チャック開放日

赤獅子

第1話

 俺はその日出かけていて気づいてしまったのだ、自分のズボンのチャックが開いていることに。さっき何気なくスーパーのガラス戸に自身が写り込んだときに、その情けない姿が見えてしまった。そして、これから俺はこのチャックをすぐに直すべきが直さないべきかという問題に直面している。何故なら今のチャックが開いている状態で素知らぬ顔をして歩いていれば道行く人はそれに気づかないかもしれない。たとえそれに気づいたとしても赤の他人がチャックを指摘することはまず無い。一方俺がここで焦ってチャックを閉めようものならこの人通りの多い中で股間をいじっている変質者と思われる可能性があるが、その後は安心して買い物を済ますことが出来る。どうしたものか……。

 そうして悩んでいる間にいつもの習慣で買い物かごを持ち野菜売り場のコーナーへと移動していた。

 単純にトイレに行けば良かったのではないか。そうすれば俺は自然とチャックに触れることを許される。ただ買い物かごを握ってしまったこの状態で不自然に引き返してかごを戻すと人々から注目を集めるかもしれない。そうしたら自然と俺の股間に目が留まりチャックの開いている事実に気づかれてしまうかもしれない。できることなら誰一人としてチャックの存在に気づかれたくない。

 こうなった以上早く買い物を済ませるんだ。俺はそう思い足早に近くにあったお菓子売り場へと行った。そしてスムーズに移動しながらポテチを掴んでかごへ放り込む。その勢いに任せてレジへと向かった。途中で道を塞ぐカートを走らせたおばちゃんがいたがそれを難なくかわし、走り回る子供たちをものともせずレジへと並んだ。前の客の商品がピッピッと店員の手によってスキャナーに読み込まれていく。そこで俺は顔面が蒼白となった。なんせ店員が商品をスキャナーに通すときに、その視線は下へと向くからだ。もしその瞬間俺の緩みきったチャックなんてものを見られた暁にはとんでもない目で見られるだろう。俺の頭は不安と焦りで一杯になった。

 そしてその時はあっという間に来てしまう。

「らっしゃせー」

 店員が気怠げにそう言うと、俺は閃いた。店員がポテチを掴むために下に視線を向けたその瞬間。バリバリバリッ。店内に大きな音が響いた。そして当然店員も目を丸くして視線を上げていた。俺の手にはマジックテープが搭載された財布が握られていた。

「あれ?おかしいな?」

 そしてわざとテープが開かないふりをして何度もバリバリと音を立てた。

「一五六円になります」

 店員は気にもしないといった感じだった。俺はそれに対して早々に勘定を済ませる。後はこのスーパーのトイレに行くだけ。それで全てが終わるそう思ったとき、目の前にスーツ姿の見たことのないおじさんが現れた。

「いやーお見事」

 おじさんは晴れやかな顔で問いかけてきたが俺はそれを無視して先に進む。

「これこれ君待ちなさい。君もなんだろ」

 肩を掴まれたので止まらざるを得ない。

「あの?何ですか。急いでるんですけど」

 するとおじさんはネクタイを正して嬉しそうに言った。

「さっきの活躍お見事でした。あんなスリルを味わうともう止まりませんでしょ」

 さっきからこいつは何を言っているんだ。俺はそう思いながらおじさんを見ていると突然視線を下に向けて自身の股間に手を当てた。

「ほら、僕もなんです」

 おじさんの動作に反射的に視線を下げるとそのおじさんもチャックが全開であった。俺はきっと何かと間違われているのだと思い逃げるようにその場を去ろうとする。が、おじさんはその意に反して腕を掴み嬉しそうにチャックを見せつけてくる。

「ねぇ僕たち仲間ですよね」

 周囲を見ると行き交う人々がこちらを見ている。仕方なしに俺はおじさんを引っ張り人気の少ない階段へと連れて行った。

「何のつもりですか!これ以上やるようなら警察を呼びますよ!」

「え?なにがですか?」

「さっきの変態行為ですよ」

「へん…たい?」

 それまで柔和な態度だったおじさんの顔が激変した。

「これは変態行為などではない!」

 おじさんの怒鳴り声が階段の広い空間にこだまする。

「あなたのそれ。もしかしてチャック開放サークルの人じゃないのか」

 おじさんが俺の股間を指した。そのタイミングで俺はチャックを慌てて上げる。

「な、なんですかそれ?」

「やはりそうでしたか。いやいや失礼。私こういう者です」

 おじさんは名刺を手渡してくる。俺はそれに目を通した

「K企業の代表取締役社長の財田道男って、あのアイデアグッズで有名なK企業のですか?」

「しーっ。今はプライベートの時間なんだから口に出さないで」

「ああ、すいません」

 軽く頭を下げたところで疑問を投げかける。

「それで開放サークルってなんなんですか?」

 財田社長にそれを聞くと破顔した。

「知りたいの?」

「ええ、まぁ。あなた程の人がなんでチャックを開けているのか気になりますし」

「少し話が長くなるけどいいかい?」

 特に予定があるわけでもないし、社長の話を聞く機会なんて滅多にない。

「大丈夫です」

 そう答えると、財田社長は近くにあった自販機で缶コーヒーを買った。

「君は?何か飲むかい?」

 そう聞かれて「あ、じゃあ同じ物を」と答える。そして財田社長は缶コーヒーを俺に手渡すと近くのベンチに座った。

「僕の会社はね昔小さな会社だったんだ。会社を立ち上げた当初はワンアクションで便座カバーを変えられるというグッズでそれなりに儲けたのだけど、それからヒット商品が作れなくてね。社員たちから出るアイデア商品もどこか保守的というか、ありきたりだっんだよね。時間が経つにつれて経営も赤字続きになり会社をたたもうかとも思った。でもねどうせ終わるなら最後に何かあがいてやりたくて。それで社員がアイデアを出せない理由を考えたときに恥があると思ったんだ」

「恥ですか?」

「そう、日本人にはそういう人が多いんだよ。アイデアはあるけど失敗することが恥ずかしくて提案できない。人目を気にして大胆な行動がとれない。自分の個性が人に受け入れられないのではないかとうまく表現ができない。日常生活を送る中で新たな場所に行ったり、何かに挑戦したりすることができない」

 財田社長は缶コーヒーに口をつける。

「そして僕が導き出した答えがチャック開放だ。まずは恥ずかしいことに慣れて貰わなければならない。そういう意図があって始めたのだ。そして社員全員の前でそのことを説明し私はズボンのチャックを下ろしたよ。もちろんそれを受け入れられない社員は何人もいて会社を去った。しかし、僕の覚悟が伝わったのか残った社員はそれを受け入れてくれた。その日以来チャック開放の日々が始まった」

 いつの間にか財田社長の話に聞き入っていた。

「それでどうなったんですか?」

「始め職場はそわそわしたものの少しずつチャック開放に慣れていったよ。半月程経つと気がつけば社員はそれに順応していた。チャック開放が当たり前となり、どこか切迫していた雰囲気のときも相手のチャックを見れば和やかになった。また、僕のチャック開放のアイデアに比べたらどんなアイデアも素敵なものだと社員に伝えたら、会議では取るに足らないアイデアから画期的なアイデアまでがポンポンと出てきた。そして会社での業績はうなぎ上り。でもそんなことより、社員の笑顔が増えたことが嬉しかった」

「えーっと、それで結局チャック開放サークルっていうのはなんなんですかね?」

「ああ。サークルの方は僕が一般の人向けに作ったんだ。ひょっとしたら僕たちのように恥で苦しんでいる人がたくさんいるのでは無いかと思ってね。そしたら意外なことに賛同者は多かったよ」

「へー、そうなんですね」

「そして今日はチャック開放日だ」

「チャック開放日?」

「チャック開放サークルの人は公の場でチャックを解放しようという日だ。そうすることで静かにチャック開放の素晴らしさを世の中に主張しているんだ。それを見て笑う者もいるだろうがそれとは反対にチャックが開いているのになんて幸せそうなのだろうと思う者もいるだろう。君は今日チャックを開いていたことに気づいて恥ずかしいと思ったかい?それとも幸せを感じたかい?」

 それを聞いてだんだんとチャックが開放していることはいいことなんじゃないかと思い始めた。

「俺は……」

 財田社長はその言葉に手を前に突き出して制した。

「言わなくてもいいよ」

 そして新たな名刺を差し出してきた。

「興味があればここへ連絡を。それじゃあ僕は他に用事があるので行くよ」

 財田社長はそう言うと空き缶をゴミ箱に入れて去ってしまった。

 嵐のようだった。その一瞬で理解できない世界が世の中にはあるのだと思った。そして何故だか今までの自分が無性に恥ずかしくなった。

「今日はチャック開放日か」

 呟き、俺は静かにチャックを開けて階段を上り始めた。

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チャック開放日 赤獅子 @akazishihakuto

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