第6話
最初の街にたどり着いたのは2日目の夕方だった。近くの森にアリス達は野宿の場所を決め、数名の騎士達が物資の補給に街に入った。一日中馬の上に乗り夜は焚き火を囲んで毛布に包まり地べたで寝る。それは思ったよりアリスの体に堪えた。
腰を曲げたり捻ったりして柔軟する。思わずイタタタッと声がでた。
「大丈夫ですか」
「ええ。きっとすぐ慣れるわ」
気遣わしげな表情をしたカサンにアリスは苦笑いで答えた。
「騎士の皆さんは夜も交代で見張りをしてくれているもの。私が弱音は吐けないわ」
「我々は慣れていますから」
カサンは部下が集めてきた木の枝を重ね、器用に石を2つ打ちつけて火をつけた。
「アリス様、こちらに来てみて下さい」
立派な顎髭を生やしている騎士、ネルが声をかけてきた。側に行くとネルは足元を指差している。よく見ると赤い小さな花がいくつか咲いている。
「見たことのないお花だわ。可愛い」
「アダリナという花です。一年で数日しか咲きません」
「知らなかったわ。見れるなんて幸運ね」
「聖女様にお会いできて嬉しくて咲いたんでしょう」
ネルは人好きのする笑顔をアリスに向けた。
屋敷を出てからカサン以外の騎士と話す機会が増えた。休憩中や飯時に交わされる騎士達の会話はアリスにとって新鮮だった。特に国中の街や人の話はアリスの好奇心を大いにくすぐった。
「では、そのアグゥという街の女性は皆顔に刺青を入れているの?」
「そうです。あそこら辺の昔からの風習らしいですが、いつから始まったかなどはわかっていません。16歳の成人の儀式で額に入れます。悪いものを跳ね除けて将来元気な子を産むためのおまじないだそうです」
オレンジがかった髪色の騎士が少し離れた場所から手を上げて「私の兄の妻もアグゥ出身なので刺青を入れています。一昔前は手首や足首にもいれたらしいですよ」と言った。
「私が昔任務で行った街ではほとんどの男性が髪を剃り上げていて驚いた事があります。なんと言いましたか、そうだ、カムテルの街です。国随一の剣鍛冶が有名な街でして、熱い鍛冶場では大量の汗をかくので髪の毛が邪魔になるんだそうです」
「おいロディ、お前いつから鍛冶屋になったんだ?」
一人の騎士がわざとらしく大きな声で聞いた。
「鋭い刃を仕上げてお前を仕留めてやろうと思ってな」声をかけられたロディは憮然とした表情でそう答えた。ロディの頭は見事にツルツルなのだ。
皆んなで声を上げて笑った。
いつもは燻製肉と乾燥させたパンなどで簡単に済ませる食事だが、物資の補給に行っていた騎士達が焼きたての棒付き肉と新鮮な果物を買ってきてくれた。アリスも騎士達に並んで有り難く頂く。香草の効いた棒付き肉は柔らかくとても美味しかった。
4日目の深夜一匹の大きな野獣が現れた。耳元で「アリス、起きて下さい」とカサンが囁いた。目を擦って起き上がると殆どの騎士達が剣を抜いて立ち上がっていた。円を描くようにアリスの周りを取り囲んでいる。
「団長、こいつはかなりデカイです」
騎士の一人が小さな声でそう言った。少し離れた場所から馬の嘶きが聞こえた。耳を済ますと微かにパキパキという音と荒い鼻音が聞こえてくる。
「来るぞ」
カサンがそう言うのとほぼ同時に木々の間から巨体が躍り出た。四つん這いなのにアリスの身長程の大きさがある。灰色の毛並み、4本の太い脚、顔の半分もありそうな大きな黒い瞳が異様に輝いている。長い尻尾で地面をペシペシと叩き、鋭い牙をこちらに見せつけるように剥き出していた。
「ビルビルだ!こいつの牙には強烈な毒がある。瞬時に傷口が腐るぞ。絶対に噛まれないようにするんだ」
「アリス、私の背から出ないで下さい」
カサンは野獣から隠すようにアリス前に立った。
ビルビルと呼ばれるこの野獣を見るのはアリスは初めてだった。こんなに大きな獣は話しにも聞いた事がない。
左右にウロウロと動きながら騎士達の方を伺っている。まるでどいつからとって喰ってやろうかと見定めているようだ。
前の騎士達が少しずつ動き、半円形にビルビルを取り囲むような配置になった。
その時右端の1番近くにいた若い騎士にビルビルが突如襲いかかった。騎士達が一斉に動く。
襲われた騎士の剣がビルビルの右前脚を深く傷つけた。しかし勢いは止まらずそのまま騎士を押し倒す。咄嗟に剣を横にして牙を防ごうとしている。
ビルビルの背に向けて2人の騎士が左右から切りかかった。グワッ!という低くて大きな声を上げてビルビルは後ろに飛び退いた。そこに別の騎士が斬りかかる。それを防ぐようにビルビルは高く飛び上がった。
カサンが「アリスを後ろへ!」と叫び前に出た。カサンの後ろに立っていた騎士がアリスの腕を掴み後ろに引っ張り自分の背で隠す。
グガァァァ!という獣の悲鳴が辺りに響いた。
ザザザという何かを引きずるような音と、騎士達の荒い呼吸が聞こえる。
そして静かになった。
アリスの前に盾となるように立っていた騎士が振り向いて「もう大丈夫です」とアリスに言った。
「ビルビルは去りました。あの怪我では長くは保たないでしょう」
「あんな野獣は初めて見ました」
アリスは両手で自分の体を抱きしめるようにしていた。剥きでた牙を見てガムルーの群れを思い出した。血だらけになって横たわるリサの姿が脳裏を掠める。鳥肌が止まらない。
「あんなに大きな野獣がいるのですね」
「ビルビルは国の北側に生息する野獣です。この辺りに出る事は珍しいですが、今は繁殖期ですからツガイを探して南下してきたのでしょう」
目でカサンを探すと最初に襲われたであろう騎士の元にその姿があった。アリスもそこに行く。
襲われた騎士は地面に座り込み、片手から血を流していた。
「申し訳ありません。牙を避けようと剣をあいつの口に挟んだとき刃で切ってしまいました」
「消毒用の酒を持ってきてくれ」
カサンがそう言うと騎士の一人が円形の水筒を持ってきてカサンに渡した。カサンはそれを少しずつ傷口にかけてゆく。傷を負った騎士は顔を顰めながらも「できる事なら口の中にかけて欲しいです」と軽口を叩いた。
アリスはカサンの肩に軽く触れて隣にしゃがんだ。
「カサン、これくらいの傷なら力で治せると思う。やらせてくれない?」
「いやいや、聖女様の力を使って頂くなど罰が当たります。布でも巻いておけばいずれ自然に塞がります」
カサンではなく怪我をした本人が慌てて遠慮した。
「でもまだ道のりは長いわ。ゆっくり休んでいる時間もないし、無理をすれば傷も悪化して熱が出てしまう」
アリスはカサンの顔を見つめてそう言った。
カサンは少し考えるそぶりを見せて「良いのですか」とアリスに聞いてきた。
「力を使うという事は旅の疲れが溜まっている貴女の体にも負担になるのでは?」
「負担ではないわ。少しくらい役に立たないと申し訳ないもの。お願いだからやらせてほしい」
そう言うアリスの目は真剣だった。守られておんぶに抱っこではなく、自分だって少しは役にたちたい。カサンはそんなアリスを見て少し黙ったあと「ありがとうアリス。では宜しくお願いします。決して無理はしないで下さい」と力を使う事を認めてくれた。
怪我を負った騎士は「当人を抜きにしてお二人の世界で決めないで頂きたい」と青くなったり赤くなったりしている。
「文句があるならさっさと傷を治して役に立て」
カサンは軽くその騎士の後ろ頭を叩いて立ち上がった。
「繋いだ馬の確認をしてきてくれ。後少しだが寝られる者は睡眠をとるように」
周りの部下に指示を出すカサンの声を聞きながらアリスは地面に両膝をつき胸元に片手を当てた。以前より体の底から上がってくる熱の量が多い。リナを追ったあの夜に力を抑えていた箱が壊れたような感覚があった。
みるみるうちにアリスの胸元から光が溢れ出す。
治れ。治れ。治れ。
光が騎士の怪我をした腕に集まってゆく。
治れ。治れ。
「あ、あの。アリス様」
祈りの途中て騎士が声をあげた。
「あの、もう傷は塞がりました」
見るとダラダラと血を流していた傷は綺麗に治っていた。以前よりずっと早い力の効力に驚く。
「これが聖女のお力か」
周りの騎士達が驚いた声をだした。
「あっという間に傷が塞がるなんて」
「お身体から出る輝きのなんと美しいことだ」
アリスの胸元の光が消えるまで騎士達は目が離せないようだった。
カサンの咳払いか響く。
「女性をあまりジロジロ見ないように」
その言葉で慌てたように周りにいた騎士達は視線を逸らした。苦い顔をしたカサンがアリスを近くの木陰に導く。そこには地面にカサンの毛布がひかれその上にアリスの毛布が畳んで置いてあった。
「私はこれから夜明けまで見張りに入ります。眠れそうなら少しでも仮眠をとって下さい」
そう言って近くの石に座った。
「ありがとう」
「いえ」カサンはアリスの方に顔を向けて微笑んだ。
「部下を癒してくれた事、感謝します。ありがとうアリス」
アリスも毛布に包まりながら微笑んだ。
「役に立てたのなら良かった」
その後アリスは細切れに夢を見た。青い衣装を着た年嵩の男性がアリスを見下している。
「貴女にこの国を救う事ができるのですか。聖女の立場からも逃げていたくせに」
アリスは言い返す。
「カサンがそのお陰で私は今まで王様に殺されなかったって言っていたわ」
「それは結果論に過ぎない。もし貴女が名乗り出ない事によってもっと大勢の人が殺されていたとしたらどうしましたか」
「わからないわ。私は国に危険が迫っているなんて知らなかった」
「わからなかった。知らなかった。それは全て貴女が聖女の責務から逃げていたからです。親から離れたくない。居心地の良い環境から出たくない。そんな自分勝手で身勝手な気持ちを優先させてね」
「今更そんな事言われてもどうすればいいのよ!私はこうやって扉に向かっている。逃げてない!」
「どうせ失敗しますよ。貴女にはこの国を救えない。皆んなを殺してしまうんだ」
青い衣装の男性はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべてアリスを見た。
「両親もリナもカサンも、みーんなね」
「うるさい!うるさい!」
アリス、アリスと肩を揺すられて目を覚ました。心配そうなカサンの瞳が覗き込んでいる。
「とても魘されていました」
カサンが指の背でアリスの頬を軽く撫でる。自分が涙を流している事にアリスはその時気付いた。
「大丈夫ですか」
「……ええ。ごめんなさい。嫌な夢を見ていたの」
「あんな獣を間近で初めて見たんです。夢見も悪くなるでしょう。我々が見張っていますから安心して下さい」
カサンは先程見たビルビルせいだと思ったらしい。
「ありがとう」
カサンの立ち去る音を聞きながらアリスはまた目を閉じた。
怖いのはビルビルじゃない。アリス自身だ。聖女としてこの国の人々の命を救う事ができるのか。自分の力が及ばなくて悲惨な結末を迎えないか。考えれば考えるほど恐ろしくなる。
そうだわ。あの人思い出した。
夢に出てきた青い衣を着た初老の男性。あの人はアリスの賜りの儀式で受付をしていた人だ。帰り際、時間がかかったが何かあったのかと聞かれた。アリスは何と言って誤魔化したのだったろう。あの日から全てが始まった。アリスの人生が大きく変わってしまった日。
息を深く吸い胸に手を当てた。
大丈夫。今できる事をするしかない。扉で何が起こるかわからないけれど、全力で立ち向かうだけだ。もう逃げないと決めたのだから。
アリスはゆっくりと息を吐き出した。
2日後、予定より少し早く首都ガーデルンに着いた。明るいうちは近くに潜み暗くなってから都の中にいるカサンの部下の手引きで中に入る計画になっている。
「ここからはアリスの姿は決して見られてはならない」
アリスは大きめの布を頭に目深に被り顔と金髪を隠した。
「私の館が都の東側にありすでに秘密裏に部下や協力者が集められています」
薄暗くなってきた頃ピーという指笛の音が聞こえてきた。隣のカサンも指笛を鳴らす。
現れたのは2人の屈強な体格の男性だった。一目で騎士なのだろうと分かったが、鎧は身につけていない。
「団長。お疲れ様でした。後数刻で東門の見張りが交代になります。その隙に聖女様を中にお連れしましょう」
2人の騎士はカサンの隣にいるアリスの前で片膝をつき頭を垂れた。
「私は第三階梯聖騎士団副団長のリハミル。カサン団長の右腕です。隣は下っ端のロイド。下っ端なのでお見知り置きされなくて大丈夫です」
周りの騎士がどっと笑う。
「リハミル副団長は相変わらずですね」
「相変わらずの男前だと言うのならその通りだ」
「相変わらず騒々しい、だと思うぞ」
カサンが苦笑いを浮かべてそう言った。
リハミルはカサンより更に身長が高かった。シルバーの髪をしてつぶらな瞳を持った、顔だけ見ると野うさぎを思わせる印象だ。その雰囲気と体格と話す内容がどうも合っていなくて面白い。
「ケムル山脈にはいつ立ちますか」
「明日の夜明け前には出る。少しでも都に滞在する時間は短くしたい」
「わかりました。荷物の準備はできています」
リハミルは「これを」と懐から1枚の紙をだした。
カサンが受け取り紙を開くと息を呑んでアリスの方を見た。アリスも彼の手元を覗き込む。
そこには明らかにアリスの似顔絵が描かれていた。長くウェーブのかかった髪、大きな瞳。横に〝金髪、ブラウンの瞳〟と文字で書かれている。
「先日都にいる騎士や兵士全員に配られました。国を危険に晒す悪女なのだそうです。多額の懸賞金も掛けられています」
それを聞いてカサンが険しい顔をした。
「国を危険に晒す、か」
「道中も最大限気をつけましょう。この絵の情報がどこまで出回っているかわからない」
「そうだな」
カサンはアリスの方を見ながら頷いた。
辺りが完全に暗くなった頃、アリス達は4、5人のグループに分かれて都に入った。できるだけ足早に、だが目立たない程度の速さでカサンの屋敷を目指す。馬は新しく合流する騎士の分も含め都の近くに繋ぎ数人の騎士が明日まで見張る事になっている。
何階建なのかわからない程高い建物が下町の路地に所狭しと並んでいた。窓の中からは光が溢れ色々な料理の匂いが鼻を掠める。あちらこちらから笑い声や話し声が漏れ聞こえた。
「アリス、顔を下げて」
ついつい周りをみてしまいそうになるアリスにカサンは言った。
「屋敷はもう少しです」
だんだんと道幅は広くなり先程までの細々とした景色とは変わってくる。背の高い塀に囲まれた建物の中からは時折馬の嘶きも聞こえた。
何度も角を曲がり、アリス達はある屋敷の塀の中へ入った。門を潜るのではなく木々に隠れた部分から塀の中へ潜み込む。アリスはしゃがんだリハミルの背に乗り、先に潜ったカサンに体を持ち上げてもらった。
「使用人用の入り口から入ります」
そうカサンは言っていたが目の前の扉は村のアリスの家のドアより何倍も立派だった。
リハミルがリズムをつけてドアを叩く。すると間を置かずにカタンと扉が開いた。皆無言で中に入る。
そこはとても広い部屋だった。真ん中に大きなテーブルが置かれ数本の蝋燭が揺れていた。周りを見渡すと壁に掛けられた大きな鍋がここが厨房である事を示していた。
中にいた数人の騎士達が膝をついて挨拶をしてくる。
「アリス様。カサン団長。長旅お疲れ様でした。無事に辿り着かれた事、我々も一先ず安堵致しました」
「すぐに我々と分かれてこの屋敷に向かっている団員も到着するハズだ。全員が集まり次第打ち合わせを始める」
「アリス、疲れをとる暇も無く申し訳ないが貴女も参加してほしい。大丈夫ですか」
「もちろんよ」
アリスは頷いた。
先程の部屋も広くて驚いたが次に通された部屋は更に広がった。この部屋の中にアリスの村の家が丸々3軒くらいは入ってしまいそうだ。長いテーブルを囲み数十人の騎士達が座っている。部屋の端にも椅子が置かれそこにも騎士が座ったり壁にもたれて立ったりしていた。アリスはカサンとリハミルに挟まれるようにして座っていた。
「集まったか」
カサンが部屋の中を見渡しながら口を開いた。
「馬や屋敷の見張りをしている者を覗きこれで全員です」近くの誰かがそう言った。
テーブルの上と部屋の数カ所に燭台が置かれているが部屋全体が薄暗い。きっちりと窓のカーテンも閉められ月明かりもなかった。
「明日の夜明け前全員でケムル山脈に向かう。扉までは本来3日の距離だが、迂回するため5日程度かかると踏んでいる。月と神王星が隠れるのは7日後。途中野獣や他の騎士団との戦闘になる可能性もある。絶対に聖女アリスを守り扉にたどり着く必要がある」
部屋の騎士達がアリスを見るのを感じた。今のアリスは頭を覆っていた布をとり顔を出している。
「やはり、伝承通り扉の中には聖女しか入れないのでしょうか」
「それはわからない。400年前起きた事が今回もそうなるとは限らない」
部下の質問にカサンは淡々と答えた。
「ただ、執拗に聖女を探し出そうとするヤツらの行動を見ても聖女が何かしら重要な役割りを担っている事は間違いないだろう」
部屋の中に沈黙が訪れる。
アリスは周りの騎士達がこんな小娘に国未来が託されている事が不安なのだろうと思って視線を自分の膝に落とした。
そうよね。私自身不安で仕方がないもの。
その時テーブルの下でアリスの手にカサンの大きな手が重なった。
「アリス。何があろうとも我々は貴女を守ります」
アリスが顔を上げると隣にはカサンの優しい瞳があった。
「そうですぞ。団長にばかりいい所を掻っ攫われては困ります。聖女様も、この国も、護るのは我々騎士の役目。聖女様の出番などこの副団長リハミルが貰い受けさせて頂きます」
「聖女様、副団長はすぐ調子に乗るのでやめた方がいいです。何かありましたらこのロディが命に換えましてもお護り致します」
「お前!私に物申すとか頭の毛はなくとも心臓には生えているのか!」
「なんでもかんでも髪の毛に結びつけないで頂きたい!」
部屋に騎士達の温かい笑い声が響く。
「アリス、我々は貴女が今まで生き延びて、こうやって共に扉に向かう勇気を出して下さった事に感謝しています。貴女はあの滝の前でやり遂げてみせると言った。それは私達も一緒だ。貴女は1人ではない。忘れないで下さい」
薄暗くて遠くに座る騎士達の表情は見えなかったが、その部屋にいる皆がカサンの言葉に賛同してくれているのを感じた。
「ありがとうございます。皆さん、よろしくお願いします」
アリスはそう言って頭を下げた。
打ち合わせが終わりアリスは寝室に案内された。豪奢ではないが品のいい家具が置かれている。
「今湯の入った桶を持って来させます。本当は風呂を沸かして差し上げたいのですが」
あまり大きく煙を出すと目立ってしまうので、とカサンは申し訳なさそうに言った。
「ついに明日ケムル山脈に向かうのね」
「そうですね。ここからが旅の終わりに向けた始まりになるでしょう」
「私は、ついこの前まで賜りの儀式行ったガムルーの街より遠いところに来た事はなかったの」
アリスは机の上で揺れる蝋燭の炎を見つめながら言った。
「それが、今はこんなに遠くにいる」
「寂しいですか」
カサンは穏やかな声で聞いてきた。
「そうね。両親やリナにまた会いたい。でもそれは全てが無事に終わってから。胸を張って会いたい」
「アリス、貴女は自分で思っているよりずっと強い女性だ」
「だったらいいけれど」
アリスは苦笑いを浮かべた。
「明日からどんな事が待ち受けているのか、たまに怖くて仕方がなくなるわ」
カサンは足早に部屋のドアを閉めに行った。アリスがキョトンとしていると、その身体を抱きしめた。
「お許し下さい」
片手でアリスの顔を持ち上げて瞳を見つめた。
「明日からは、また貴女を守る一騎士になりましょう。今だけ、貴女を慕うただの男として」
そう言ってアリスの頬に口付けをした。
反応を伺うようにまたアリスの瞳を見つめる。蝋燭の炎の光にぼんやり照らされるカサンの空色の瞳にはアリスの知らない熱が篭っていた。
アリスはカサンの服の裾を握って目をそっと閉じた。少しの間を置いてアリスの唇にカサンの唇が重ねられた。
廊下を行き交う足音が聞こえる。少し早鐘を打つ鼓動はきっと二人共同じだ。
カサンは体を離してアリスの頬を指の背で撫でた。
「私は何年も王の命を受けて聖女を探していました」
アリスの顔にかかる金髪を掬い彼女の耳にかける。
「貴女に出会った時、想像していた聖女とは全く違った。貴女は愛するものを救う為に命を賭けて一人で敵に立ち向かっていた」
信じて下さい。とカサンは続けた。
「貴女には聖女に選ばれるだけの理由がある。国の命運をかけて戦わなければいけない運命ならば、私は貴女と共にその運命を歩みましょう」
「カサン」
「愛しています。アリス」
二人はまた抱きしめ合った。カサンの広い背中にアリスの腕が回される。
「私もよ。きっと私も、貴方を愛してる」
アリスがずっと名前をつける事が出来なかった感情に、初めて名がついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます