第2話 正木くん

 また出たらしいっスよ。

「駅から4丁くらい東に行ったらさ、あるじゃないっスか。3階建てくらいの古いビル」

 深夜2時、客が1人もいなくなったコンビニ「a68」(ハワイ好きのオーナーが、「アロハ」からつけた店名らしい)トイレから戻ってきた正木が話しかけてきた。

彼はちょうど1年くらい前からこの店でアルバイトをしている。深夜シフト担当の為、一緒になる事がかなり多い。昨年末地獄の7連勤の際は、6日間連続で夜から朝にかけて彼と2人だった。ありがたいのは、正木と組んでもあまりストレスにならない事だ。チャラい見た目に反して、正木はいいヤツだった。

 彼はバイト中決まって2回ほど事務所奥にある従業員トイレを使う。うちのコンビニで働き出した3回目くらいから、「トイレ行ってきしゃっス」と言って事務所に入って行っては、10分くらい戻らない。ようやく戻ってくると全身にトイレ消○力の匂いを纏わせて帰ってくるようになった。

 金髪ロン毛長身痩せ型、服は全身黒。仕事中は金髪をゴムで括って一つに結んでいる。バイトが終わると指にはゴツゴツしたシルバーの指輪を何個もつけて「おっつしゃーしたぁ!」と帰って行く正木。そんな彼が、10分近く便座に座り頑張った挙句、そのあまりの臭いに個室で消○力を自分にまで全身吹きかけてきたのかと思うと切ない。

 確かまだ20歳。気を使って、俺も彼の後にはすぐはトイレを使用しないようにした。

 それでも毎回消○力の匂いがあまりにキツイので、ある日彼にコソッと「あのさ、トイレ、あんまり気を使わなくていいよ。俺だって酷いもんだし」と言ってあげた。すると「マジっスか!?ってかやっぱバレますよね。いいんスか?先輩やっぱ本当神だわー」とめちゃくちゃ喜んで、それ以来彼のトイレの後はタバコの臭いがプンプンする様になった。

 その後バイト仲間の飲み会で、「え!先輩タバコ吸わないんスか!?え?どーゆー事?」とめちゃくちゃビックリしていた。

 今夜もトイレ帰りの彼からはタバコの臭いが漂う。

「あれだろ、向かい側にたい焼き屋あったとこ」

「そうそこ!そのビル横の路地で待ち伏せしてたらしいっスよ。昨日の夜10時過ぎったかな。んで、通りがかった女性2人組の前に飛び出して、バッと開いてドーン!ピカー!チカチカー!みたいな」

 正木があたかもコートの前をひろげるようなジェスチャーをした。

「しかも今回のテーマはついに!なんだと思います?」

「わかるか。熊の着ぐるみとかか?」俺の言葉に正木がギャハハと笑った。

「甘いっすよ。な訳ないじゃないっスか。そんなんじゃ神出鬼没の変態仮面なんて恥ずかしくて名乗れませんて」顔の前で指をチッチッチと動かした。

 別に犯人が「神出鬼没の変態仮面参上!」と登場した事も無ければ、新聞等にそう書かれた事もない。正木が勝手にそう名付けているだけだ。また、一万歩くらい譲って、犯人がそう名乗っているとしても、万が一捕まったら自ら極刑を望む程すでに恥ずかしいと思う。裁判で、「乙は自身の事を「神出鬼没の変態仮面」などと名乗り」と傍聴人の前で言われた挙句には、「もういい!悪かった!楽にしてくれ!」と俺なら叫ぶ自信がある。

 正木は両手の指を組んでバキャッと豪快に骨を鳴らした。その後首を回したり腰を捻ったりする度に、バキッポキポキと凄い音がする。

 「なんとついに赤ちゃんのコスプレっス。上下繋がった、あれ、ロンパースって言うらしいんですけど。上は長袖。下は股下まで。真っ白い赤ちゃんの服に、黄色の涎かけ。ご丁寧に涎かけには大きなヒヨコのデザインがされていたみたいです。変態極まれりですよ」

「前回はウェディングドレスだっけ?」

「そう!んでその前が看護師で、女子高生、女子中学生、最初が赤いランドセルにミニスカートっスね。いやぁ、なんかストーリィというか、犯人の演出へのこだわり感じますよねー」

「女子中学生と女子高生って、コスプレにしたらそんな変わるもん?」

 正木はグフフと笑って「よくぞ聞いてくれました!」と、レジ横に置いてあるタウンページをスパーンと手で叩いた。せっかく綺麗に重ねて置いてあるのに、ちょっとズレるからやめてほしい。

「そこなんスよ。犯人のすごいのは、全国各地の本物の制服を使ってるっぽいんですよねー。まだ確定じゃないんスけど。被害者達の目撃証言から、女子中学生の時はえーと、そう。青森県の北里中学とかいうとこの制服で、女子高生の時は千葉の多岐道女子高じゃないかって。となるとですよ、そこにもストーリィ感じません?青森から千葉に引っ越して来たんだなって。家族となのか、受験を機に本人だけなのか。ネット情報では、多岐道女子高は看護学部への推薦が強いらしいんスよね。で、女子高生の次の犯行コスが看護師!いやぁ、犯人、変態のくせになかなか考えてやがるなって。次回は幼稚園児コスじゃないかって予想が1番大きいみたいっス」

「正木、お前やたら詳しくない?」

「いやいやここの地元で起きてる事件じゃないスか!全部犯行が3キロ圏内、女子中学生の時なんて、うちの店から200mくらいしか離れてなかったんスよ?もしかしたらうちのコンビニも使ってるヤツかもしれないし。いや多分絶対使ってますって。ダチが集まっても、今は皆んなその話題みたいっスよ」

 俺は咄嗟に考えた。うちの店の事務所から外に抜け出して、200m先で変態コスプレを通行人に披露。そして10分以内に何食わぬ顔で戻って来る事は可能かと。

「……無理だな」

 うちの事務所には外につながる出入り口はない。事務所横の倉庫と、トイレに窓があるだけ。倉庫の窓は天井近くで多分ハメっぱなし。抜け出せるとしたらトイレだが、窓枠には店長が趣味のガチャガチャで集めたフィギュアを何十個も並べている。並べ方にも拘りがあるらしく、新しく入ったバイトには、まず「トイレ掃除の際も決してフィギュアには触らない事」と伝えてある。そのため「店長のフィギュアを盗んで1日でクビになったバイトがいる」だの、「バックヤードでこっそり店の商品のジュースを飲んだバイトがトイレに入ると、店長のフィギュアが皆んなこっちを見ていた」だのという伝説まで若い子達の間にはあるらしい。

 並べ方を事前に写真に撮るなりして覚えて、ずらして抜け出して200m先で犯行を犯し、また戻ってフィギュアを並べ直す。女子中学生の制服に着替えてまた脱ぐ時間も忘れてはならない。

「……うん、無理だな。良かった」

 俺は隣の正木の肩をポンポンと叩いた。

「どうしたんスか」

「なんでもないよ。ところでほら、スナックコーナーの品出しした?」

「あ、ヤベ。すぐやりゃしゃース!」

 正木は良い子だ。


 最初の犯行があったのは、3ヶ月程前。地元でも長蛇の列で有名なラーメン屋の近くだった。

 夜9時近く。ラーメン屋から出た大学生カップルが近くの駐輪場まで歩いていると、通りがかった空き地の隅の暗闇がいきなり光った。

 驚いて良く見ると、昔流行ったアニメのお祭りで売っているような某月の戦士の仮面を被った人が、コートを両手で広げて立っていた。思わずカップルは悲鳴をあげたが、なんせラーメン前の居酒屋でたらふく酔っ払っていた。

「なにー!?え、なにー!?ちょ、ヤバいんだけどー」とかいいつつ、彼女は次第に爆笑した。二つ折りの携帯を開けて、カメラを起動させて近づく。仮面人間は、肩に赤いランドセルを背負い、白いフリルのついたブラウスに、プリーツの入った赤いミニスカートを履いていた。足元を見ると白いハイソックスに運動靴。格好だけを見ると、ちび○子ちゃんである。しかし、スカートから出た足はどう見ても大人の、しかも男性だった。細いけど筋肉質なふくらはぎ、濃いすね毛。

 広げたコートの裏地には、クリスマスの電飾のようなライトが沢山つけられており、チカチカとその姿を照らし出している。

「ちょー、凄くなーい?え、自作ぅー?」携帯カメラで写真を撮りつつ近く。爆笑していた彼女も、だんだん男がハァハァと荒い息をしているのに気付き、薄気味悪くなってきた。

「なんかこいつヤバくない?」彼氏の方を振り向くのと、男が放つ光が消えるのはほぼ同時だった。

「え?え?」

 後ろには誰もいない。彼氏はとっくに逃げていた。

 電飾男の方に顔を向けると、そこには薄暗い暗闇があるだけで、誰もいない。

「え?え?」

 変態が生まれ、恋が終わった夜だった。

 それから昨夜の犯行を入れて5回。コスプレ男は月に1、2回のペースでゲリラ電飾コスプレを披露している。

 1回のコスプレで、同じ夜に3箇所程出没し、誰にも見つからずまんまと逃げている。

「なんか、微妙な感じらしいっスね」

 ある日のバイトの時、正木が話しかけてきた。

「今まで30人近い目撃者がいるみたいなんスけど、例の変態仮面、基本アソコとか露出してないみたいなんスよね」

「アソコ」

「ソレっス」正木が俺のアソコを指差してきたので慌ててやめさせた。

「なんか、1人だけ出てたって言い張るおばさんいるみたいなんスけど、一緒にいた娘さんは見てないって」

 なんでこんなに正木はこの事件に詳しいのだろう。今まで何回も疑問に思った事がよぎったが、もうツッコむのはやめた。彼が犯人じゃないのならいい。

「それが微妙なの?」

「基本的に、男が女の格好をするのは罪に問われないそうで。ただ、もしポロンと出してたら一発アウトらしいっスけど。別に誰に危害も加えてないっスから。ハァハァしながら女装を披露しようが、もしアソコ目撃おばさんの勘違いって事になれば別に捕まっても罪にはならないんじゃないかって、」

 その時、来店を知らせる音楽が店内に響いた。

「いらっしゃいしゃっせぇぇぇ!」正木は業務に戻った。

 帽子を深めに被り、大きめのパーカーを着た人がゆっくり入ってきた。背丈もあるので一瞬男性かと思ったが、お腹を突き出すように歩いているので妊婦さんだと分かる。酷く疲れてるように見えた。

 女が男の格好をしても、男が女の格好をしても、罪には問われない。考えてみればそりゃそうかと納得する。だとしたら、パンツスーツの働く女性に対し、同じ数だけの働くスカートおじさんがいてもなんら問題はない訳だ。そういう世界も楽しいかもしれない。「これから取引先に行かなきゃならないのに、ストッキング伝線してしまって」と真面目そうな営業マンが慌ててコンビニに駆け込む。全員ミニスカ姿の男性グループが雑誌の表紙を飾る。それを見た女子高生とかが、「○○の脚やばーい!交換して欲しー!」とか言ってキャピキャピする。

 うん、わりと楽しそうじゃないか。


 午前7時。正木の「うっし!もう少し!」という声がバックヤードから聞こえてきた。

 俺も彼と一緒に8時30分にあがる。もう一息だ。

「ちょっと!ちゃんと床拭きした!?」

 出勤直後の品出し業務をしていた田中芳恵が俺に向かって怒鳴ってきた。

「しましたけど。6時に」

「じゃあなんであちこち汚れてるのよ!ほらここなんてもう、靴の跡はっきり!」

「清掃の後数人お客さん来ましたから。外ちょっと降ってますよね」

「だからぁ!わかってるならその都度モップかければって言ってるの!モップくらいあんただってできるでしょ?」

 じゃあお前が今やれよ、という言葉を飲み込む。

 俺が黙ってレジチェックを続けていると、芳恵が品出しの手を止めてツカツカやって来た。

「だいたいね、私知ってるんだからね。この前の金曜日、店のバター3つも盗んだのあんたでしょ」

 カウンターの中で身体を寄せて来る。

「いい歳してコンビニバイトで食い繋いでさ、泥棒までするなんてねぇ。世も末、恥ずかしくないの?親御さんも泣いてるわねぇ。結婚もしないで、孫も諦めなさったんでしょうねぇ」

 店からバターが盗まれたというのも初耳だし、俺の親が泣いているのも知らなかった。母親は少3の時に交通事故で。父親は癌で高2の時亡くなった。天国で息子がバターを盗んでしまったと両親が悲しんでいるとしたら、もう少し違う事を考えて過ごしていて欲しい。

「だいたいねぇ」芳恵がさらに続けようとした時、正木がバックヤードから戻ってきた。

「あ、田中さんなんかあったっスか?」

 芳恵はビクッとして正木の方を見た。

「いやねぇ、ほら、最近さ、商品よく万引きされてるじゃない?世も末よねって話してたのよ」

「あー、最近多いっスねー。オレももうちょっとちゃんと気付けまっスわ。あ、先輩!レジチェック変わって貰ってすんません!オレほんとそれ苦手で。助かりました」

 芳恵は「ほんと正木くんはカワイイ!食べちゃいたくなるわ」とかなんとかブツブツ言いながらまた品出しに戻った。

「ほんとに食われそうで怖いっス」と正木が俺にだけ聞こえる声で呟くものだから、吹き出してしまった。

「俺、バター盗んだって疑われてるみたい」

「先輩が?ウケる。じゃあこんどバターたっぷりパンケーキ作ってきて下さい。おれめちゃくちゃ好物っス」

 正木は午前のパートが来る頃にはトイレも服もタバコ臭くないように気をつけている様だ。それでも多少臭いはあるだろうが、バイトでタバコ吸うのは正木しかいないので、おばさん達は何も言わない。

 7時30分、パートさんがもう1人出勤してきた。

 竹原光恵ちゃん。シングルマザーで、2人の女の子を育てているらしい。「おはようございまーす!」の声が元気で明るくてとてもいい。顔が小さいので、フワッとしたショートが似合っている。

「雨降ってた?」

「小雨ですね。気合いでカッパ被って保育園送ってきましたよー。なのにですよ?お店着いた途端晴れたんですけど!もー、なんなんだよって感じです」

「お疲れー」俺と正木の声がかぶる。

 俺は頭と肩をグリグリ回して、ゆっくり深呼吸した。

 これから最後の1時間、怒涛の忙しさがくる。登校途中の学生やサラリーマン達が、一気にやってくるからだ。これが終わればやっと帰れる。

「いらっしゃいっしぇぇぇぇ!!」正木の挨拶も気合いが入る。

 7時45分。2つあるレジ両方に絶えず列ができ始めた。

 店内も色んな人の匂いが混ざる。つい数時間前と全く違う店模様に、何回経験しても変な感じがする。

「マジほんとムリ。絶対追試なるわ。あー、このまま家帰っちゃおうかな」

「はい。はい。これから向かうところです。はい?いえ、その前に一度社に戻りますんで。はい、よろしくお願いしまーす」

「お前昨日もそれ食べてなかった?俺それ辛すぎて無理」

「え、それ昨日までだよ〆切。え、そーなの?えーずるいー。いいなぁ」

「でさ、昨日あの後もう一軒行ったの?」

 色々な人の色々な会話が交差する。朝から暗い顔、明るい顔、眠そうな顔、焦る顔。コンビニという狭い空間に、様々な年齢と立場の人が集まる。この人達に唯一共通しているのは、早朝のこの時間にコンビニで必要な物を仕入れて、各々どこかに向かうという事。

 弁当用の割り箸を出そうと屈んだ時、視界にゆっくり来店する1人の姿が見えた。白杖で床を叩きながら、店内に入ってゆく。

 太田律子さん。ここから3丁程離れた雑貨屋さんで働く60代後半くらいの女性だ。濃いめのサングラスをかけて、鮮やかな赤色のバックを斜めがけしている。いつもなら7時すぎには来店するのに、今日はかなり遅い。

 レジ打ちしながら、いつもより混んだ店内を歩く太田さんが気になり視線で探すものの、人が多くて全く見えない。

 数年前から平日はほぼ毎朝来てくれるので、他にお客がいない時は雑談する事もある人だ。雑貨屋さんでは布で色々な動物の置き物を作っているらしい。1番得意なのはフクロウなのよ、細かい作業が好きなのと言っていた。うちの店の店内もだいたいの物の場所は把握していて、パンが食べたいならパンコーナー。おにぎりが食べたいならそこに行き、最初に手に触れた物を取る。それを見た光恵ちゃんが、「ご希望の味や種類がありましたら、言って頂けたら取りますよ」と申し出たらしいが、「ありがとう。でもね、どんな味だろうってワクワクして口に入れて、今日はこれか!ってわかった時がけっこう楽しいのよー」と笑って答えたらしい。どことなく上品で、芯が真っ直ぐあって、可愛らしい雰囲気を持った女性だ。

 7時58分。まだ太田さんがレジに並んでいるのは見えない。いつもならとっくに選び終わってレジに並んでるはずだ。

「田中さーん!レジ打ち変わって下さーい!」

 正木の声が響く。何か客に頼まれたのだろうか。

 人の波を縫う様に田中さんが来た。

「はいお待たせいたしました次の方どうぞー」

 俺に話しかけるより数オクターブ高い声でレジ打ちを始める。

 その数十秒後だった。店内から、「はぁ?そんな事うちらしてないけど!」というヒステリックな声が響いた。一瞬店内がシンとする。

「だからさ、拾ってあげたんだって!証拠あんの!?」

「頭おかしい店員がいちゃもんつけてまーす!店長さんいませんかー。クビ案件ですよー」

「うわコイツまじウゼー」

「は?だからなんだよ!やるかテメェ!」

 正木か?思わず田中さんと目が合う。お互い一瞬でそらす。光恵ちゃんは裏からドリンクの補充をしてくれているはずだから、レジ打ち以外で店内にいる店員は正木しかいない。だが気にはなるものの、今の状態でレジを離れる訳にもいかない。他の並んでいる客も、チラチラ後ろを覗き見しながら、会計が済んだらそそくさと店を出て行く。

 数分後、正木がレジに戻ってきた。と同時に、制服姿の男子数人と女子1人が人を押し退けるように前にでてきて、店を出る寸前1人の男子が「存在が邪魔なんだよ!!」と吐き捨てるように叫んで出て行った。

 正木はまるで何事もなかったかのように、「田中さんすいません、レジやります」と言って業務に戻った。

 しばらくして、やっと太田さんが正木の方のレジで会計しているのに気付いた。太田さんがしきりに彼に話している。正木は笑いながら首を振って何か答えている。

 会計を済ませた太田さんは、俺のいる方向にも微笑んで頭を下げて店を出て行った。


 事務所に入り扉を閉めると、一気に静かになった。店内で流れる有線ラジオの音も、客が店を出入りする時に流れる音楽も、扉1枚挟むだけで気にしなくていい存在になる。

 はぁぁぁっと盛大にため息が出た。ユニフォームの上着を脱いで、自分のロッカーに掛ける。両手を上に上げて背筋を伸ばすと、背骨からバキッという音が鳴った。

 事務所に置かれたパイプ椅子に座る。頭と目が、泣いた後の様なボワっとした感じがする。前にある細長い机の上に、忘れ物です、とメモか添えられたジップロックが置いてあった。中身を見ると、ピンク色の爪切りだった。わざわざこんな場所で爪切るのか、となんだか余計に力が抜ける。

 これから帰って、シャワー浴びて、なんか食べて、寝て、夜になったらまたここに来る。パイプ椅子の背もたれに完全に背中を預けて、後ろに首と頭をたらして目を閉じた。長時間立ちっぱなしだった脚の太もも辺りがピクピク痙攣している。

「どっか行きてぇなぁ」

 呟きながら、じゃあどこに行きたいかと問われると自分でもよくわからないな、と思った。もしここにスーパー金持ちが現れて、1週間好きな場所で過ごさせてやろうと言われたら、どう答えるだろう。自慢じゃないが、北海道にも沖縄にも京都にもましてや海外にも行った経験なんてない。中学と高校の修学旅行は家の金が苦しくて辞退した。小学校では行った気がするが、全く覚えていない。唯一、初恋だった隣の席の子の絵が、修学旅行のしおりの表紙を飾っていたのは覚えている。確か山とか馬とかそんな絵だった。

 あの子の名前なんだったかな。アから始まった気がする。アイリ、アカネ、アヤカ、アツコ、アオイ、アトム。アトムはねーだろ。アキ、アミ、アサミ、アズミ、アズサ、アン、アン、アンパンマン。アンパンマン。アンパンマン。

 不毛な妄想をしていると、事務所の扉が開いて正木が入ってきた。

「お疲れー」

「お疲れっス」

 彼がコンビニのユニフォームを脱ぐと、一瞬で全身真っ黒になる。

「ノート書いてたの?」

「うぃっス」

 仕事中に起きたトラブル、その他諸々の連絡事項は、レジのカウンター下に置いてあるノートに記入する決まりになっている。出勤したらまずこのノートを出して、自分の担当の時間にしなければいけない事や注意点をチェックする。読んだら最後に自分の名前のサインを書く。

 ごく稀に、バイトがこのノートに「辞めます」と書いていなくなったり、ノート上でパートさん同士が喧嘩してたりする。例えば、『午前中シフトの方へ。モップの水をちゃんと絞らないで仕舞う方がいるようです。しょっちゅう水が垂れて、掃除用具入れの床がベチョベチョになっています。誰とは書きませんが、仕事が増えるので本当にやめて頂きたいです』に対して『昼シフトの方へ。なぜ引き継ぎの時に直接言わないのですか?顔を合わしているのに何も言わず、いきなりこういったノートに書くのはどうなんでしょうか。こちらにも、残量が少なくなった洗剤が補充されていない等のそちらに改善して頂きたいところは多々ありますよ』という感じでゴングが鳴らされ、数日間から数週間にわたりあっちこそ、そっちこその展開が繰り広げられたりする。

 そうなってくると関係ない部外者として読んでる方はちょっとしたエンタメで、若いバイトさんがこっそり語尾に「バカ」とか書き足したりしていて、笑ってしまう。

 正木がロッカーに置いてあった、シルバーのチェーンや指輪を付けていく。ズボンにチェーン、両手に3つのデカい指輪。彼が本来の自分に戻る儀式を見ているみたいで面白い。

 最後に黒い小さめの鞄を出して、正木は少し強めにロッカーを閉めた。

 俺の斜め向かいの椅子にドカっと腰を下ろす。

 はぁぁぁぁと盛大なため息をついて、そのまま机に突っ伏した。

「先輩、今日何日でしたっけ」突っ伏したまま籠った声で聞いてくる。

「あー、えーと、23?いや、25だわ」

「25かぁぁ」という空気が抜けるような声がする。「帰るのもめんどくせぇ…」「車欲しー」「あー、ニコチンニコチンニコチンニコチン」

 心の声がそのまま漏れてくる。

「パーキン寄ってくか?」これは俺と正木がたまに誘い合う言葉だ。酒をお互い一本ずつ仕入れて、近くのコインパーキングで一服する。ちょうど座りやすい高さの塀が道路側に面していて、灰皿スタンドも設置されている。近くに彼が使うバス停もあるため、帰宅前少しダベるには持ってこいの場所なのだ。

「いっスね!行きましょう!」ガバッと起き上がったその勢いの良さに、思わず笑ってしまう。

 本来人付き合いの悪い俺と違い、正木は友達と集まったり、酒を飲むのが好きらしい。ただコンビニの深夜のシフトで働いていると、なかなかそれができない。「今ダチ集まって夜通しカラオケしてるんすよー」と寂しそうに言ってたりする。彼が何故深夜を選んで働いているのかは分からないが、それなりの事情があるんだろう。人間誰しも色々な事情がある。でも、そんな生活でも友達と繋がり合っているのが、正木の人柄かもしれない。

 ビール500缶2本。「今日は先輩が労わってやろう」と偉そうな事を言って、まとめて払った。「マジ神っス。神降臨ー!」レジにいた光恵ちゃんが大袈裟な正木の喜び様に笑っている。

「お疲れ様でしたー!」店を出る時「ありがとうございました」ではなく、「お疲れ様でした」と言われると、なんとなく気持ちがほんのりする。仲間意識みたいなものだろうか。

 もう外には、学生もサラリーマンもほとんどいなくなっていた。

「眩しっスねー」空を見上げて正木が呟く。並んでのんびり歩いていたら、「先輩、ニコチンが僕を呼んでます!急ぎましょう!」と急かされた。

「お疲れーっス」

 コインパーキングの塀に腰を下ろし、ビール缶を掲げた。正木の左手にはすでにタバコが煙を揺らしている。

 勢いよくビールを喉に流し込む。

「あーーーーーっ!!生きてる!!俺たち生きてますね先輩!!」

「そこは生き返る、じゃないのか?」

「いや、生きてる!ですよ。別にオレ死んだ覚えないっスから」

「確かに」

 仕事が終わった開放感とビールで、心と身体も軽い。程よく風があり、陽当たりの多少強い場所でも心地よい。お互いしばらく何も話さずボーっとする。

 車の音、散歩する足音、どこかの家のチャイムが鳴らされる音。毎日の生活音が、耳に優しく聞こえる。

「このまま寝てぇなあ」思わず口からそんな言葉がでてきた。

「布団ひいてあったら3秒で寝れますね」「俺は1秒だわ」「じゃあオレ0.1秒で」

 高校生みたいなやりとりだな、と笑いそうになった。なんとなくさっきの集団を思い出した。横目で正木を見る。せっかく気持ち良さそうに一息ついてるんだ。聞くのはやめよう。そう思った時、彼から「店のノートには書いたんスけど」ときりだしてきた。

「話していっスか?楽しい話しじゃないっスけど。オレもまだ何かモヤモヤしてて」大きく息を吸い込んでそのままゆっくり吐き出して、目線は前の車道に向けたまま「愚痴ったところでしゃーない話しなんスけど」と小さな声で付け足した。

 彼が話したいと言うなら否はない。

「俺で良かったら聞くよ」

 あざっスと正木が軽くビール缶を持ち上げる。

 短くなったタバコを灰皿に押し付けた。そのままもう一本箱から出そうとして、ふと途中でやめてポケットに戻した。

「…太田のばーちゃん、今日店来るの遅かったじゃないっスか」

「え!お前太田のばーちゃんって呼んでんの?」

 正木がガクッと頭を下げた。

「そこ?そこから?そこに食いつきます?」はぁぁっとため息をつきながら笑う。「前にオレの年齢言ったら、太田さんじゃなくて太田のばーちゃんの方が孫できたみたいで嬉しいって。もういいじゃないっスか、さんでもばーちゃんでも。あー、でもなんか身体の力いい感じで抜けた。流石っス先輩」

「すまん、思わず」話しの腰を初っ端から折ってしまった。

「よし、もう邪魔しない。話してくれ」

「そんな身構えられなくてもいいんスけど」正木は苦笑いしながら、ポケットにあるタバコの箱から一本取り出し火をつけた。

「太田のばーちゃん、うちの店まで毎日30分くらい歩いてくるらしっス。バスにも乗れるんだけど、足腰鍛えて将来少しでも人様にめーわくかけたくないからっつって」正木は深くタバコを吸い込と、フーッと空に向けて吐いた。

「それ聞いて、すごいなー、かっけーばーちゃんだなって思って。すぐ楽な方にいくっスからねオレ」

「後から聞いたんスけど、今朝太田のばーちゃんがいつも通る歩道が、工事してて通れなくなってたみたいっス。違う道教えてもらったんだけど、迷ってしまったみたいで」

 頭の中に太田さんが歩く姿が浮かぶ。白杖を左右に動かしながら、ゆっくり丁寧に進む。いつもの道。杖から伝わる感覚と聞こえてくる音を頼りに、暗闇の中を歩く。

「ばーちゃん、誰かに道教えて貰おうと思ったんだけど、なかなか聞けなかったって。これオレの想像っスけど、朝って皆んな急いでるじゃないっスか。いつもなら声掛けて止まってくれる人も、あの時間帯は余裕なく通り過ぎたのかなって。結局、ティッシュ配ってたねーちゃんがばーちゃんに声かけてくれて、ばーちゃんがわかるとこまでつれてきてくれたみたいっス」

「んで、話は戻るんスけど」

 正木はタバコの灰を皿に落とし、数秒言葉に詰まるように黙った。

「オレ聞いちゃって。レジ打ちしてたら、女子高生が後ろの方見て、「あれヤバくない?」とか、「サイテー」とか話してるんスよ。他にも背広着たおじさんとかが、なんか振り向いて眉ひそめたりしてて。オレ、ピンときて。太田のばーちゃん店に入ってきてすぐだったから」

 全然気づかなかった。太田さんの事を気にしてはいたが、周りの変化までは気づかなかった。

「俺、気づいてなかったわ」

「しょうがないっスよ。太田のばーちゃんオレ側の奥にいたから。オレもばーちゃんの姿見えてた訳じゃなくて、なんとなく、勘っつーか」

「だから田中さんにレジ打ち変わってもらったのか」

 正木は無言で頷いた。短くなったタバコを灰皿に捨ててて、一度立って服についた灰を払う。全身黒コーデだと付いた灰が目立つんだな、と思った。

「観に行ったら、やっぱ太田のばーちゃん制服着たガキに囲まれてて。ヤツら、ばーちゃんが伸ばした手の先にある商品を、寸前でずらしてんスよ。ばーちゃん、何度も何度も棚に手を伸ばすんだけど、手の先に商品は無いって状況にしてたんだと思います」

 胸糞悪い。腹の底が重くなる。

「オレ、そいつらに注意しようとした時、見ちゃったンスよ。男子生徒の1人がばーちゃんの杖奪って、仲間の女子生徒が杖探すばーちゃんの手に、「落としましたよ」っつって、コンドームの箱渡そうとしたんです」

 なんかブチッてなっちゃって。あいつら、周りのヤツも、声立てないように口押さえながらめっちゃ笑ってるんスよ。困ってるばーちゃん見ながら。何が楽しいんだって。どこが楽しいんだって。

 正木は悔しそうに俯いた。

 手の中にあるビール缶は少しずつぬるくなっている。車道を挟んで向こう側の歩道には、ベビーカーを押しながらあるく女性。ベルを鳴らして追い越す自転車。

 ふと、その高校生達は、今頃コンビニであった事なんて忘れて、普通に授業受けてるんだろうなと思った。友達同士でこっそり手紙を回しあっているのかもしれない。教師に見つからない様に机の下で彼氏にメールを送っているのかも知れない。机に突っ伏して寝ているのかもしれない。いつもと変わらない日常の中にいるのだ。

「オレ、とっさに女子生徒が渡そうとしてたコンドームの箱叩き落として、隣の男から無理矢理杖ひったくりました」

「良くやったよ」俺は正木の肩を叩いた。「怒鳴ったり殴ったりしなかっただけ、お前は冷静だよ」

「うっス。アイツら、いちゃもんつけんなだかウザいだか色々行ってましたけど。こっちには防犯カメラあんだぞって。一緒に警察行って確認すっかって言ったら黙りました」

「なんかぐちゃぐちゃ言う声は聞こえてたわ」

 そしてその後、捨て台詞を吐いて店を出て行ったんだな。

 

 〝存在が邪魔なんだよ〟


 男子生徒が言い放った一言。

「あーあ」俺は手に持っていたビール缶を横に置いて、空を見上げた。

「あーあ、あーあ、あーあ、あーーー!」

 正木が俺の方を見る。

「どうしてこう、残酷なんだろうな」

「アイツらっスか」

「うーん、それも含めて全部。世の中。人類。人生。全部」太田さんは、会計が終わった後、微笑んで頭を下げて出て行った。まるでなんて事ないように。サングラスをしているから、口元しかわからない。でもきっと、太田さんは目も微笑んでいたと思う。涙を溜める事もなく、心からいつもの様に「ありがとう」と思いながら頭を下げてくれてたんだと思う。

 お買い物させてくれてありがとう。お話ししてくれてありがとう。ありがとうございましたって言ってくれてありがとう。

 暗闇の中から、いつも見えない世界に向けて感謝する。

「きっと、想像もつかない、色んな事があったんだろうな。理不尽で、残酷で、報われない事も沢山。でも、太田さんは負けなかったし、今この瞬間も精一杯生きてらっしゃるんだろうな」

「…そっスね」

 遠くから、選挙カーの音が聞こえる。高橋、高橋、高橋みのりです。どうぞ皆様、高橋みのりです。皆さんの、皆さんの清き一票、どうぞ、どうぞこの高橋みのりに、高橋みのりに入れて下さい。あっ、ありがとうございます。ありがとうございます。高橋、高橋みのりです。日本を豊かにする。新しい未来を切り開く。高橋、高橋みのりをなにとぞ……

 選挙カーは曲がる事なく、少し離れた大通りを直進して去って行く。やまびこのように、ありがとうございます、ありがとうございます、としばらく聞こえていた。

「おれ」正木がボソッと呟く。

「信じられなくて。平気で他人を見下したり嫌がらせしてくるヤツら。そんな事して誰が得するんだって。うちの父さんオレが小さい時に一度脳梗塞やってて。今も全然元気に工場で働かしてもらってんスけど。歩くと少し片足引きずるし、片手は物をうまく掴めないんスけど。上司がいい人で、上に掛け合って父さんでもできるラインに回してくれて。もう30年近くほぼ休まず働いてくれてます。オレ、小学生の時とか父親の歩き方とかでイジメまではいかないっスけど、物真似のネタとかにしてくる同級生もたまにいて。そんな時本気で怒ってくれた友達と今でもダチで。いつかオレもアイツらの力になれたらなって思ってます」

「いいダチだな。上司の人も人格者だし、お父さんもその気持ちを裏切らないように、不自由な身体で必死で頑張ってきたんだな。カッコいい親父さんだ」

「あざっス。上司の人はもうとっくに引退してるんスけど、たまに父親と飲みに行ったりしてるみたいで。最近聞いたんスけど、その上司のお子さん産まれた時から脳性麻痺持ってたみたいで。父親の事、他人事だと思えなかったって。覚えてないんスけど、父親入院してる間、よく俺の事預かってくれたりもしたみたいです。うちのお袋、感謝してもしきれないねってしょっちゅう言ってます」

 正木は缶に残っていたビールを一気に飲み干した。

「人って、それぞれ限界あるじゃないっスか。ある人には当たり前でも、ある人には難しいって事。そりゃ、皆んな同じく同じだけの事ができたら1番いいのかもしんないっスけど。んなことなくて。今はできても、いつかできなくなるかもしれない。あの高校生達だって、自分がいつ事故にあって歩けなくなるかもしれないし、目が見えない子の親になるかもしれない。病気になって、何から何まで他人の世話になんなきゃいけなくなるかもしれない。そうなったら、どうするんすかね」

「想像できねぇんだろ。バカだから」

〝存在が邪魔なんだよ〟

 彼らにだって、日々辛い事も悲しい事も、色んな事がある中で頑張って生きてるんだろう。ただ、それが周りに向ける気遣いや優しさ、理解に繋がるかどうかは、本人次第だ。存在するだけで、人生ってのがどれだけ大変か。自分の小さな物差しだけじゃ、他人の辛さは一生わからない。

「ハードモードだよなぁ」

「ほえ?」新しいタバコを咥えながら、正木はライターを探してるらしく上着やズボンのポケットを上から触っている。

「お前さ、ゲームとかする?」

 一旦諦めたのか、火のついていない口のタバコを指に戻した。

「ゲームっすか?まぁ、それなりに」

「俺は、ガキの時友達の家でやらせてもらっていたくちなんだが。あれ、ハードモードとか、イージーモードてとか選べたりするだろ?」

「ああ、ジャンルに問わずそういうのも多いっスね。ハード、ノーマル、イージーみたいな」

 俺は隣に置いてあったビール缶を持って、「それだよそれ」と正木に人差し指を向けた。ビールを一口流し込むが、もう完全にぬる不味い液体になっていて、斜め下にあった排水溝に残りを流した。

「俺はさ、人生にノーマルもイージーもないと思うぞ。最初から選べない、ハードモード一択なんだよ」

「どーゆーことっスか」

「だからよ、世界に人間が60億人いるとしたら、60億のハードモード人生があるんだよ。人生なんてゲームみたいなもんじゃねーか?乗り越えなきゃいけない事の連続で、敵もいるし味方もいるし、味方だと思ったヤツが敵にもなるし、逆も然り。周りは好き勝手にあーだこーだ言ってくるし、金はなかなか貯まらねーし、死ぬときゃ死ぬし」まぁ、過去に戻ってリセットはできないがな。

 正木はイマイチ腑に落ちないような顔をしている。

「まぁ、先輩の言いたいことはなんとなくっスけど、分かります」

「本当か?俺は言いながら何が言いたかったのか分からなくなってきたぞ」そう言って笑うと、正木も「なんスかそれ!」と言いながら笑った。

「ともかくさ、お前が今日、あの高校生達にとった態度は、スゲー立派だったと思う。正木はさ、相手の気持ちになって考えて、さらに行動できるヤツなんだよな。それって、なかなか出来る事じゃないと思うぞ。あの場で、正木だけが太田さんを助けてあげたんだ。それって、凄い事だよ。お前みたいなヤツが、将来何かデカい事やってくれるのかもな。うん。よし、俺がお前に勇者の称号を与えよう」

 正木は「コンビニバイトの勇者っスか。なんかラノベにありそうっスね」と笑った。そして小さな声で「あざっス」と呟いた。

「うん。俺もお前を見習わなきゃな。毎日しんどい時も多いけどさ、他人の事考えれなくなったら結局一人で生きてるようなもんだ。そんな人生寂しいよ」

「先輩、前から気になってたんすけど、彼女さんとかいないんスか?」

「今それ聞く?聞いちゃう?逆に聞くけどいると思う?」

「…すいやせん」

「言っとくけど、謝られるのが一番傷つくんだからな。よし、お前なんて勇者から村人に格下げ」

 正木は笑いながら「せめて商人あたりにして下さいよー。稼ぎまっせー。先輩に貢ぎまっせー」とおどけてみせた。

 俺は空になったビール缶を持って立ち上がった。正木はバスなので、彼の分の空き缶も受け取る。

「あー!今日もバイトかぁーっ」背中を伸ばすと、また背骨からバキッと音がした。

 ああ、決めた。もしスーパー金持ちが現れてどこにでも連れてってやるって言われたら、「全身マッサージ」と答えよう。

 

 

 

 

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