第3話 一階の人

 逢坂文雄は自分の事を、経歴だけみれば〝真面目〟と評される人間だと思っている。

 ある程度しっかり勉強し、ある程度偏差値の高い大学を卒業し、ある程度知名度の高い中高一貫校の教師となった。

 大学時代に友達から紹介された奈津子と結婚した。奈津子は美容の専門学校に通う年齢は一つ下で、身長が高く167cmの文雄と対して変わらなかった。「私昔から身長がコンプレックスで、気づいたら猫背になっちゃうの」という奈津子に対し、「僕も身長コンプレックスで、気づいたらシークレットシューズ3足も持ってます」と答えた初対面。奈津子は漠然と、自分はこの人と結婚するのかもしれないと思ったと言う。

 大学卒業と同時に結婚し、文雄は教師、奈津子は美容室でパートを始めた。文雄の就職した中高一貫校は、毎年医学部に40人前後、東大に5人前後現役合格をする進学校だった。大学もエスカレーター式で行けるが、半数以上は外部の大学を目指す。親も医師や経営者が多く、教育熱心な人が多い。帰国子女も多数受け入れてるので、中学のうちに英検一級取得する子も一定数いる。

「元の皇帝・フビライは、実際に侵攻する1274年までに、6回日本に国書を出したと。しかし日本側は返書は、したでしょうか羽田君」

「羽田くん」2度目でようやくこちらを見る。さっきから教科書を立てて、タブレットをいじっている。タブレット自体は全教科で使用を許可されているので問題ではない。ただ、笑いを堪えたニヤニヤした顔でずっとタブレットを見ているのは「蒙古軍を撤退させた日本軍に感銘を受けました」とか、10歩譲って「北条時宗の頭がツルツルなのでウケました」ならいい。

「どうでしょうか、羽田君」

「あー、」羽田は立ててあった教科書をパタンと倒してタブレットを隠した。何かに気付いたのか一瞬後ろを見る。

「してません!」羽田が元気よく答える。

「正解、勝俣君」

 羽田の後ろに座る勝俣の名前を言うと、教室からクスクス笑い声が漏れた。

「いいかー、文永の役、弘安の役、ちゃんとチェックだぞー。週末の課題ここ範囲で出すから、日曜21時までにタブレットで提出。自分の学生番号をちゃんと名前の前につける事。最近忘れてる人多いので注意な」

 ちょうどよくチャイムが鳴った。

「先週の課題出してない人。今週の課題と一緒に提出していいぞー。はいじゃあ終わります」

「センセー、昨日のテストいつ返ってくる?」腰まである髪を2つに結んだ佐田が声をあげた。

「月曜に返せると思うぞ。自信ありか」

「まぁねー」

「返さなくていいよー」

「同意ー」

 何人かの生徒がすでに教室を出て行った。弁当ない組だろう。購買か学食か、どちらにしろかなり混む。廊下はパタパタと生徒の小走りな足音が響いていた。


「ただいま」

「おかえりー」と風呂上がりであろう淳が頭を拭きながら洗面所から出てきた。

「父さんの好きな焼き鯖の寿司だったよ」

「お、いいな」

 リビングに行くと奈津子は美穂と一緒に録画したバラエティを見ていた。妻と娘のおきいりの、学校でお笑い芸人や人気アイドルがかくれんぼするやつだ。

「パパお帰りなさーい」美穂がテレビに顔を向けたまま言った。

 双子で産まれた美穂と淳は今年20歳になった。美穂は大学二年生、淳は調理の専門学校の二年生だ。淳は4月から県外のホテルで働き出す事が決まっている。寮の手続きが終わった時、「やっと1人旅立つわぁ」と妻が嬉しさ半分寂しさ半分の顔で呟いたのが印象的だった。

 「お帰り。お腹が空き度何パーセントくらい?」

「120パーセント」

 奈津子はこうやって聞いて量を調整してくれる。最近腹に肉が付いてきたのもあって、できるだけ晩ご飯は軽く済ませようと思っているのだが、なかなかうまくいかない。平日のビールは極力控えるようにしている。

「今日ね、リンデル休みだったし、焼き鯖棒寿司いっぱい作ったの。明日のお弁当にも入れるよ」

 背広を脱ぎながら返事をする。「ありがとう。今日のご飯の上に乗った肉美味しかった。あれ何?」

「あれね、この前焼肉した時出し忘れたトントロ。あれ味ついてて焼くだけだから楽チンなのよ」

 リンデルは奈津子がパートで働く美容室だ。結婚前からフルタイムで働いており、結婚してからはパートになった。「気づいたら店長の次に古株になっちゃった」と笑っていた。

 焼き鯖棒寿司、豚汁、長芋と梅肉を和えたもの。

 草木模様のランチマットに並んだご飯はとても美味しそうだ。

「いただきます」

 結婚当初は料理が大嫌いだった妻は、今や趣味が料理と言うくらい色々作ってくれる。お菓子作りだけは多分一生しないと思う、と言う。「お菓子ってね、私みたいな適当な性格の人間には向いてないのよ。秤で測ったり、手順がしっかり決まったいたり、何回かYouTubeで見てみたけどやっぱり無理ってなった」

 文雄は手作りのお菓子だろうが、コンビニスイーツだろうが、こだわりは全くないので問題ない。日々のご飯が美味しいだけで満足だ。

「ねぇパパ、20歳になったんだし車欲しい」美穂がテレビに顔を向けたまま言い出した。最近よく言う。仲のいい友達の影響らしい。

「働いて自分で買いなさい。だいたい大学生の身で車なんていらないだろう」

「えーっ。うちの大学田舎だしさぁ、マイカー登校してる子けっこういるよ。電車めっちゃ混むしさぁ、可愛い娘が痴漢に会う可能性無くなるんだよ?安い買い物じゃなーい?」

「ねえ、ゴミ出してってってお願いしたのにまた忘れてったでしょ」妻は娘の戯言を華麗にスルーした。

「ああ、そうだごめん。職場ついてから思い出したんだよ」

「わざわざ玄関に置いてあるのに、なんで忘れるかなあ」それは本当に自分でもわからない。一応目は二つついてるし、やる気もあるのだがよく忘れる。

「あ、そうだ、それでね、一階の人引っ越したらしいわよ」

「え、そうなの?」先に反応したのは美穂だった。

「今日ね、ゴミ捨てに行く時遥ちゃんママに会ったのよ。そうしたらね、夜逃げみたいに誰にも挨拶せずに出て行ったって」

 遥ちゃんママの家は、今話題になってる引っ越しした人の向かい側にある。美穂と同い年の女の子がいるため、小学生の頃はよくお互いの家に遊びに行っていた。

「なんかね、玄関の前に盛り塩してあるの。ねぇ、引っ越した時って盛り塩するもの?」

「いや、聞いたことないな」

「やだー、事件を感じる!あの夫婦なんか色々ありそうだったもんね。もしかして、奥さんが旦那さんを、、」キャーと美穂がクッションに顔を埋める。

「だったらニュースになるだろ」いつのまにか淳がアイスを食べながらテレビの前の床に直接座っていた。

「じゃあなんで盛り塩してんのよ」そう聞く美穂に、淳は「知らねーよ」とそっけなく答えた。

 テレビでは、ゲストの人気若手俳優がかくれんぼで生徒に見つかって盛り上がっている。

「管理費、ちゃんと払ったのかな」私がボソッと呟くと、奈津子は「ねー、それ気になるよねぇ」と頷いた。

 うちのマンションの一階に住んでいた伊里中さん。50代くらいのご夫婦で、夫婦2人と犬2匹。一人娘が結婚して近くに住んでいると聞いた事がある。もともとここは6年前に建てられた新築分譲マンションで、今入居している人は殆どその時から住んでいる。2LDK、3LDKが2種類、4LDKに分かれていて、2つのエレベーターが設置されている。北側は2LDKと4LDK専用エレベーター一号機。南側は3LDK専用エレベーター二号機になっている。北側の一階に、遥ちゃんママの家と伊里中さんの家があった。入居してから何かと奥さんがマンション会議などで文句を言う人で、エレベーターホールで会話をされるとうちの犬が吠えるのでやめて欲しいだの、マンション周りに植えられている木の手入れがなっていないだの、何かにつけて苦情を申し立てていた。それはまだいいのだが、管理費を払っていなかった。正しくは、滞納して請求してもなかなか払わない。マンションで2年に一度のローテーションで各家庭か担当する理事会。我が家は昨年まで会計業務を2年間担当していた。といっても、本来殆ど判子を押して提出するくらいの仕事なのだが。それが、伊里中さん家の滞納分を、定期的に現金で受け取りに行かなくてはいけなくなったのだ。口座振り込みだと埒があかないので、今までの滞納分を分割して少しでも払ってもらっていく流れだ。

「私は絶対やーよ。第一怖いじゃない。こういうのはパパがやってよ」確かに同じマンションの住民のお金の取り立てを妻にやらすのはと思い、文雄が行く事にした。決められた日時、管理会社の社員と会計担当の2人で伊里中さん家のチャイムを鳴らした。扉の前に来ただけで、犬がキャンキャン吠える音がひっきりなしにする。別にエレベーターホールで話す話さない関係なくうるさく吠えてるんじゃねーかと思う。

「はい」インターフォン越しに奥さんの声が聞こえた。

「以前お話しした管理費の件でお伺いしました」

 少し沈黙があって、「少しお待ちください」と低い声が聞こえる。しばらくして奥さんが出てきた。奥さんは玄関を開けたとたん、素早く扉を後ろ手にドアを締めて手招きしてきた。片手にがま口の財布を持っている。ちょうどエレベーターの一号機と二号機を繋ぐ連絡通路まで無言で連れて行かれる。

 やっと立ち止まると、伊里中の奥さんは凄い形相で振り向いた。

「ちょっと!今家に旦那いるのよ。困るじゃないそんな時に来られても。私バレたら殺されるかもしれないわよ!?」

「はい?」管理会社の社員が戸惑っている。そりゃそうだ。殺されるってなんだ。

 私と同じ会計担当の頸木さんが「いや、今日この時間お伺いするって、以前からお約束していましたよね?」と確認する。こちらも旦那さんが来ていた。

「そうは言ってもね、この件は旦那には言ってないの。いいでしょ、私が払うんだから。だから旦那がいる時にチャイム鳴らされて管理費の件で〜とか言われても困るのよ!」

「こちらも困っているんですよ。わざわざそちらに時間を合わせてこんな事しなきゃいけなくて。管理費は住民全員が支払う義務なんですよ。本来口座から」頸木さんはけっこう腹に据えかねている様子だ。

「だから、家庭には家庭の事情ってものがあるでしょう!」

「ともかく、お約束した金額お支払いして頂いていいですか?」管理会社の社員が、カバンから透明なチャック付きのケースをとりだして、伊里中さんに穏やかな口調で言った。

「ええと、はい。15400円ですね。お確かめ下さい」1枚のプリントを伊里中さんに渡す。このプリントは、会計担当の我々もみて判を押したものだ。今までの滞納分83万4000円を、だいたい1年間で返済してもらう計画だ。伊里中さんも、この額なら、と了承した。もちろんこれは過去の滞納分なので、新たな管理費も毎月かかる。そちらは従来通り口座で支払ってもらう事になっている。

 伊里中さんは少しの間渡されたプリントと管理会社の社員を睨んだあと、プリントを乱暴に畳んで服のポケットにしまった。

「あるかわかんないわよ」聞き捨てならないセリフを言いながら、がま口の財布を開いた。中から二つ折りになっているお札を取り出す。ひいふうみいと数える。それから小銭を手のひらにひっくり返して数え出した。

「あら、14233円しかないわ。ごめんなさいね、今回はこれで勘弁して」

 悪びれる感じでもなく、その金を管理会社の社員に押し付けてこようとする。

「いやいやいや、ちょっと待って下さいよ」

「なによ。ないんだからしょうがないじゃない。差額は次の時に足して払うわよ」

 そうなると、この社員はまた書類を作り直し、会社と我々会計の判を貰わなくてはいけないのだろう。心底困ったようにため息を吐いた。

「伊里中さん。こう言ってはなんですが、奥さん1人でこうやって支払うってのは厳しいんじゃないですか?我々も暇じゃないんですよ。こうやってマンションの会計の方にもご迷惑かけてます。どういう事情か知りませんが、きちんと旦那さんに相談して」旦那さんという言葉が出た瞬間伊里中さんの眉尻が吊り上がった。

「だから!旦那には言わないでって言ってるでしょ!言ったら大変な事になるわよ!他人の家庭の事に口出さないでよ。こうやって払おうとしてるでしょ!」

「支払えてないでしょう」頸木さんがイライラしたように口にした。「支払えてないから、こうやって管理会社の人も妥協して、本来認められない分割なんていう話しになってるんでしょう?」

「千円ちょっとくらいいいじゃない!次回払うって言ってるんだから。また来月とりに来なさい」

 これには私もカチンときた。

「伊里中さん、大人としてそれはどうなんでしょう。今日いきなり押しかけたならまだしも、以前からのお約束で、伊里中さんもご了承頂いた金額ですよね。それを足りないだの来月に足せなど、ちょっとそれは違うんじゃないですか」

「本来だったら滞納分一括で支払ってもらうところなんですよ?頼みますよ。これ以上色々とゴネられると、以前もお話しした通り我々会社としては法に訴えるしかないんですよ。約束したものは、毎月きちんと」

「わかったわよ!ちょっと待ってなさい!」伊里中さんは頸木さんの身体にぶつかりながら、家の方に戻って行った。恰幅のいい伊里中さんと、細身長身の頸木さんでは、頸木さんがもろに後ろによろける羽目になった。

「ったく。参ったものですね」頸木さんが頭をかきながら呟く。

「すみません、本来住人の方にこんな事お付き合い頂く事じゃないと思うんですけど。なにぶんイレギュラーな事で、会社と理事会長の間でこの方法で決められてしまって」

「だったら理事会長が来りゃいいのに。906の向田さんでしたっけ?自分で立候補した割に、ちょっと無責任ですよね」

 社員さんは、「はぁ、そうですよね」と苦笑いしている。

「まぁこのご時世、どこの家庭にも事情はありますよ。だからってあの態度はないでしょう」

「旦那さんとどういう関係なんでしょうね。言えないって」私の言葉に、頸木さんが「私、違うと思いますよ」と反応した。

「違うとは?」

「うちの駐車スペースと伊里中さん家の駐車スペース、隣同士なんですよ。だから何回か旦那さんとお話しした事あって。旦那さん、気の弱そうな、真面目そうな人ですよ。和嶋酒造にお勤めになってるみたいなんですが、妻は酒好きなんだけど自分は一滴も飲めない体質でって笑っていました。とても殺されるとかそういう」

 頸木さんの話の途中で、ドアが開く音と犬のキャンキャン鳴く声が廊下に響いた。バタバタと足音がこちらに来る。

「これで文句ありませんよね」伊里中さんは社員さんの片手をとると、手に持っていた金を押し付けた。

「ちょうど、ありますね」

「ちょうど、渡しましたから。あ、管理人の人。この前11時50分に通りかかったら、もう昼休憩の札だして窓閉めてましたよ。休憩12時からですよね?注意した方がいいんじゃないですか?やる気ないなら違う人にして下さい」

 そう言ってさっさと家の方に帰って行った。また犬のキャンキャンという鳴き声が廊下に響き、ドアの閉まる音がする。

 はぁ、と3人だれからともなくため息がでる。

「なんなんだ本当に」頸木さんが呆れたように言う。「これから毎月これに付き合わされるんですか私達」

「まぁ、うちと頸木さん家は後2回で会計卒業できますから」私のフォローに、管理会社の職員さんがまた大きなため息を漏らした。

「あ」受け取ったお金をファイルにしまっていた手がとまる。

「領収書渡すの忘れていました」

「封筒に入れて郵便受けに入れといたらどうですか?伊里中さんの奥さんの名前でも書いて」

「そうですね」

 少なくとも今日はもうあの人と関わりたくない。3人とも同じ気持ちだろう。

「まぁともかく、お疲れ様でした。僕は帰って風呂入ってビール飲みます」頸木さんは会釈して二号機エレベーターの方に歩いて行った。

「逢坂さんも夜分ありがとうございました。申し訳ないんですけど、また来月宜しくお願いします」社員さんが頭を下げる。

「いえいえ、お疲れ様でした」

 私も頭を下げて一号機のエレベーターに向かった。隣の伊里中さんの部屋からは、相変わらずキャンキャンキャンキャン鳴き声が聞こえる。

 私はその時、なぜか伊里中の奥さんがドアスコープ越しに自分を見ている気がした。根拠は何もない。だけど、ドア1枚隔ててすぐそこに、あの奥さんが立っている気がするのだ。

 扉が開いたエレベーターに早足で乗り込んだ。

「バレたら私殺されるかもしれないわよ」

 伊里中の奥さんの声が頭に蘇る。

 私はその声を追い出すように頭を振った。

「やるならあの奥さんがやりそうだけどな」呟きは自分の階に到着した音で消えた。

 今日は自分もビール一本くらい飲むか。奈津子も誘えば怒られないだろう。

「ただいま」

 俺は家族の元に戻った。

 

 

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