第10話

 俺は息を殺して待つ。

 奴が帰ってくるのを。


 先日見た限りだと、奴は帰宅してからまず南側の部屋の窓を開け、そして風呂に入る。その後に飯を食ったりするんだろう。


 俺は真っ暗な部屋で、どのタイミングで奴を殺すか考える。


 いきなり殺したくはない。苦しむ時間、後悔する時間、そして命乞いする時間を作らなければならないからだ。

 まずは身体の一部を刺す。そうだな、足がいいか。逃げられないようにしないとな。そして腕。抵抗をさせない為だ。そして四肢の自由を奪った後に――。


 ガチャリ、と。

 玄関から解錠音がする。


「あっちーな」


 今日はここ数日で最も蒸し暑く、エアコンを付けてない部屋にいるだけで全身から汗が吹き出している。


 俺が身を隠しているのは北側にある彼の部屋のベッドの下だった。

 着替えを取りには来るかも知れないが、奴は風呂から出るまでここに長居することはないだろう。


 やはりルーティーンなのか、まず南の部屋へ行き窓を開け、そして北側の――俺が隠れる部屋へと来る。

 スーツを脱ぎ捨て、タオルや下着を箪笥から出した男は、ふと動きを止める。


 まさか……いや、バレるわけがない。動かした物は元の位置に戻したし、開けっ放しにしているところもないはずだ。

 しかし彼は俺の存在に気付くとか、泥棒が入ったと疑いを抱くとか、そんな理由で突然静止したわけではないということが次の瞬間分かる。


 例の、七海のシュシュを手に取ったそいつは、それを口の中に放り込んだ。

 口内で味わうように口をモゴモゴさせ、出汁を吸い出すかのようにチューチューと音を立ててながら舌に絡ませ遊びだした。


 俺は心底おぞましさを感じる。


 その光景は気持ち悪さなんてとっくに超越し、俺は音を立てずに軽く嘔吐してしまう。

 俺の嘔気を余所に、そいつのけがれに満ちた冒涜的な行為は続く。


 七海のボールペンを棒菓子よろしくペロペロと舐め回し、何度も口に出し入れし始める。

 俺は無意識に歯を食い縛り、今にも飛び出したいという気持ちを、自分の太腿を強く抓ることによってなんとか抑えることに成功する。


 悍ましい蛮行は十数分にも及び、俺の精神をグチャグチャに掻き回したそいつは漸く満足したのか、タオルを持って風呂場へと向かう。


 俺は吐瀉物を横目に、ゆっくりとベッドの下から這いずり出た。

 シャワーの音と耳障りな鼻歌が聞こえ、俺の感情を更に煽る奴が出てくる前に俺は武器を手にする。


 あいつの命を奪うのは、もちろん七海の命を奪った包丁だ。それしかない。死んで償うのは当然で、同じ目に合うのも当然だ。死して尚、あいつに邪な感情を抱かれている七海には悪い気もするが、同じ凶器で命を奪うことが俺の復讐には不可欠なのだ。


 前回同様、カラス並に短い入浴を済ませた奴は、鼻歌を口笛に変え、脱衣所で身体を拭いているようだ。


 俺は脱衣所の外で奴が姿を見せるのを待つ。

 独り言を呟きながらドライヤーで髪を乾かしているので中々姿を見せず、俺はやきもきとする。


 このまま突入してやろうかとも思うが、焦っては駄目だ。


 絶対に失敗は許されない。今ここで殺し損ねてしまえば、こいつは警察から保護されてしまうのだから。

 仮に俺が、こいつが犯人であると通報したところで警察が信じるかどうかはわからないし、こいつよりも俺が先に刑務所に入ることになるだろう。


 それは駄目だ。こいつを殺した後ならいくらでも収監されてやるが、こいつがのうのうと生きているという事実を知りながら復讐を遂げることなく生き続けるなんて俺にはできるわけもない。


 だから、こいつは今、ここで殺す。


「あー腹減ったー」


 ドアの陰に隠れていた俺は、脱衣所から出てきた奴の脹脛ふくらはぎに包丁を差し込んだ。


 痛みよりも驚きが強いみたいな顔でカクッと膝を折り曲げたそいつの顔面を殴り、よろけたところを更に蹴りを入れて倒す。


 反対の足も同じように脹脛を刺し、「うが!」と悲鳴を上げるのに構わず、両方の手首にも深く傷を付けた。

 おののきを表情で表しながら、そいつは一切の抵抗もなく俺にやられっぱなしになる。


 そして、相手が混乱しているチャンスを逃さず、俺は予め用意しておいたガムテープを口に貼り付ける。


「……!」


 息ができるように鼻にはかからないように上手くつけることができたが、刺す場所に関しては本当は脹脛ではなく足首を狙っていた。アキレス腱を切って動けなくしたかったのだが、手元が来るって少し上にずれてしまった。でも問題はない。


 痛む足に視線を送ってから、その流れで俺を睨めつける奴――夢川店長を俺は見下ろしながら静かな声で問いかける。


「いいか。大きな音を立てたり、声を上げたりするな。わかったか?」


 夢川は返事をしないし、リアクションも見せない。


 俺はどくどくと血が垂れ流れている脹脛を思い切り殴りつける。


「わかったなら頷け」


 俺の恫喝に、涙目でコクコクと頷きを見せる夢川。


「単刀直入に訊く。七海を殺したのはお前か」


 夢川は少しだけ目を見開いたが、またしても何の反応も見せなかった。


「……もうひとつ穴を開けるか」


 俺は太腿辺りに狙いを定めて包丁を掲げると、夢川は慌ててブンブンと縦に首を動かす。


「なぜだ」

「……」


 何も話せるわけがないことは、自らが貼り付けたガムテープのせいだということくらいすぐに気付くが、でも俺は「なぜだ」と繰り返す。

 そんな俺に何かを目で訴えている夢川。


「……言いたいことがあるのか?」と訊くと、ゆっくりと頷く。


 俺はガムテープを剥がしてやる。すると夢川は唇を歪ませ、俺を罵り始める。


「……あんたとんでもねーことするな。何してんだよこれ。犯罪だろ。殺人未遂だろ。いっつ……こんな……ふざけやがって……ぜってー許さねーからな。警察に通報する前に、ぜってー俺がボコボコに――」


 俺は近くにあったドライヤーで夢川の口を殴る。喋っている最中だったからか、舌を噛んだらしい夢川は口からぼたぼたと血を垂らしながら俺を睨むが、俺はその反抗的な目に向かって拳を叩き込む。


 うぐうと短い声を上げる夢川に「そういうのはいいんだよ。凄んだって無駄だ。お前はこれから俺が殺すんだから」と殺害予告をしてから太腿を刺す。


 何故かこいつは助けを求める様子はない。自分が殺されかけているのに。


 他人がこの部屋に入ることを恐れているのだろうか。まあ実際七海の遺品を盗んでコレクションとして舐め回しているくらいの変態野郎だから、なにかしら探られたら困る後ろ暗い理由があるのかもしれないが、それこそどうでもいい話だ。俺は俺の用事を済ませるだけだ。


 「もう一度訊く。なんで七海を殺したんだ」


 夢川は涙目で「……勘弁してください」と舌を庇いながら喋るが、俺はまたぶん殴る。


「質問に答えろよ。なんで七海だったんだ」


 完全なる通り魔だったら誰でもよかったという説明も納得できなくはないが、知人である以上、そして付き纏っていたという証言がある以上、そこには明確な理由があるはずだ。


 それを聞いたところで怒りが薄まることは当然ないし、俺は情に絆され易い裁判官と違って情状酌量なんて微塵も与えるつもりはないが、それでも知りたい。


「……あ、あいつが――七海、さんが――俺を傷つけたからだ……です」

「七海が傷つけた?」


 七海が暴力を振るったことなんて俺は見たことがないし、あんなにも温厚で柔和な彼女が他人を傷つけるところは想像できない。


「俺に、もう付き纏わないでとか抜かしやがったから――」

「……お前が七海に言い寄ってたことは聞いた。それじゃあ結局、振られた腹いせに殺したってことか?」


 痛みに顔を歪め、「助けてください」と命乞いを始める夢川は、もうまともに会話ができない様子だった。

 身体からはだいぶ多くの血液が失われているせいか、風呂上がりでやや紅潮していた身体は真っ白く――いや、全体的に血液のせいで真っ赤に染まっていた。


「……お前はクズ野郎だ。振られたから殺した……? この――クソ野郎!」


 俺は夢川の頭部目掛けて包丁を振り下ろす。が、しかしそれは夢川の頭に届くことはなかった。柄の部分が折れてしまったからだ。


「なんでこんな……あと一度だったのに」


 俺はすぐに武器になりそうなものを探す。七海を刺したであろう包丁で殺すことしか考えてなかったが、他に七海の持ち物で殺せればいいんだ。


 すぐに俺は眼の前の変態野郎がしていた悍ましい行為を思い出す。

 七海のボールペンだ。


 脱衣所の隣にある夢川の寝室へと走り、俺はボールペンを手に取る。そしてそのまま急いで脱衣所へ戻った瞬間、夢川のタックルを受け後ろに倒れる。


 形勢逆転――と思いきや、ダメージが深いのか、その後の攻撃に繋がらずに苦痛表情を浮かべる夢川を俺は突き飛ばし、ボールペンを握りしめて夢川の眼球目掛けて振り下ろす。


「……なんでだよ……どうして」


 俺の手の中でボールペンは粉々に折れてしまう。こんなことがあり得るわけがない。俺の握力が規格外に強いわけなんてなくて、焦っているこの状況で火事場の馬鹿力みたいにとんでもなく強く握っているだなんてことも当然ない。


 ひとつ確かなのは、今の俺は殺意に満ち溢れていて、この感情から解放されるには眼の前の敵を殺さなければならないという、それだけだ。


 俺は首を絞めようと、床に横たわる夢川の首元に手を伸ばす――が、両手を前に出したままの姿勢で動きは止まってしまう。


 俺の中にある倫理観だとか道徳心だとか、なんかそういう人間としての最後の尊厳みたいな感情が殺人行為を許容せず、無意識に身体の自由を奪っているのだろうかとか考えてみるが、そんなことはあるわけがない。


 さっきから散々刃物で切りつけておきながら、今更身体が殺人を拒否するなど、あるわけがない。

 もしあるとするなら――


「……七海。頼む。こいつを殺させてくれ。どうしても俺の手で殺さなきゃいけないんだ」


 俺はもうこの世に存在しない娘に哀願する。


「頼む。こいつだけは殺させてくれ。そうしないと俺、もう生きていけないんだ。お前がいない世界で、こいつが――お前を殺したこいつが生きてるって事実に耐えられないんだ。だから……だから頼む」


 俺は涙を流していた。七海が死んでから一度だって流すことのなかった涙を、よりによって犯人の前で、情けなくも顔をグチャグチャにしながら、泣きじゃくった。


「七海……七海……」


 娘の名を何度も呼ぶ。しかし娘からの返答はないし、やっぱり俺の身体も動かない。

 俺は血だらけで命乞いを続ける夢川の腹の上に座ったままわんわん泣く。


 七海。俺の人生はお前が全てだった。七海が生きているということが、唯一俺の存在を肯定してくれてる証明だと感じていた。七海を育てること。それがずっとずっと、俺のただひとつのアイデンティティだったんだ。でもそれが奪われてしまった。もう俺はこの世に存在する理由がなくなってしまった。では俺はどうしたらいい。自ら命を絶つことしかできないのか。


 ……それでもいい。でもその前に、ひとつだけ成すべきことがある。

 これさえできたら、もう俺はいつ死んでもいいんだ。いつでもお前の元へ行ける。


 七海はやっぱり俺の前に現れることはなくて、俺は心の中で告解し続けるけれど、でも記憶の中の七海はいつも通り俺に優しく笑いかけてくれて、俺の背中にそっと手を置いて「ありがとう」と言ってくれる。


 その瞬間、俺の身体は漸く自由を取り戻す。

 俺は虫の息でごめんなさいとか許してくださいとか心の籠もってない謝罪を続ける夢川の腹から立ち上がって顔面に蹴りを入れた後、フラフラと玄関から外へ出ていく。


 もう、いいか。


 そう思ったのだ。


 なぜとどめを差す直前で包丁が折れたのか。なぜボールペンが粉々に砕けたのか。そしてなぜ首を絞める直前で金縛りにあったのか。


 答えはひとつしか思い浮かばない。

 彼女は俺に殺人という罪を犯して欲しくなかったのだ。

 俺に、あいつと同じ罪を犯して欲しくなかったのだ。


 まあ、あれだけ何度も刺しておいて今更感はあるけれど。それでも、命を取ることだけは許してはくれなかったんだろう。


 優しい娘だった。


 せめて俺だけは、この先も普通に生きて欲しいという、彼女の願いが俺に殺人をさせなかったと、俺は本気で思っている。


「……凄い返り血だな」


 俺の両腕は血飛沫を浴び過ぎて、街灯の下で見てるとペンキを塗りたくったみたいに真っ赤に染まっているし、何より血の臭いが凄まじい。


 近所の公園で血を洗い流しながら、七海の最後の親孝行を受け取ったことを実感し、心の中でありがとうと告げた。

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