第7話

 俺は居ても立っても居られず、「これから出かけなければならない」と咲良ちゃんに伝え、言外に帰宅を促すと、流石は七海の友達で「じゃあそろそろ帰ります」とすぐに察してくれる。


 何度もありがとうと感謝を伝える俺に、線香くらいでそんなに感謝されることなんだろうかと思ったのか、曖昧な表情で頷きを返し「また来月来ます」と会釈をしてからそう言って帰っていった。


 恐らく月命日には七海に会いに来てくれるんだろう。本当にいい友達を持ったな、七海。

 しかし、俺のありがとうは七海に会いに来てくれたからというだけではなくて、当然彼女のもたらした情報に対しても向けられていた。


 店長に付き纏われていた。


 それが事実であるならば、被疑者は一気に絞られる。

 警察はそのことを知っているのだろうか。友人にも聞き込みはしているだろうし、もし咲良ちゃんのところにも警察が来ているなら恐らくは伝えているはずだ。しかし、彼女がそのことを話したかどうかはわからない。


 さっきだって、「こんなことなら」という、悔やむ思いを吐露した時に思わず出たセリフだったみたいだし、少なくとも彼女自身は店長に対して明確な疑惑の目を向けてはいないようだった。


 それなら、警察に先んじることができるのではないだろうか。

 七海は誰彼構わず愚痴を撒き散らすような性格ではないし、恐らく一番仲の良かった気のおけない友人である咲良ちゃんの前だからこそ口をついてしまったと俺は考える。


 ならば、恐らく今は俺が一番犯人に近い位置にいるはずだ。

 もちろん、まだ彼が犯人だと断定できるわけもないし、何より彼は当日出勤していたらしいから、そこで仕事を抜け出すことなんてできないだろう。いや……店長ならなにかしらの理由をつけて抜け出し易い立場ではあるか。


 あれこれ考えていても仕方ないので、俺はカフェへと向かう。

 しかし今日は入店することはなく、外から眺めるだけだ。


 今日も店長は出勤しているみたいで、バイトの数が少ないのか、自らオーダーを取りにいったり飲み物を運んだりしている。


 俺は彼が仕事を終えるまで待つことにする。


 六月の日差しは強く、梅雨が明けていないというのに灼熱の日差しが降り注いでいる。昼前なのに既に二十九℃まで上がり、湿度も高いから蒸し暑さで不快感は余計に増していく。

 しかし、ここから離れるわけにもいかない。


 この時間に働いているのであれば、恐らく早番で出勤しているのではと考えられるが――しかし、俺は店の出勤システムを知らないし、店長ならイレギュラーな出退勤も十分にあり得る。外勤も考慮すると、数分目を離した隙に何処かへ行ってしまうかもしれないので、雨が降ろうと槍が降ろうとここに留まるしかない。


 午後から天気が崩れるかもという天気予報を思い出しながら、俺は店の入口がギリギリ見える位置に置かれている道路沿いのベンチに座り、ただ只管ひたすらに凝視し続ける。


 長くは感じなかった。


 七海が死んでからの数週間は、あっという間でもあった反面、まるで無間地獄に落とされてしまったかのような永遠の刻を彷徨う無力感の中、この苦痛は未来永劫払拭されるものではないと感じていたから、この見張り行為にどれだけ時間が掛かろうと、今の目標に向かっている俺にとっての数時間なんて一瞬のようなものだ。


 店長が店の外に姿を現したのは、午後八時を過ぎてからだった。

 思ったよりも遅かったが、店の長ともなると品雑な事務作業も多々あるのだろう。


 俺は一日中座っていたせいで鈍痛を発している腰を数回叩き、一定の距離を保ちながら店長の後をつける。


 車やバイクで通勤していたらどうしようとこの時になって気付いたけれど、幸い彼は電車通勤だったらしく、徒歩で最寄り駅まで向かい、そこから電車で五駅先にある隣町の小さな駅で降りた。


 俺は初めて降りた駅だったので土地勘もなく、帰りに迷わないようにと目印になりそうな看板などを記憶しつつ、そして、何より尾行に気付かれないようにと、慎重に歩を進めた。


 歩くこと十五分。彼はアパートの一室に這入っていく。

 そこは、如何にも市営住宅といった作りになっていて、三棟ある内の一番奥にある棟の、一番端の一室が彼の住まいのようだ。


 部屋の明かりが点き、暗闇に包まれている外からも中の様子がよくわかる。

 恐らく六畳間が二つ。南向きで並んでいる。奥にはリビングらしきスペースがあって、その更に北側に風呂やらトイレがある。俺は北側に回り込むと、そちらにも一部屋あって、3DKの間取りであることがわかった。


 風呂場の窓は換気のためか空いていて、全開にしても人が通ることができない作りになっている。きっとここはほぼ二十四時間開け放しているのだろう。

 隣にあるトイレの窓は上部だけ開くタイプで二メートルほどの高さの上側だけ開いたところで侵入は不可能だ。


 俺はふと気付く。この家は彼が一人で住んでいるのだろうか。


 3DKに一人暮らしなんて贅沢を……と思うが、しかしまあ店長だとそれなりに収入もあるだろうし、別に三部屋あっても不思議ではないか。


 ただ、市営住宅なら応募をして入居資格があると見做されないと入れないだろうし、もしかしたら同居人がいるのかもしれない。妻や子、はたまた両親がいるのかもしれない。


 彼は南側の部屋にある大きい窓を開け放ち、網戸越しに夜空を見上げたあと、服を脱いで風呂場に移動する。


 不用心だと感じてしまうが、それは今まさに俺が侵入しようとしている不届き者だからこそそう思うだけで、在宅中に窓を開けるなど普通のことだ。まさか、灯りが点いていて明らかに住人がいるところへ入るような間抜けな強盗がいるわけがない。


 風呂場のすぐ外で耳を澄まし、シャワーの音を聞いてから、物音を立てないように静かに南側へと回り込み、ベランダの柵をじ登る。

 大して高くもないのですんなりとベランダへの侵入は成功。そのまま音を立てずに網戸をずらし、靴を脱いで部屋に這入る。


 声が一切聞こえなかったので誰もいないと、ある程度確信はしていたものの、万が一同居人と鉢合わせてしまったら致命的にまずいので、衣擦れの音ひとつ聞き逃さないように、全神経を耳に集中しながら漫画やアニメの泥棒みたいに一歩一歩足を抜き差ししながら歩いていく。


 ……やはり誰もいないようだ。


 いわゆる団地サイズというのだろうか、やや畳の小さい六畳の和室は少し狭いので、数秒でリビングまで到達する。そして俺の目に飛び込んできたのは、あまり手入れがされていないであろうホコリが被った仏壇だった。


 そこには小さな遺影が二つ並んでいる。恐らく彼の両親と思われる。

 もしかしたら、この家には彼ら親子が三人で住んでいたのかもしれない。両親が他界し、今は彼が独りでここにいると考えるのが自然だろう。


 一瞬、彼が犯人ではという疑念がなくなりそうになる。家族を失った経験がある人間が、他人から家族を奪うよな行動を起こすだろうか、と。

 しかしすぐに訂正する。そんなことを言い出したら、世界中の殺人犯は家族が健在なのか? と。そんなはずはないし、人を殺すことと身内の死が必ずしも関係しているとは言えない。


 ――さて、これから家探しを始めるかと、一歩足を進めた途端、バタンと風呂場の方からドアの開く音が聞こえる。恐らく風呂から出たのだろう。流石に早すぎる。俺は慌ててベランダへと駆け出した。


 そして、急いで靴を履いて柵の上によじ登り、庭に飛び降りた。外は暗いし、もしそこに石でもあったら怪我をしてしまうかもしれないという一瞬にも満たない俺の懸念は一瞬の後に忘却の彼方へと行ってしまい、柔らかい土に受け止められた両足を擦りながら俺はじっと身をひそめる。


 気付かれていないだろうか。

 何も残してきてはいないのだから、気付きようもないだろうけれど。


 俺は暫く部屋を凝視していたが、時々リビングを横切る半裸の店長の姿が見えるだけで、そこから何かの情報を得ることは不可能だと察する。

 これ以上ここにいても仕方がないので、俺は自宅に帰ることにした。


 彼が寝るのを待ってもいいが、彼の眠りがどれだけ深いかもわからないし、敏感な人間だったら僅かな物音で気付いてしまう。

 やはり彼がいない時間を見計らって侵入するしかないな。


 俺は道を覚える為に、やや挙動不審な感じで駅まで三十分近く掛けて歩き、自宅に着いたのは日付が変わる少し前だった。

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