第3話

 夢の中で硬くて長い指が私の頬をそっと撫でていた。父さんだろうか。優しいその感覚は私を安心させる。もっと、やめないで。何か忘れているような気がするが何も思い浮かばない。ただゆらゆらと私は漂っている。ここは寂しい。けれどここから出るのは怖い。なぜ怖いのだろう。わからない、知りたくない。なぜ知りたくないのだろう。そんな事をぼんやりと思っていると、また意識がふわふわと曖昧になる。ゆっくりゆっくり浮かんでは沈む。進んでは戻る。方向も何もない場所。暗くもなくて、明るくもない。誰かの声がする。男の人、女の人、赤ちゃん、色んな声がする。女の子が笑ってる。私はこの声を知っている。愛しい子。でも思い出せない。とても大切なはずなのになんで悲しくなるんだろう。悲しくて、悲しくて、もっともっと深いところに沈んでいきたくなる。でもそんな時またあの優しい指が私の頬をそっと撫でる。私は沈むのをやめて、またゆらゆらとそこで漂い始める。


 カチャカチャと音がする。聞いた事がある音。

 私はゆっくり目を開いた。眩しい。視界がぼんやりとしてうまく見えない。手を動かそうとするがいやに重たく感じる。

 ここはどこだろう。またカチャカチャと音がする。

 わかるのは私は寝台に寝かされているのだろうという事。視線を動かしても白いものしか見えない。

 頑張って腕を顔の前に上げた。まだぼんやりしているが自分の腕の輪郭が見える。指を開いたり閉じたりしてみる。ぎこちなくだが、ちゃんと動くことがわかった。

「……あ、あ」

 かなり掠れて弱々しいが声も出る。

 目を瞑ったり開けたりを何度も繰り返す。

 少しずつ視界がくっきりとしてきた。

 頭を横に動かすと白く見えていたのはどうやら寝台の天蓋のようだった。

 深く息を吸う。

 どうみてもここは死んだら向かうという場所ではない。私は生きている。

 私はリナを救えなかったのか。

 だんだんしっかりと見えてきたはずの視界がまたぼやける。アリスは涙がこめかみに流れ落ちるのを感じた。

 どれくらいの時間ここに寝かされていたのだろう。明らかに村の自分の家ではない。部屋の外を人が歩く音もする。

 上半身を捻って腕の力で体を起こそうとした。腕が震える。途中何度も寝台に落ちたが、なんとか起き上がり足をベッドから出した。腰掛けるような体勢になった時には息が上がっていた。

 天蓋を開ける。そこはとても広い部屋だった。壁も床も見た事もないほど立派な作りをしていた。部屋の隅にある大きな棚にはびっちりと本が詰まっている。大きな窓から明るい光が差し込んでいた。

 アリスはしばらくその窓を見つめた。この部屋は2階にあるのだろう。木の天辺が揺れている。たまに小さな鳥がそこに止まっては、何かを啄む様な仕草を見せた。

 あんな事があったのに鳥も木も何事もなくいつも通りの姿を見せている。そんな当たり前の事がアリスにはなんだか不思議に思えた。あの夜の出来事が幻や夢だったらどんなに良いだろう。村に帰ったら「アリスどこに行ってたの?」とリナが駆け寄って来てくれないだろうか。母さんの作った朝ごはんを皆んなで食べて、森に木の実やキノコを探しに行こう。

 アリスの目からまた涙がこぼれ落ちた。

 でもわかっている。

 廊下からカチャカチャと聞こえる音。あれは鎧の音だ。あの日の記憶が蘇る。カサンの馬に乗って部下の騎士達に囲まれて進んだ夜道。血のついたリナの靴。傷だらけのリナの体。ガムルーの群れ。聞こえてくる忌まわしい言葉。リナの命を救えるならとありったけの力を振り絞った。でも、私には出来なかったのだ。なんて無様だろう。大切な人一人救えない聖女なんてなんの意味があるの。

 廊下から話し声がした。男性の声だ。何を話しているかはわからなかったがしばらくすると去って行った。

 ここは神殿だろうか。母さんが聖女は神殿で暮らすのではないかと昔言っていた。神殿には騎士がいるのだろうか。廊下を歩く足音はいつもカチャカチャと音がしている。

 アリスは天蓋を掴んで立ちあがろうとした。足が震える。経験した事のない量の聖女の力を無理矢理使ったからか、体が全く言う事を聞かない。指を動かすのですら重く感じる。なんとか立ち上がり向かい側の壁近くにある小さなテーブルまで歩く事にする。水差しが置いてあり、それを見たとたん猛烈な喉の渇きを感じたのだ。

 一歩一歩震える足を叱咤しながら歩く。まるで掴まり立ちから次の一歩に挑戦する赤ちゃんだ。

 あと少し、という所で目測を誤った。足が絡まる。体のバランスを崩し目の前のテーブルに手をついて耐えようとするも片側の端に体重をかけられたテーブルは水差しを載せたまま倒れた。テーブルが床に転がる音と水差しが割れる音が響く。アリスもその上に転んだ。

 間髪入れずに鎧を着た騎士が2人部屋に駆け込んできた。部屋の外に見張りがいた事にアリスはその時気付いた。

「アリス様!」

 ガチャガチャと音をさせて駆け寄ってくる。

「お目覚めだったのですね!大変だ、お怪我は……」

「触るな!」

 その時ドアの外から鋭い声がした。

 アリスを助けようとしゃがもうとした鎧の騎士達が反射的に立ち上がったのがわかった。

「部屋を出ろ!ドアを閉めてアンヌを呼ぶんだ」

 ツカツカと床に横たわるアリスの元に来た声の主は「ご無礼をお許し下さい」と声をかけてきた。ネグリジェごしにアリスの膝下に腕を入れ、横抱きにして立ち上がる。この人は鎧を着ていなかった。

「寝台にお運び致します。お怪我は……」

 言いかけてアリスの方を見て息を呑んだ。転んだ際左手をついた場所に運悪く水差しの破片があった。それ程広範囲ではないが少し深く薬指の下辺りを切ってしまったらしい。手を握って右手も下から包み込むようにしているがじわじわとネグリジェに血が染みてしまっている。

「急ぎます」

 そう言うと素早くアリスを寝台に運びアリスの手を開かせた。

「ガラス片は刺さっていませんね」と言って自分の胸ポケットから白いハンカチを出した。

「これを傷口に抑えるように当てていて下さい。今すぐに医師を呼びます」

 そう言って立ち去ろうとした。

「……あの、大丈夫です。このくらいなら、治せると思います」

 アリスは掠れた声を懸命に出してそう言った。今は傷よりも気になる事がある。

「もしかして、カサン……様ですか」

 鎧を着ていない姿を見るのは初めてだから絶対の自信はない。でも、声を聞いた時からそうとしか思えなかった。

 アリスを見つめる長身の男性。騎士団長と言っていたからもっと年嵩の男性を想像していたが、思ったよりかなり若い。紺色の肩より少し長いであろう髪を後ろで一つに縛っている。空の色を思わす薄い水色の瞳。がっしりとした肩幅があるが、身長が高いせいかスラリとしている印象を受ける。

「あの……」

「申し訳ありませんが話は後で致しましょう。貴女のお力は今は使わない方が良いと思います。体への負担が大きすぎます。ともかくすぐに医師を呼んで来るのでそれで傷を抑えてお待ちになって下さい。お願いですから、御自分で何かしようとせず、我々に任せて下さい」

 そう言うと足早に部屋を出て行った。

 あまり間を開けずに部屋をノックされた。「失礼致します」と言って入って来たのは年配の小柄な女性と二人の若い女性だった。

 3人はアリスの寝台脇に片膝をつきこうべを垂れた。年配の女性が話す。

「お初にお目にかかります。アリス様のお世話をさせて頂く者です。私の事はアンヌとお呼び下さい。また左がメル、右がファリアと申します。今はアリス様の周りを早急に整えなければならない状況と拝見致しますので失礼ながらご挨拶はこの辺で、また後ほど改めさせて頂きたく存じます」

 ハキハキとそう言うとスッと立ち上がってメルとファリアに指示を出した。赤茶色の短髪のメルと長い赤毛をツインテールにしたファリア。メルの方が拳一つ分くらい背丈がありそうだが二人の顔の雰囲気はとてもよく似ていた。特に少し垂れがちな濃い緑色の瞳はそっくりだ。姉妹や従姉妹なのかもしれない。

 若い2人がアリスが割ってしまった水差しや倒れたテーブルを掃除している中、アンヌは血で染まったアリスの手の中のハンカチを綺麗な新しい布に変えてくれた。

「カサン様が今お医者様を呼ばれておいでです。お目覚めになった際世話役である我々が不在した失態、本当に申し訳ありません。お怪我までさせてしまい……」

 そう言ってまた頭を下げた。

「いえ、あの、私が勝手に転んだだけですから。良かったらお水を頂けますか」

 そう言うと「今すぐお持ち致します。果実水でよろしいですか?」と聞かれた。アリスが頷くとアンヌは素早い動きで部屋を出て行った。

 やっぱりあの人がカサンなのだわ。鎧を着ていた時とはまた印象が違うけれど。アリスはアンヌの後ろ姿を見ながらそう思った。

 アリスはカサンの空色の瞳を思い浮かべる。決して冷たい雰囲気ではないけれど意思の強さを感じた。団長と言っていたし沢山の部下がいるようだからきっと偉いのだろう。騎士の世界はアリスには全くわからない。碌に村の周りから出る事も殆どなく16年生きてきたのだから当たり前だ。以前村長からアリスの住む「丘の村」

は国の中でも南に位置し、端の端と言ってもいいくらいの辺鄙な場所にあると聞いた事がある。賜りの儀式に向かう馬車の中で母さんがガムルーの街も国の中ではそんなに大きい方ではないと言っていたのを思い出す。

 私の知っている世界なんて本当にちっぽけなんだわ。

 アリスは寝台のクッションに背と頭を預けて目を閉じた。左手の傷に少し癒しの力を動かしてみようかと試したが、すぐに頭がクラクラしてきたので止めた。カサンが言っていた通り自分で思っている以上に負担が大きいらしい。

 ドアがノックされ、カサン、中年のお腹がかなり出た男性、アンヌが同時に入ってきた。アンヌの手には新しい水差しがある。

 中年の男性がアリスの元に来て片膝をついた。

「失礼いたします。私は医師のダカと申します。先ずは傷を見せて頂けますかな?」

 アリスは「お願いします」と返事をして布を当てた左手を差し出した。

 ダカは丁寧にアリスの手を取り傷口の具合を見た。

「ふむ。幸い縫う程ではなさそうですな。ただアリス様は今かなり体力が無くなっている状態と思われます。処置を施しますので今日明日は風呂などは避けた方が良いでしょう」

 ダカは持参したカバンの中からテキパキと物を出し、傷口に不思議な匂いのする薬品をつけた布を当て包帯を巻いた。その間にアンヌが少し冷たい果実水をコップに注いでくれた。右手で受け取って有り難く頂く。口から体の中に爽やかな香りの水が染みていくとアリスは少し人心地ついた。

 カサンがダカの処置を隣で見つめている。

「よし、これで一先ず終わりました。また夕刻傷口の様子を見に伺います。それまで出来るだけゆっくりお休み下さい。何かご質問などございませんかな」

「あの、体に力が入らないのです。先程も歩くのも精一杯で。これはその、力を使い過ぎたからでしょうか」

 聖女の力とは言わなかった。今いる周りの人達がアリスの事をどう認識しているのかわからなかったからだ。

 ダカはチラリと横に立つカサンを見て、それから咳払いをしてこう言った。

「それについては私からは今はお話しできません。後ほど他の人間がアリス様にご説明すると思います。リハビリなどは追々考えて参りましょう」

 まずはゆっくり休む事ですよ。そう言ってダカは立ち上がった。

「アンヌ、アリス様のお着替えを頼む。アリス様、また後ほど参ります。その時にご体調に影響のない程度にご質問など答えさせて頂きます」

 カサンがそう言って一礼するとダカと共に部屋を出て行った。


 アンヌ達は血で汚れたネグリジェを着替えさせてくれる時、お湯で濡らした布で体や顔を拭いてくれた。

「御髪も洗って差し上げたいけれど、どうしてもアリス様の体力が奪われてしまいますから。今日はこれだけで我慢して下さいね」

 アンヌは優しい顔でそう言った。

 アリス〝様〟か……。

 アリスにとってそう呼ばれる事は違和感しかない。村では皆んな呼び捨てだったし、カサンと初めて会って名前を言った後だってそうだった。それが目覚めると皆んな様付きで当たり前の様に呼んでくる。うやうやしくアリスの世話をしてくれて、上等な寝台や衣類が与えられている。ネグリジェから新しく着替えた服も寝巻きに近いゆったりとした作りだが、細かな刺繍が施され触った事もない手触りがする。

 今は体がうまく動かず頭もあまり回らない。だから言われるがままにお世話になってしまっているが肌を見られるのは気恥ずかしさもある。体を拭かれる時、アリスの胸の間にある聖女の印をアンヌ達も見たはずだ。でも何も言わなかった。考えてみればあの夜、私は血だらけのリナを抱きしめていた。馬や鹿にしがみついて走り、服だって体だって汚れていたはずだ。誰かがそれを着替えさせて綺麗にしてくれたのだ。

「わからない事だらけ……」

 誰も居なくなった部屋でアリスは呟いた。

 後からカサンがまた来てくれるはずだ。その時に聞いてみよう。

 アリスは目を閉じた。清拭してもらった体が気持ちよくて、気付くと眠っていた。


 ドアをノックする音で目覚めた。

「はい」

 返事をするとアンヌが入ってきた。

「申し訳ありません、お眠りになられていましたか?カサン様がお越しになっています。お通しして宜しいでしょうか」

「ええもちろん」

「それであの、大事なお話しという事でお二人でお話ししたいと仰っています。もしアリス様がお嫌でしたらそうお伝え致します。どうなさりますか」

 どうも何も、私は先程カサンとすでに二人きりで話しているし、なんなら騎士もカサンもアリスの部屋に何も言わず飛び込んできた。

 アリスの疑問が顔に出ていたのだろうアンヌが苦笑いを浮かべて言った。

「今までアリス様はずっとお眠りになられていられましたので、先程は騎士達も賊が入ったのかと思ったそうでございます。カサン様も慌てられたのでしょう。お怪我もなさっていましたし。本来であればアリス様は勝手にお部屋に入った騎士達も、ドアを閉めてお二人になられたカサン様も無礼者と罰せられても良いのですよ」

「罰するなんて。私そんな風に思っていません」

 そんな考え全く頭に浮かばなかった。賊を心配して入って来てくれた騎士より、勝手に歩こうとして水差しを壊した上に怪我をして迷惑をかけたアリスの方がよっぽど怒られるべきではないか。

「私もカサン様に聞きたい事が沢山あります。ぜひお通しして下さい。ただその、ちゃんと椅子に座ってお話ししなくていいのかしら」

「アリス様は本来こうやって起きてお話ししているだけでまだお辛いはずです。それはカサン様が1番わかっておいでですわ。どうぞ寝台に楽にしていて下さい」

 これを、とアンヌが箱に入った小さなベルを渡してきた。

「アリス様がお目覚めになられたらお渡しするようにと、カサン様がご用意なさった物です」

 布のひきつめられた箱からベルを取ると、チリンと軽やかな音がした。銀製のベルにはいくつかの宝石があしらわれている。見るからに高価そうな品だ。

「何かありましたらいつでもお呼び下さい。アリス様の隣の部屋を私達お世話役が与えられました。部屋の前の廊下には騎士が警備に当たっておりますが、ベルが鳴れば私かメルかファリアが必ず最初に伺います」

 それではカサン様をお呼び致しますね。とアンヌが部屋を出た。

 アリスは手のなかのベルをみる。こんな高価そうな物を用意できるカサンとは何者なのだろう。騎士というはそんなに沢山のお金をもらっているのだろうか。

 部屋のドアがノックされる。

「どうぞ」と声をかけるとカサンが入ってきた。少し迷った素振りを見せてから「部屋のドアを閉めても宜しいでしょうか」と聞いてきた。

 アリスが了承の返事をすると、カサンはドアを閉めてアリスの寝台の横で片膝をつく。

「気になる事も多くおありだと思いますので、少しのお時間を頂きに参りました。体調が悪くなられたらすぐに」

「あの、カサン様」

 アリスは話の途中で遮った。どうもさっきから慣れない。というより、正直面倒くさい。目覚めた後のアリスはまるでアリスじゃなくなった様な扱いを受けている。アリスの中では目覚める前の一介の村娘である自分も今の自分も変わらないのに。

「カサン、と呼んで下さい」

 アリスはため息をついてカサンを見た。上質な衣類を身につけた立派な体躯に整った顔立ち。部下を引き連れて命令する立場。どこを見たってアリスに跪くべき人ではない。

「ではカサン。先ずは椅子を持ってきて座りませんか?私は寝台で申し訳ないのですが、そう膝をつかれて話されると落ち着きません。あと、できればもう少し砕けた口調で話して頂けると嬉しいのですが」

「しかし」

「お願い、私が嫌なの。本当はアンヌや他の人達にも、〝アリス様〟なんてずっと呼ばれて違和感しかないんです」

 カサンは少しアリスの顔を見て黙った後「わかりました」と言って立ち上がって寝台の隣に椅子を持ってきた。

「余り周りに人がいない時に限り、アリス様には」

「アリス、と」

 今度はカサンが苦笑いでため息をついた。

「……アリスには、少し砕けた話し方を許して頂こうと思います」

 そう言って椅子に座った。

「まず、先に今の状況を説明したいのだがいいだろうか」

「ええ。私はあの夜……リナを抱えて力を解き放ってからの記憶がありません」

「そうでしょう」

 カサンは膝に置いた手を組み合わせ、天井をみて考えるような間をとった。

「これから話す事は貴女の心の負担になりかねない。体がまだ回復していない中、今日全て受け入れるというのは厳しいし、私も酷だと思う。話しを中断したくなったらいつでもそう言って欲しい」

「わかりました」

 アリスは手の中にあるベルを軽く握り締めた。カサンはそんなアリスを見ていた。

「まずアリス、貴女がリナを抱きしめてガムルーの群れと対峙した日から今日でほぼ四つの月が経っています」

「そんなに……」

「申し訳ないが貴女のご両親には貴女の行方はわからないと言ってあります。あくまでも、偶然我々がリナを見つけた体にしました」

 父さんと母さんの事を考えて胸が痛んだ。2人は眠れない程気を病んでいるだろう。リナのお父さん、ハルトおじさんは大丈夫だろうか。奥さんを亡くし、一人娘のリナまでこんな事になってしまった。アリスの目に涙が溢れる。

「あの夜貴女が木々の中に消えてから少し経って、遠くの方から光が漏れ出しました。私達はその光を目印にその場に駆けつけた。すると岩の上に強い光を体から出す貴女とリナが横たわり、周りにいるガルムーの群れは1匹残らず死んでいる。私は貴女の名前を何度も呼んだが反応はありませんでした。リナも血だらけの状態で瀕死でしたから、部下と」

「ちょっと待って!」

 アリスは背もたれから起きてカサンの方に体を向けようとした。急激な動きに頭がクラついて上半身がそのまま横に倒れそうになる。素早くカサンが手を伸ばして支えてくれた。

 アリスはそのカサンの二の腕を握って彼の顔を見つめて聞いた。声が震える。

「瀕死?リナは息はしていかなった。リナは、リナは私が来た時にはもう亡くなっていたのよ!本当に?本当にリナは生きていたの?」

「アリス、落ち着いて。顔が真っ青だ」

「教えて!リナは今どうなっているの?どこにいるの?」

「リナは今アンネラという街の病院にいます。リナの父親と一緒に。彼女は今だに意識が戻らないが、生きています」

「ああ……」

 アリスは顔を両手で覆って寝台に倒れ込んだ。

「なんてこと。リナが……リナが生きてる」

 そのまましばらく溢れる涙を止める事は出来なかった。

 カサンがハンカチをリナに渡してくれた。本日二枚目だ。申し訳なさと安堵と嬉しさてアリスはハンカチを目に当てたまま泣きながら笑った。リナが生きている。生きている!

 そんなアリスを何も言わずに見ていたカサンだが、ふと口を開いた。

「アリス。貴女が駆けつけた時にはリナは息をしていなかったと言いましたね。貴女はリナを助けようと聖女の力を使った。そうではないですか?」

「そうよ。リナが助かるなら、私の全てを差し出すつもりだった」

 顔を押さえながらアリスはか細い声で言った。

「でも、私は生き残ってしまったから。リナを助ける事は出来なかったんだと……」

「なるほど。貴女はその力をガムルーの群れに襲われた近くの村にも使いましたか?」

 一瞬なんの事かわからずにアリスは顔から手を外してカサンを見た。

「リナが襲われる2日前の夜に、貴女の村の近くの村が群れに襲われ、大きな被害を受けました。しかしその次の日の夜、突然軽傷者の傷は何も無かったかのように無くなり、持って数日と言われた重症者は自分で歩き物を食べられるくらいまで回復しました。一気にです。私はガルムーに襲われた人間を沢山見てきましたが、未だかつてそんな事が起きた事は無かった。アリス、貴女の力だったのではないですか?」

「……確かに、隣の村が襲われて村人や若い女の子達がたくさん怪我を負ったと聞いて、夜こっそり祈ったわ。傷が回復しますようにって」

 その言葉を聞いてカサンは「そういう事だったのか」と呟いた。

「ガムルーの傷は重症である程回復は難しい。どうして彼等にそんな奇跡が起きたのか、ずっと分からなかったのです」

 カサンはため息をついて前髪を掻き上げた。

「聖女の力とは、凄いものだな」

 ポツと呟いた一言に、アリスの胸にはなんとも言えないどす黒い気持ちが湧き上がった。一匹のガムルーから出た言葉が蘇る。

 お前のせいで多くの人間が死んだぞ

 もっと早く名乗り出て素直に殺されていれば、その子供も獣に襲われる事は無かった

 我々はお前を炙り出すために、獣を操り国中の若い女を殺していく事にした

「元を正せば、聖女なんているからこんな事が起きたのよ」

「アリス?」

「聖女なんていない方が多くの人が怪我をしたり死なずに済んだ。私が早々に名乗り出て殺されていればリナだって酷い怪我をしたりしなかった。どうして聖女なんているの」

「400年もいなかったんでしょう?だったらそれでいいじゃない。なりたいとも思っていない田舎の村娘に、どうして神様はそんなもの押し付けたの!?12歳になったばかりの子に一方的にそんな力を与えて!」

「アリス!」

 カサンがアリスの手の上に自分の手を重ねた。

「落ち着いて。私の言った言葉で気を害したのなら謝ります。だから一度ゆっくり深呼吸をして」

 気づけばアリスの呼吸は荒く乱れていた。

 アリスは目を瞑ってゆっくりと息を吸った。

「そうだ。そのままゆっくり。大丈夫」

 自分の手に重ねられたカサンの手から優しい温かさが伝わる。

「アリス。貴女まだ知らない事が沢山ある。焦ってはいけません」

「今まで逃げて来たの。聖女だと言って両親やリナのいる村から離れたくなくて。あの夜、ガムルーの一匹が私に話しかけきた。そして言われたわ。私のせいで多くの人間が死んだと。聖女である事を隠す私を見つけるために国中の若い女性を殺していく事にしたって」

「ガムルーが話しかけてきた?」

「そうよ。はっきりと人間の言葉を話したわ」

「……アリス。それはガムルーを操る奴らの声です。耳をかしてはいけない」

「でも、そうなんでしょう?私が聖女としてちゃんと名乗り出て奴らに殺されるなりされておけば、奴らは私を探し出す為に沢山の人を殺すような真似はしなかった」

「違う!」

 カサンがアリスに向けて初めて放つ大きな声に、アリスの体はビクリと震えた。

「すまない」

 カサンは謝るとアリスの手を一度優しく撫でてから重ねていた手を離した。

「貴女は勘違いをしている。奴らはもっと大勢の。国を滅ぼすほど大勢の人間を殺すために、邪魔になる貴女を血眼で探しているんだ。もし貴女がすでに殺されていたら、私も、私の部下達も、その他沢山の人間が絶対に死からは逃れられなくなる」

 アリスが驚いてカサンの顔を見ると、彼は真面目な顔でアリスの目を見ていた。

「アリス、貴女が聖女である事を隠したのは結果的にこの国を救ったと言っていいのです」

「意味がわからないわ」

「……この国を滅ぼそうと企んでいるのは国の外からだけではなく中にも入り込んでいます。正しく言えば、国の外から暗黒の力を使い、国の中の人間を乗っ取ってしまう」

 そこでカサンは一呼吸置いた。

「私は王から命じられ、数年前から聖女を探していました。騎士団が聖女を探しているのは知っていましたか?」

「ええ、噂で聞いたわ。あちこちの街や村を騎士が訪ねているって。王様が「聖女が現れた」という神様の声を聞いたから」

「それが神の声だと、どうして思いましたか」

「え、だって。王様の頭の中に話しかけられるなんて」

「神しかいないと、断言できますか」

「……もしかして」

「王はその時すでに奴らに取り憑かれていました」

 アリスは両腕の毛が逆立つのを感じた。

「私が聖女を探し始めると、たまにいるのです。自らが聖女だと言い張る若い娘が。明らかに親に言わされているような娘もいました。ですが、そうである事も違う事も私達騎士には証明できない。王はそういう娘を王宮に招き、聖女の力が発現するかどうか見ると仰いました。命じられた通りそういう娘がいた場合両親にはまとまった金銭を渡し私達は娘を王宮に連れて行きました」

「その娘達は……」

「全員秘密裏に殺されていました。王がそれでも私に聖女探しを止めさせないのは、きっと声が聞こえるのでしょう。まだ聖女は存在するぞ、と」

「そんな……」

「それを知った私は、信用のおける部下と相談して聖女探しをしているフリをする事にしました。まだ訪ねていない街や村にはできるだけ行かないようにしたのです」

 しかし、とカサンは続けた。

「ある時からガムルーの群れが街や村を襲うようになりました。中でも若い娘が執拗に狙われるのです。私はその群れを追う事に決め、もし可能なら聖女を保護したいと考えました。そして保護できたとしてその後どうすれば王や操られている人間を正気に戻す事ができるのか。どうすれば国を滅ぼそうとしてくる奴らを倒せるのか。国中に散らばる部下とともに情報を集めていたのです」

「……その方法は、見つかったの?」

 カサンは一瞬黙り、息を吐いてアリスの顔から目線を逸らした。

「カサン。教えて。私はどうすればいいの。私が何かすれば国は滅びなくて済むの?王様は元に戻るの?」

「貴女は聖女になるのが嫌だったのでは?」

「そうよ。そんなものになりたくなかった。でも今よりもっともっと人が殺されて、国が滅びるかも知れないんでしょう?私の育った村だって滅びるかもしれない。それなら逃げてたって意味がない。私は、リナが死んで自分だけ生き延びたんだと思った時、なんて無様な聖女なんだろうと思ったの。自分の大切な人一人救えない力なんてあったって意味がないじゃないって。でももし、まだ愛する人達に危険が迫っていて、私が何かする事でそれを止める事ができるなら私は迷わずこの力を使うわ」

 カサンは少し驚いたようにアリスを見た。

「……貴女は今、歳はいくつになる?」

「16よ。賜りの儀式から4年経ったの」

「そうか。その若さで自分の命に変えても友を救おうとし、次は国を救おうとするか」

 アリスは少し笑った。

「大袈裟よ。必要に迫られたからその場その場でできる事をしようとしているだけ。もし何も起きないのなら、私はずっと村で変わらない暮らしを送っていたわ」

 アリスはふと気になり、カサンにも歳を聞いてみた。カサンは以外な事を聞かれたような顔をした。

「あら、女性に歳を聞いて自分は答えないつもり?」

 そうアリスが言うと、カサンは苦笑いをした。

「そうだな。これは失礼をしました。私は27歳です。無神経な質問をしてしまい申し訳ない」

 アリスはクスクス笑った。

「騎士団長だと聞いたから、勝手にうちの父さんより少し若いくらいの方を想像していたの。私も失礼をしました」


 カサンから今日はこの辺で休みましょうと言われ、アリスはまだ話したかったが確かにかなり疲れていた。

「どの道貴女の体力が回復するまで動けません。相手が本格的に動き出すまでには多分まだ少し猶予があります」

「猶予?」

「それについても追々話させて下さい。この館は私の叔父が残したもので王も存在を知らない場所です。貴女が目覚めない間に、信用できる部下が30人ほど集まりました。館の周りの警護も安心してほしい。先ずはしっかり休んで食べて、少しづつ体力を回復させていきましょう」

「また明日伺います。体調が良ければダカ医師に相談の上歩く練習にお付き合いします」そう言って椅子から立ち上がろうとした時、ふとカサンが動きを止めた。手を伸ばして一瞬アリスの頬にカサンの指先が触れそうになる。アリスがキョトンとしていると、カサンはハッとした様に手を引いた。立ち上がり「失礼」とアリスに言うと椅子を片付け足早に部屋を出て行った。


 その後ダカが訪ねて来てアリスの傷の具合を確認した。

「血も止まっていますし、このまま安静にしていれば自然に塞がるでしょう。もし万一夜中に熱など出て来たらすぐに私を呼んで下さい」

 隣にいるアンヌにも聞かせるように言ってダカは帰って行った。

「ミルク粥を作らせました。召し上がってみませんか?」

「ありがとう。せっかくだから少し頂こうかしら」

 アンヌはアリスが寝台のまま食べれるようにセッティングしてくれた。

 ファリアが運んできてくれたミルク粥は、ほんのり甘くて優しい味がした。

 美味しいと言うと、ファリアが顔を赤くして「あの、私が作りました。お料理好きなんです。その、アリス様に召し上がって頂いて光栄です!」と初めて口を開いて話してくれた。

 アンヌがクスクス笑いながら「ファリアもメルも、ずっとアリス様のお美しさに圧倒されているんですよ。アリス様に何かお運びする際など、二人で役目の取り合いになるんです」と言った。

「でも!お料理はメルは下手なんです。だから、しばらくお粥などは私がお作りしてお運びできます。だから、何かご希望がございましたら、あの、味とか、硬さとか、あの、なんでも」

 ファリアは更にどんどん赤くなり、ついには下を向いてしまった。

 アリスが笑いながら「ありがとう。何か食べたいものができたら真っ先にファリアにお願いするわね」と言うと、ファリアは真っ赤な顔で嬉しそうに「はい!」と元気よく返事をしてくれた。


 カサンが用意してくれたという銀のベルを寝台のサイドテーブルに置いた。室内は壁に備え付けられた燭台に一本だけ蝋燭が灯り、白い天蓋にゆらゆらとその揺らめきが映っている。

 アリスは今日一日の事を考えた。

 色々な事がありすぎてまとまらない。目覚めてから、アリスの周りの状況は今までの人生と一変してしまった。隠してきた聖女の力は多くの人に知られた。知らないうちに自分の近くに危険は絶えずあった事を知った。ずっと続くと思っていた村での生活。今アリスは以前は恐れていた騎士の元にいる。これからどうなるのか、考えれば考えるほど不安が込み上げる。

 でも、死んでしまったと思っていたリナが生きている。今はただ、その事実だけで目頭が熱くなり心に明るい光が射す。またあの子の笑顔を見れる日がいつか来るのかもしれない。そう考えるだけで力が湧く気がした。

 アリスはそっと自分の頬に手を触れた。

 カサンが伸ばした手。もう少しで触れそうだった。アリスの手に優しく重ねてくれた大きくて温かい手。

 彼の空色の瞳に、私はどんな風に映っているのだろう。何故だかそんな事を考えた。

 窓の外からさわさわと木の葉が風に揺られる音がする。

 アリスは瞼を閉じた。

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る