の通りに渡った。駅に向かっているであろうサラリーマンや学生が多く、気を抜くと見失いそうになる。できるだけ大股で歩き、走らないように気をつけた。
あらかじめ駅に寄ってワンデーパスポートを買っておいたので、行き先がわからなくても問題なく追える。
夫は自宅とは逆方向の乗り場に並んだ。心の奥底が重くなる。見慣れた後ろ姿が、知らない他人の様に感じてしまう。
列車が到着すると、夫とは一つ離れたドアから乗った。幸い車内は混んでいるものの、身動きとれないほどではない。夫の姿を確認できる位置に立ち、帽子を目深に被った。こんなドラマみたいな事をしている自分を笑う冷静な自分もいる。上手くいくわけないじゃない。だいたい、上手くいくって何?私は何が知りたいの?
私は大きく深呼吸して、そっとお腹を触った。大丈夫。きっと、大丈夫。根拠は何もない言葉を、心の中でお腹の子に語りたけた。大丈夫だからね。大丈夫。
30分近く電車に揺られて、やっと夫はホームに降りた。途中で空いた席に少し座れたのは有り難かった。夫に見られるリスクはあっても、腰が痛くてたまらなくなっていたのだ。
夫は迷う事なく歩いていく。駅を出て、閑散とした商店街を抜けた。その頃には人通りもそんなに多くなかったので、可能な限り離れて歩いた。だんだんと日は落ちて、もうかなり薄暗い。途中にあったコンビニの光がやたら眩しく感じる。住宅や個人経営の会社らしき建物が並ぶ道を、どんどん歩いていく。その時だった。夫はふと後ろを振り返った。私はとっさに目線を下げて、そのまま速度を変えずに歩いた。心臓が一気に早鐘を打つ。夫はこっちを見ているだろうか。下を向いたままそのまま少し歩いて、勇気をだして一瞬夫のいた方を見た。夫がいない。慌てて、早歩きで夫が振り向いた場所に行った。そこはすぐ先に右に曲がる横道があり、夫が真っ直ぐ行ったのか曲がったのかわからない。私が下を向いている間に、どこか建物に入ってしまったのだろうか。
私は意を決して右に曲がった。そのまま早歩きで歩く。もう、バレるかもという事より、夫を見失った方が怖かった。
20mくらい歩いた時だった。行き止まりに出た。左側はアパートの背になっている。右側に空き地の様なスペースがあり、青い壁にオレンジ色の扉が並んでいる、異様な外観の建物があった。建物の屋根付近にいくつか照明が付いており、全体が明るく照らし出されている。
いた。夫だ。私は咄嗟に電柱の影に身を寄せるように隠れた。オレンジ色の扉の前で、カバンを足元に置いて何かをしている。次の瞬間、夫は目の前の扉を開けて中に入って行った。
私はしばらく呆然とその建物を見つめた。横長のその派手な建物には、20個ほどのオレンジ色の扉がある。恐る恐る近づくと、右端の屋根に監視カメラが付いていた。夫が入っていったのは左から3番目。私はゆっくり近づいて行った。中からは何も音がしない。そのまま建物の端まで歩くと、左側の壁に大きく文字が書いてあった。パソコンマークの横にどこかのURL。その下に〝貸コンテナ〟と書いてあった。
貸コンテナ。なんとなく、荷物を預けたりする場所だという事はわかる。よく見ると、夫が入った場所以外、どこの扉にも鍵がかかっていた。南京錠だった。
私は夫が入って行った扉を背に、地面に座り込んだ。かなり足腰が限界だった。空を見上げると、微かに星が見える。買ったばかりのショルダーバッグからお茶を取り出して一口飲んだ。口の中がカラカラだった。たまに、夫のいるコンテナから微かに音が聞こえた。ドア一枚挟んで、そこには一生を誓い合った人がいる。きっと中から鍵はかかっていないから、ドアを開けようとすれば開くと思う。でも、夫が自分で出てくるまで待ちたかった。正直、自分から扉を開けるのは怖かった。私は目をつぶった。遠くから、クラクションの音や犬の鳴き声が聞こえる。付き合い始めてすぐ、犬派か猫派で盛り上がったのを思い出した。夫は絶対に犬派。私はどちらでもいいけど、猫なら懐いてくれて犬ならあまり吠えなくて賢い子がいいと言った。すると夫はつらつらと色んな犬種を出して、プレゼンしだした。一つ一つの犬種のメリットとデメリットを言っていく。結局、将来買うならコレだねと二人で合意したが、いったいどんな犬だったか思い出せない。
いきなり、ダダダダダと後ろのコンテナから音がした。驚きすぎて、お茶のペットボトルを落としてしまった。私は立ち上がって、オレンジ色のドアを見つめた。
この音、ミシンだ。小学生の時以来聴いていなかったが、間違いない。止まったり、また始まったり、不規則な音が聞こえる。夫はコンテナの中でミシンを使っている。まさか、自分の人生でこんな意味不明な状況があるとは思わなかった。知らない土地、知らない建物の中で、夫がミシンを使って何かを作っているのだ。
ミシンの音は鳴り止まない。腕時計で時間を確認すると、20時08分だった。なんだかさっきより気持ちに余裕が出てきたのか、トイレに行きたくなってきた。妊婦には切実な問題だ。私は思いきって、さっき通りがかったコンビニに行く事にした。最悪、夫が通っている場所はこれで分かった。入れ違いになってしまったら、次からはこの場所で待てばいい。
来た道を引き返して少し歩くと、すぐその明かりが見えた。
「いらっしゃいしゃっせぇぇぇ!」
金髪のヒョロっとした青年が威勢よく挨拶をしてきた。店内を見渡すと、ブックコーナーの奥の方にトイレがあった。中に入って鍵を閉めると、なんだかすごくホッとした。1人の空間。眩しいくらい明るい中にいると、現実なのか夢を見ているのかわからなくなりそうだった。
用を済ませて、適当におにぎりを一つ買って店を出た。さっきよりずっと周りが暗く感じる。お腹を庇うように、のんびりとまたあのコンテナに向かって歩いた。夫はこの道を何回歩いたのだろうと考える。その時、私は何をしていたのだろう。好きなお笑い番組を観ていたのか、お風呂に入っていたのか。夫は何を考えて歩いていたのだろう。
コンテナに戻ると、まだ中からはミシンの音がしていた。私はまたその扉を背にまた地面に座った。お腹が苦しいので、少し上体を倒して後ろで手をつく。思いきって両足も伸ばした。誰か来たら、思いっきり不審に思われそうだ。時計を見ると20時40分。私はミシンの音を聞き続けた。そして頭の中には、一つの可能性がぼんやりと浮かんできていた。もしかして。でも。きっと。私はその可能性について、ずっと考え続けた。
音が止まったのは、21時を少し過ぎたくらいだった。
ガタガタと何かをズラすような音が聞こえる。たまにシーンとしては、またカタッと音が聞こえる。
私は立ち上がって服についた土を払った。ショルダーバッグを斜めがけする。大きく深呼吸した。お腹に触れて、また、大丈夫、大丈夫と唱える。コンテナから少し離れた薄暗い場所に移動した。
しばらくして、コンテナのドアがカタンと動いた。次の瞬間ドアから黒いコートを着て、素足にバレエシューズの様なものを履いた夫が現れた。口には白いマスクをしている。周りを気にしている様だが、暗がりにいる私には気づいていない。手にはお祭りで売っているお面の様な物を持っていた。何のお面だろう。ここからではそこまではわからない。扉を閉めると、意外にも鍵をかけずに歩きだした。私は薄暗い空間から、前に出た。
「文雄さん!」
夫の後ろ姿に声をかけた。
夫の足がピタリと止まる。だがこちらを振り向こうとはしない。私は小走りで夫に近づいた。
「文雄さん」
2メートルくらい先に、コートを着たよく知った背中がある。
「奈津子か」
夫の声は、小さくて震えていた。
「うん。奈津子です」
夫は黙った。よく見ると、お面を持った手が震えているのが見えた。
「文雄さん、こっちを見て」
「……どうして、君がここにいるんだ」
「ごめんなさい。学校を出たあなたを、ずっと追って来たの。本当の事が知りたくて。あなたが、違う女性の元に行くんじゃないかと思って」
「なんでそんな事」
「文雄さん、こっちを見てよ。お願い。顔が見たいの」
夫はまたしばらく黙った後、ゆっくりと振り向いた。
マスクから覗く両目には、今にも溢れ落ちそうな涙が溜まっていた。お面を持ってない方の手で、コートの前を重ねて握りしめている。
「文雄さん、一つ聞かせて。私以外の女性と深い中になっている訳ではないのね?」
「当たり前だろう」夫は搾り出すように声を出した。
「僕には、奈津子しかいない」
そう言うと、地面に膝をついた。下を向いて、身体を震わせながら泣きだした。ごめん、ごめんと途切れ途切れに聞こえてきた。私は、どうしてよいか分からずにただそんな夫を見ていた。1番知りたかった他の女性の存在。それを否定されて、力が抜けそうになほどホッとした。ここしばらく、ずっと頭から離れなかった。今頃夫は違う女性と会っているんじゃないか。私を見ているようで、違う女性の顔を思い浮かべてるんじゃないか。本当は離婚したいのに、子供が産まれるから嫌々優しい夫を演じているんじゃないのか。ずっとずっと、そんな事ばかり考えていた。今夜までは。
「君に、バレたくなかった。こんな自分が恥ずかしくて恥ずかしくて、異常だとわかっていても、やめられなかった。ついに、バレてしまった。奈津子に、バレてしまった」私に向けて言っているのか、夫が自分自身に向けて言っているのか、わからない呟きだった。
私はしゃがんで夫の肩に手を置いた。
「ねえ、とりあえずここじゃ話しずらいでしょ?もし良かったら、私をあなたのコンテナに入れてくれない?」
コンテナと聞いて、夫はピクリと身体を震わせた。
「嫌だったら、私はここで待ってる。その、よくわからないけど、着替えて一緒に帰らない?文雄さんの1番いいようにするから」
「奈津子は、どこまで知っているの」怯えるような目線を私に向ける。
「正直何も。あなたが女性用の服とか口紅を買ってるのを知ったから、他の女性と会っているんだと思った。だからあなたをつけて来た。でも、あなたはそれを否定したし、その格好を見て、そのコートの中はその。てっきりあなたが他の女性にあげたと思っていた洋服なのかなって」
「僕が、ここで何をしていたか知らないの」
「知らない。さっきミシンの音がしたから、何が作ったりしているのは間違いないと思うけど。何を作っているのかも知らないし、こんな場所借りてるなんて事もさっき知ったんだよ。本当に、何も知らない。ねぇお願い、帰ろう?帰って、家で話そうよ」
夫は、私の顔を真っ直ぐ見つめていた。そして、自分の肩に乗った私の手をそっと下ろした。
「僕はね、奈津子。中学生、高校生、看護師、花嫁、赤ちゃん、色んな服を来て、それを他人に見せて興奮していたんだ。今夜は幼稚園児の格好で、他人に見せに行こうと思ってた。変態だよ。道を歩いてきた人に、いきなり見せるんだよ。服だって、売ってなければここに来て自分で作るんだ。身重の奈津子を少しでもサポートしなきゃいけない時に、僕は変態の格好をしてこの辺を何度も歩き回ってたんだ」
目を逸らす事なく、夫は私に言った。
「僕は夫であり、もうすぐ父親であり、教師なのに。どうしようもない変態なんだ。病気だよ。異常なんだ」
むしろ淡々とした口調だった。
正直、女装かな、とはうすうす察していたが、そこまでとは思わなかった。そして私にはそれがどうも実感が共わない。中学生?花嫁?赤ちゃん?
「今は、幼稚園の格好をしてるって言ったよね」
夫は答えない。
「見せて」
夫は目を見開いた。そしてコートの前を両手でぎゅっと掴んで叫んだ。手に持っていたお面は地面に転がっている。
「そんな事できる訳ないだろ!奈津子にだけは知られたくなかったんだ。奈津子に見られるくらいなら、死んだ方がましだ!」
私は夫の顔に平手打ちをしていた。心の底からマグマが噴き出すように、激しく強い怒りが湧き上がってくる。夫に合わせてしゃがんでいるのも辛くなって、立ち上がった。上から夫を見据える。
「何身勝手な事言ってるの。私がどれだけ辛かったと思ってるの?苦しくて、悲しくて、考えても考えてもどうしたらいいかわからなくて、でもやっと今夜あなたの元に辿り着いた。お腹の中の双子のパパはあなた、文雄さんしかいないのに、あなたは自分の性癖を妻に見せるくらいなら簡単に死ぬの?」
怒りに任せて口が勝手に動く。
「見られて興奮するんでしょ!?私じゃダメなの?コソコソしないで、私に見せてよ。私相手じゃ興奮しない?見せなさいよ!全部曝け出して、死ぬならそれから死ねばいいじゃない!そんなくだらない理由で私もお腹の双子も捨てるなら、止めないわよ!」
後から考えると、私はこの時夫にものすごい酷な事を要求したのだろうと思う。ずっと隠してきた夫の秘密。夫の裏の顔。でも、夫が他の女性の元に通ってるのかもしれないと思った時の方が、百倍悲しかった。そんな事で、家族を蔑ろにするような発言は許さないと思った。
「あなたが、世界一の変態だろうがコスプレマニアだろうが、私の旦那さんで、お腹の子達の父親だって事実が、変わるの?」
夫は下を向いていた目線を私に向けた。
「変わらなくて、いいの?気持ち悪くないの?こんな夫で父親で、それでもいいの?」
私は少し考えて、浮かんできた思いをそのまま口にした。
「正直、いいかどうかはわからない。例えばあなたが変なコスプレで子供の参観日に行くと言ったら止める。子供がイジメられる様な事は父親としてしてほしくないし、受け入れられないと思う。でも、違う形で、どうやっていけばいいか一緒に考える事はできる。まだ、具体的にはわからないけど、これから少しずつ考えていけばいい事だと思う。家族なんだから、少しずつでも理解していきたいよ。お願いだから、隠さないで」
夫は、私の顔をじっと見た後立ち上がった。そしてゆっくりと、コートの前を広げた。コンテナからのライトにぼんやり照らされて、その姿が現れた。
ブルーのスモックに、黄色い布製のカバンを斜めがけしている。スモックには、ご丁寧に名札の白い布が安全ピンで付いていた。布の真ん中にはチューリップのマークが、多分フェルト素材で作られ飾られている。白い短パンからは、夫の毛深いが筋肉質は足が伸びていた。白い短い靴下に、白いバレエシューズの様な靴を履いていた。
ふと、広げたコートの裏地にガラスのような物が沢山付いている事に気づいた。
「ねえ、その、コートの裏のキラキラしたの何?」
夫は両手でコートを広げたまま無言で襟あたりをイジッた。すると、クリスマスツリーのようにコートの裏がチカチカ光だした。真顔でこちらを見つめる、幼稚園の格好をさした夫。キラキラと、その姿は夜の闇から浮き出ていた。
「……なんで幼稚園児が光るの?」
とりあえず、私は1番最初に思った疑問を口にしていた。
夫はコンテナに戻って着替えた。少しだけ中を覗かせてもらったが、テレビで見る芸能人の衣装部屋の様だった。左右に様々な服が吊るされている。奥の方には、ミシンと全身鏡が置いてあった。多分ミシンを使い終わった後横に避けて、その隙間に全身鏡を引っ張り出してくるのだろう。
「前はただ色々な衣装を着て、この中で自分のその姿を見るだけで良かったんだ。それだけで満足だった」
コンテナを借りたのは、奈津子と結婚してすぐだった。週に一度程通っていたという。結婚前は一人暮らしの部屋で、こっそりたまに楽しんでいた。身長も167cmしかない文雄は、学生時代から友達に悪ノリで女装させられていた。男子校だったため学園祭は3年間毎年メイド服で過ごさせられ、いつしかそんなに嫌がっていない自分に気づいたという。
実は小学生の頃から裁縫が好きだったんだ。と夫は話した。自由研究は、いつもバックや服を作って持って行ったそうだ。そのうちこのコンテナの中でも、既製品で手に入らないものはだんだん自分で作る様になっていった。すると世界が広がった。溜まった衣装を見るうちに、誰かに披露したくなった。幸い前から借りているこのコンテナの周りなら、職場や自宅からも遠く知り合いに会う危険は少ない。念には念をいれて、玩具屋さんでお面を買った。舞台は夜。どうせなら目立たせようと、電池式のクリスマスツリー用の電飾をコートに縫いつけた。自分に一度だけ、と言い聞かせて外にでた。
夜9時近く、下調べしてあった空き地に行き、誰か通りかかるのを待った。たまに通るのは車や自転車が多く、なかなかちょうどいい人が現れなかった。やっぱりこんな事やめようか迷っていると、明らかに酔っ払った感じのカップルが歩いてきた。チャンスだと思い、近くまで来た時にコートを光らせた。それからの事はあっという間だった。彼氏はこちらを見るなり、矢の如く逃げて行った。彼女はだんだん近づいてきて、携帯で撮影までしだした。こんな姿を若い女性に見られて、尚且つ撮影までされている。未だかつてない興奮だった。もっと見てほしい。でも恥ずかしい。2つの感情が、呼吸を荒くした。
彼女の「なんかこいつヤバくない?」と言う言葉で我に返った。コートの電気を消して、空き地の隅で小さくしゃがんで女性が去るのを待った。こんな事をした自分が恥ずかしくて仕方がなかった。
一回だけと思った夜のお披露目も、最初の興奮が忘れられず、結局それからも繰り返してしまった。だんだん土地勘ができて逃げ道確保も上手くなってくる。あんなに恥ずかしかったのに、一晩に3か所くらいで実行するようになった。いつか捕まるかもしれない、それすらスリルになった。でも、頭のどこかでこんな事しちゃいけないと、いつも怯えてもいた。
「今夜君に見つかってなかったら、いつか本当に捕まっていたと思う」
「良かったんだかどうなんだか」
今奈津子と文雄は並んで道を歩いている。
大通りからタクシーを拾って帰る事にした。だいぶお金はかかるが、奈津子の腰はもう限界を超えていた。心なしか、いつもよりお腹も張っている気がする。それを聞いた文雄は顔を青くして、自分が走ってタクシーを拾ってくるから奈津子はここで座って待っていてほしいと言った。だが、奈津子はこんな場所に1人でいるのはもう嫌だと言った。
「ほら、変な格好した変態さんが、現れるかもしれないし」少し意地悪な顔をして奈津子は言った。
「参ったな」文雄は気まずそうに頭を掻いた。
コンビニの横を通る。レジカウンターで、さっきの金髪の店員と歳上に見える黒髪の店員が親しそうに喋っていた。
「アイス、買ってきてほしい」奈津子は文雄のスーツの裾を引っ張った。
「溶けるよ?」
「今食べるの。口の中気持ち悪い。フルーツ系のサッパリしたやつがいい」
「わかった」文雄は走ってコンビニに入って行った。「いらっしゃいしゃっっせぇ!」店員の声が外にまで聞こえる。
「変な挨拶」奈津子は呟いた。
「変な旦那」「変な1日」「変な…夫婦」
レジで会計をする夫の後ろ姿を見つめた。いつもの文雄さんの後ろ姿だ。男性の平均よりは小さいかもしれない。でも、奈津子にとって世界一頼りになるのはこの背中だ。
これからどんな夫婦になって、どんな家族になっていくんだろう。未来は今の奈津子には全くわからない。
でも、と奈津子は大きく息を吸った。家に帰ろう。二人で家に帰って、ゆっくり休もう。それからいくらでも話し合えばいい。何年かかっても、私達にとって良い形を探していけばいい。私達は夫婦なんだから。世界でたった一つの自分の家族なのだから。
コンビニから文雄が出てきた。アイスを受け取って、さっそく袋を破って口に含む。柑橘系のフレーバーが口の中に広がる。
奈津子はアイスを持っている方とは反対の手を、文雄の手に絡めた。
「帰ろう」
文雄は奈津子の顔を一瞬見つめて、前を向いて「うん」と答えた。
二人は大通りに向けてまたゆっくり歩きだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます