第8話

 翌日、俺はまたカフェに行く。


 オーダーを取りに行く途中で店に這入ってきた俺と鉢合わせた店長は一瞬「また来たのか……」という顔をしたけれど、すぐに業務中の柔和な表情に切り替え、軽く会釈した。


 俺も彼と同じ動作をしてから、手に持っていた制服を少し上げて見せる。

 ああ、そういうことかと理解した店長は、「スタッフルームでお待ち下さい」と俺に言い、カップルから注文を受けだしたので、俺も勝手に奥へと向かいスタッフルームにお邪魔する。


 休憩中の人がいたら気まずいなと思っていたが幸い誰もいなくて、適当なパイプ椅子に腰を下ろす。

 そして俺は予想外のチャンスを手に入れていることに遅ればせながら気付く。


 転げるように椅子から立ち上がった俺は、スタッフ達の私服が掛けられているハンガーの中から店長のものに目をつける。

 店長の服だと分かった理由は簡単で、彼はスーツで出勤しているからだ。昨日も退勤時はスーツだったし、恐らく彼以外のスタッフはどうせ制服に着替えるのにわざわざスーツでなんて来ないだろう。


 それに、俺は職業柄、他人が着ている服には割と敏感で、特にスーツとなると毎日触れていることもあって、一度見たら大体覚えてしまうのだ。

 昨日は薄暗かったとはいえ、見間違うことはあり得ない。


 なぜ店長だからといってスーツ出勤なんだと昨日は思ったけれど、意外と出勤時の服装を指定する職場はあるみたいで、どうせ制服に着替えるから何でもいいんですよという愚痴を吐きながら買っていくお客もよく見かける。


 全てのポケットをまさぐるつもりだったが、最初に手を突っ込んだ内ポケットの中に目的の物を発見する。

 彼の自宅の鍵だ。


 恐らく形状からしても家の鍵であることは間違いない。しかし、彼の自宅とは限らないのだが、他人の家の鍵を持ち歩く者もそういないだろうし、それなりに給料をもらってはいるだろうが、彼が別宅を持っているとは思えない。


 俺は素早く自分のズボンのポケットにそれを滑り込ませ、再度パイプ椅子に座る。――と、ほぼ同時にドアが開き、「お待たせしました」と店長が姿を現す。

 とんでもないですと俺も軽く頭を下げ、制服と菓子折りを渡す。


「娘がお世話になりました。皆さんでどうぞ」と適当な定型文を口にした俺に「わざわざすみません」と彼はうやうやしく受け取る。


 その後も適当に数分話しをしてから「ひとつお願いがありまして」と、俺は低頭しながら切り出す。


「来月のシフトを見せて頂いてもよろしいでしょうか……?」


 正直これは賭けだった。怪訝な顔をされたら無理強いはしないで退室しようと思ってはいたが、彼は一瞬顔にクエスチョンマークを浮かべたものの「まだ作成途中ですが……どうぞ」とこちらにB5サイズの用紙を手渡した。


 スタッフが希望休を書き込んだものに彼が鉛筆で勤務時間を書き入れている。


「何か気になることでも?」

「やっぱり……あ、いや、もしかしたら思ったんですけどね。七海――娘が希望を出したのって、私の誕生日なんですよ」


 そう言って俺は紙を返す。「そうだったんですか……本当に、なんとお悔やみを――」みたいなことを言われたが、俺はほとんど彼の言葉を聞いていなかった。


 俺の脳を支配していたのは二つ。

 ひとつは彼の出勤日を手に入れたこと。

 もうひとつは、本当に七海が俺の誕生日を希望休にしてたことだった。


 シフトを見せてもらう口実として、それらしい理由が他に思い浮かばなかったこともあり、もしも俺の誕生日以外の日だったとしても同じセリフを言うつもりだったが、やはりというかなんというか。最後の最後まで七海は七海だった。


 心にズシンとした痛みと同時に温かいような思いが込み上げてきて俺は感極まってしまいそうになるのをグッと堪えて、「それではそろそろ失礼します」と深く頭を下げ店から出る。


 思いの外うまくいったこともあり、またある意味予想通りの七海の行動に、何となくほだされてしまいそうになったけれど、とにかく今の俺は動かなくてはならない。


 そのまま近くの鍵屋に向かってスペアキーを作成してもらう。

 三十分ほどで完成したものを受け取り、カフェに取って返した俺はトイレの窓から中に本鍵を投げ込んだ。


 これで拾った人間がスタッフに届けるだろうし、それを見た店長は自分の鍵だと気付くだろう。別に気付かなくてもいいが、盗まれたと思って鍵を替えられたら意味がなくなってしまうので、できれば彼の手元に戻っていて欲しいものだ。


 そうして俺はその足で彼の自宅へと向かう。来月のシフトは覚えたから、彼が出勤する日に忍び込めばゆっくり家探しできるのだが、今日もすぐには帰ることはないだろう。なるべく早く証拠を掴みたいという焦りが俺にはあって、ならば行動あるのみだと体力の落ちている身体に鞭を入れ歩く。


 然程入り組んでいるわけでもない道を辿り、俺は彼のアパートに到着し、作ったばかりの鍵を差し込んだ。かちりと音を立てて回る。中には誰もいないだろうけれど、万が一ということもあるし、なるべく物音を立てるべきではないだろう。


 部屋に這入ると、まずは箪笥や引き出しから中身を確認する。

 そもそも、証拠とはどんなものなのだろうか。


 凶器が見つかるならそれに越したことはないが、そう易々と見つかるとは思えないし、まだ彼が所持しているとも限らない。いや、とっくに捨ててしまっているだろう。ただ、恐らく多量の血液が付着している刃物を捨てるのも勇気がいるのではないだろうか。もしも偶然にでも誰かに見られてしまったら確実に通報されるだろうし、そこから犯罪が露見することは十分考えられる。余程人を殺し慣れてでもいない限り、殺人を犯した人は少なからず動揺しているはずなので、未だどこかに隠し持っている可能性も捨てきれない。


 しかし、なかなか見つからない。彼の両親が生前着ていたであろう服や下着はそのままにされていて、どの箪笥にもぎっしりと詰まっているし、引き出しに入っているたくさんの書類も事件には全く関係がないものばかりだった。


 集中していると時間の経過が早く感じるものだが、まだ一時間くらいのつもりが三時間近く経ってて、室内は薄暗さを感じさせる。


 鉢合わせてしまえば最悪だ。今日はこの辺で切り上げよう。

 そう思い立ち玄関に向かうが、俺はふと気になった場所に目が行く。

 そこはキッチンのシンク下にある扉だった。


 ワンルームマンション等ではここに包丁等の刃物を収納するラックがあることも多いが、この家はどうなんだろう。


 最後に一ヶ所だけ。

 俺はゆっくりとその五十センチほどの扉を開き、絶句する。


 そこには、真っ赤な血が付着している包丁が収納されていたからだ。

 この血が七海のものであるかはわからない。別の人間のものかもしれないし、人間以外の血液かもしれない。


 はやる心臓を鎮める為に、俺は大袈裟に深呼吸をする。すっかりと血は乾いているので、鉄のような独特な血の臭いはしないが、顔を近づけるとたしかに血液臭がする。


 どうする……。これを持ち帰るか……? いや、持ち帰ったところでどうなるというのだ。俺がDNA検査するわけでもないし、警察に届けることでしか七海のものであるという判断は得られないだろう。しかし、なんて説明するんだ? 盗んだ鍵でスペアを作って、留守を見計らい侵入した部屋で見つけましたとでも言えばいいのか? そもそも、警察に言ったからといって、その結果、逮捕し起訴されたからといって、本当に俺の望む刑罰が執行されるのだろうか。これが決定的な証拠になったとしても、数年でシャバに現れる彼を俺は許すことができるのだろうか。


 いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。一刻も早くここから出るべきだ。考えるのは後でもできるし、数日以内にまたここに来ることになるのだから。


 まだ強く鼓動する心臓は俺の息を荒くして足を縺れさせてしまうけれど、どうにか俺はその家からの脱出に成功し、家主が帰宅する前に離れることができた。


 落ち着け。


 昂揚した感情を必死で抑えつけながら、次に訪れる日を待ち切れない自分を律するのに二時間を要した。

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