第4話
「おはようございます!」
ファリアとメルがアリスに元気よく挨拶をする。
朝一番に彼女達の笑顔を見る事がアリスの外せない日課になっている。
「アリス様、今朝はキノコと燻製したうさぎ肉のスープです。隠し味にマールの実の汁を入れたのでほんのり甘い仕上がりになっています」
「お庭にブルダナスの花が咲いていました。あちらのテーブルに飾りますね。見回りの騎士さんがぜひアリス様のお部屋に飾って下さいって、沢山切ってくれたんですよ」
二人とも競い合うかの様に、いや実際競い合ってアリスに話しかけようとする。
アリスの親しみやすい態度にファリアとメルもだんだんと緊張を解きここ数日でかなり気さくに話せるようになった。
「あなた達、アリス様が落ち着いてご朝食をお食べになれないでしょう」
アンヌが苦笑いを浮かべながらそう言うがカサンが何か言ってくれたのか苦言を呈する事はしない。
「アリス様。お風呂の準備が整っております。ご朝食が済みましたらどうぞお入りになって下さい」
「ありがとうアンヌ」
村にお風呂は一つしかなく、一度に3、4人入れる湯船を男女交替で使う。一つの家庭が当たるのはだいたい週に一度くらいだった。アリスは胸に女神の印が刻まれてからはお風呂は使わず帰りの着替えを持参して森の中にある湖で服のまま泳いだ。リナとも良く一緒に泳いで、透き通る水の中にいる小さな魚を掬って遊んだ。何人も使った後のお湯に入るよりよっぽど気持ち良かったし、村には数日に一度の水浴びだけで済ます大人も多かったからなんとも思われなかった。
アリスがこのお屋敷に来てから13日が過ぎた。
左手の怪我は塞がり日々の運動で体力もだいぶ回復してきた。カサンは一日に一度必ず散歩に連れ出してくれた。話してみると彼はユーモアもあり騎士として国中を旅してきた知識も豊富で彼と聞いていると時間が経つのを忘れた。アリスより頭一つ身長の高いカサン。少し視線を下げてアリスを見る彼の瞳は今まで知らなかった感情を抱かせる。もっとその瞳に見られたいような、見ないでほしいような。このくすぐったい気持ちが何というのかアリスにはまだはっきり言えない。
朝ごはんを食べ毎朝お風呂に入る。花から抽出したとても良い匂いのオイルをアンヌがお湯に数滴たらしてくれる。街ではよく売られている物らしい。
良い匂いのお湯に浸かり目を閉じると村の丘から見た景色が蘇った。アリスが植えた花が風に揺られ、良い匂いを辺りに漂わせる。遠くに見える小川、連なる畑、青々とした葉を陽の光に輝かせる木々。嗅覚とはこんなにも思い出を刺激するものかとアリスは思う。目を開けるとそこは屋敷の立派な湯船だった。
「アリス様の髪は本当に、何にも例えられない程の美しさですね」
木でできた櫛で解かしてくれながらメルがうっとりと呟いた。この屋敷で毎日お風呂に入る様になってから確かに髪質がとても良くなった気がする。でもそれはそれだけ手入れしてもらっているからだ。メルはアリスの長い髪を器用にクルクルと巻き、一つにまとめる。両耳のサイドにだけ少しずつ毛束を残し、頭の横に白い木でできた髪飾りを着ける。髪飾りにはいくつかの緑色の小さな宝石が付いて初めて見た時なんて美しいのかと思った。村の結婚式で着飾った花嫁ですらこんなに美しい飾りを付けているのは見た事がない。
「この髪飾りはどうしたの?」
以前アリスがそう聞くと、アンヌは「どうしたんでしょうねぇ」とニコニコと笑い、しかし明らかにはぐらかされた。
「さ、今日は馬に乗られるという事ですからこちらのご衣装をご用意致しましたよ」
アンヌが持ってきたのは深い緑色の女性用乗馬服だ。
「乗ると言っても、カサンの馬に少し乗せてもらうだけよ」
「それでもスカートで跨ぐ訳にもいかないでしょう」
以前カサンに会った時は迷わずスカートのまま跨いでいた事を思い出し耳が痛い。
アリスが乗馬服に着替え終わった頃、部屋の扉がノックされた。アンヌが扉を開けるとカサンが剣を携え立っていた。
「ご準備できましたか」
「ええ。宜しくお願いします」
カサンは少し苦い顔をして「本当に行きますか?」と聞いてきた。
「ぜひ。楽しみです」
アリスがそう答えるとカサンは小さなため息をついて「わかりました」と左腕を差し出した。
その手に捕まりアリスは部屋を出た。
「わぁ!凄い。みて、虹が掛かってるわ!」
アリスはカサンの馬に乗ってキラキラと輝く滝を見ていた。屋敷の近くに大きな滝があると聞いた時、彼にどうしても見たいと言った。かなり渋っていたが「それを目指して体力回復頑張ります!」と勝手に宣言した。そしてダカ医師の指導の元アリスは意欲的に日々運動をし、昨日人の支えがあるなら、という条件で馬に乗る許可をもらったのだ。
「貴女は根性だけなら我々騎士に負けないな」
そう言ってカサンは苦笑いをした。
アリスとカサンの後ろには、付かず離れずの距離で3人の鎧をつけた騎士達が見守っている。
「村の近くにも小さな滝はあるのだけれど、この滝はその何倍も大きい」
「……幼い頃、叔父の屋敷に遊びに来た時はここでよく釣りをしました」
「大きな魚がいるの?」
「そんなに大きくはないが、焼いて食べれるくらいのがたまに釣れる。私は自分で火をおこして釣った魚を枝に刺して焼きました」
「楽しそう」
「ええ。不思議と屋敷で出される豪華な料理よりずっと美味しく感じましたね」
後ろからアリスを支えるカサンの手が温かい。
しばらくそのままお互い何も話さずに滝を見つめた。
「カサン、私行くわ」
アリスはポツリと呟いた。
「やり遂げてみせるわ」
「アリス……」
「それに、貴方達騎士もついて来てくれるのでしょう?」
「我々がどこまで貴女と共に行けるかはわからない」
「わかってる。最後は私が引き受ける。聖女だもの」
そう言って笑いながら首を捻ってカサンの顔を見た。
「聖女様は、もう逃げないって決めたの」
月と神王星が同時に隠れる時冥界の扉は開き出す。扉が完全に開いた時国は暗黒に包まれる。冥界から解き放たれた暗闇は人々の心を食い尽くし、作物を枯らし、国を荒廃へと導く。
400年前、月と神王星が同時に隠れる時がきた。開きつつある扉に多くの騎士が挑んだが誰一人として中には入れなかった。その時、神に選ばれし聖女が冥界の暗黒の力を消すべく扉の奥に入って行った。騎士達が見守る中、扉からは強い光が何度も溢れ出た。しかし徐々に光は弱くなり、変わりに闇が勢いを増した。もはやこれまでかと思われた時、弱い光が最後に瞬き扉が閉まった。騎士達は聖女が闇の力には敵わなかったが、命を賭して次の扉が開かれるまでの時を繋いだ事悟った。
「重い……重いわ」
アリスが初めてこの逸話を聞いた時、頭を抱えてアリスは呟いた。
「ねぇ、いくらなんでも聖女が担う役割が重過ぎない?聖女しか入れない扉って何。私一人がその暗黒の力と対峙して、失敗したら国が滅びてしまうって言うの?」
「……私も貴女の立場ならそう思うでしょうね。しかしこれが国中に散らばった部下達が集めてきた史実なんです。もちろん王は知っているでしょう。ですが操られている今、400年前の聖女が何をしたかについては厳重に隠されています」
「命を賭けて国を救ったのに未来の人達はそれを知らないなんて」
「昔から伝わる歌や伝承などで残っているものはあります。由緒正しい騎士の家などに聖女の偉業を絵にしたものもありました」
「そう……」
顔色が悪いアリスに、カサンは優しく言った。
「先ずは貴女の体力が回復しなくてはなりません。月と神王星が同時に隠れるまで二つの月日があります。もし扉に向かうとしたらその15日前までにこの屋敷を出れば間に合います。貴女が行く行かないに関わらず私と部下達は扉に向かいます。それが騎士としての責務だからです。私は……貴女が行く事を拒否しても責めません」
「なぜ?騎士は扉の中に入れない。私が行かないと結局皆んな暗黒に飲み込まれてしまうのでしょう?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。なんせ400年も前の話しです。我々騎士は国ひいては民を守るべく日々鍛錬しています。それは自らそうありたいと志願したからだ。でも貴女は違う。私は貴女が扉に行かず万が一この国が滅びたとしても、それが貴女の責だとは思わない。国を守るべき存在の我々が不甲斐なかっただけだ」
「カサン……」
だから安心してどうするか選んでほしい、とカサンはアリスに言った。
アリスは逃れられないと思っていた聖女という運命に初めて選択肢を与えられた気がした。この人は聖女としてではなく、アリスという一人の人間を見てくれている。聖女だと知られたら、アリスはアリスじゃいられなくなるんじゃないか。それは12歳の誕生日の日からずっと心のどこかで不安に思っていた事だ。カサンの言葉はそんなアリスの不安を優しく解きほぐしてくれるようだった。
絶え間なく落下する大量の水。水飛沫は周りの草花を揺らし虹を生み出す。近くの木から数羽の小さな鳥が晴れ渡った空に一斉に飛び立った。
「ねぇカサン。もし無事に全てが終わったら、また貴方とこうやってここに来てこの景色が見たい」
アリスはそう呟いた。
「貴女が望むのなら。喜んでまた共に来よう」
少しの沈黙の後、カサンはアリスの耳元でそう言った。
「約束よ」
アリスは腰を支えるカサンの手に自らの手を重ねた。カサンは一瞬ピクリと手を動かしたが、何も言わなかった。
重なった二人の手は後ろの騎士達には見えない。二人はそのまま静かに滝を見つめた。
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