第2話

 木々の間から木漏れ日がキラキラと降り注ぐ。大きな鹿がじっとアリスを見つめていた。アリスは心の中で鹿に話しかける。

『おいで。美味しい木の実があるよ』

 鹿は少しの間鼻を鳴らしてアリスを見ていたが、そのうちゆっくりとこちらに歩き出した。

 アリスは手に持っていた袋の中から片手で木の実を掴み出した。それを手を伸ばして鹿の方に差し出す。

 鹿は迷いもなくアリスの手から直接木の実を食べ出した。手のひらに当たる鹿の舌の感触がくすぐったい。

『もうすぐファミルがここに狩りをしにくるから違う場所に行きなさい。仲間にも教えてあげて。見つからないようにね』

 そう心で語りかけると、鹿はピクンと耳を動かし顔を上げた。そのままクルリと後ろを向くと颯爽と走り出した。

「またね」

 アリスは鹿の後ろ姿に向けてそう声をかけた。

 そのまま辺りのキノコや木の実を見つけては袋に入れていく。今日は甘酸っぱいキャランの実が沢山とれたから、家に帰ったらこれでジャムを作ろう。母さんはキャランのジャムが大好きだからきっと喜んでくれるはず。

 アリスがそんな事を考えていると、小枝がパキパキ折れる音がして弓を持ったファミルが木々の間から現れた。

「アリスじゃないか。音がしたから鹿かと思ったぞ」

「あら。弓で射られなくて良かったわ」

 ファミルはアリスの持っている膨らんだ袋を見た。

「沢山採れたみたいだな」

「そうね。今年はキャランの実が豊作ね。あちこちに採りきれないくらいなってる」

「いいな。あれ干しても美味い」

「ファミルも狩りなんてやめてこうやって木の実やキノコを集めたら?」

 アリスの言葉にファミルは鼻で笑った。

「そんな女子供でもできる事をオレがするかよ。オレは弓一つでデカイのを仕留めたいんだ」

「でもしばらく何も獲れてないんじゃない?ファミルのおじさんが手ぶらで帰ってくる狩りより、家の畑をもっと手伝ってほしいって嘆いてたわよ」

 チッとファミルは舌打ちをした。

「変なんだよ。最近全くダメなんだ。オレはまたデカイ鹿を仕留めて皆んなの鼻をあかしてやりたいのに。オレの腕うんぬんじゃなくて、鹿自体全然見かけない」

 アリスは袋の紐を縛り直して「私は見かけるわよ。じゃあそろそろ帰らなきゃ」とファミルに背を向けた。

 すると後ろから腕を掴まれた。

「待てよ。この前言った、アレ、考えてくれた?」

「断ったじゃない」

 アリスはファミルの腕を引き剥がし、今度こそ早足でその場を去った。後ろから「オレは諦めないぞ!」というファミルの声が聞こえてきた。

「何度言われたって願い下げ」

 アリスはため息をついて呟いた。

 アリスは16歳になった。身長は母さんを抜き、スラッとした両手足に見事に成長した胸の膨らみが大人の女性らしさを醸し出している。ウェーブのかかった金髪は腰近くまで伸びた。いつも後ろで一つにまとめて縛っている。日に当たってもあまり焼けない白い素肌はきめ細かく若々しい張りがある。金色のまつ毛に彩られたブラウンの大きな瞳は知性的な輝きを放っていた。

 一年くらい前から村の男の子によく告白されるようになった。全て断っているが、1番しつこいのが2歳上のファミルだ。自分の顔がいいと自負があるファミルは自尊心が強い。何度断っても、まるでそんな事なかったかのように付き合えだの結婚しようだの言ってくる。アリスはファミルがあまり好きではない。狩りだって生きていくために動物を狩るのは立派な仕事だ。でもファミルの場合自分がどれだけ大きな獲物を獲って村の仲間に自慢できるかしか考えていない。この前小さなウサギを獲ってきた自分の父親を陰で馬鹿にしているのを聞いた。

「友達にもなりたくないタイプ」アリスはリナにそう話している。


「ただいま」

 家に帰ると父さんと母さんがテーブルに座って何か話していた。食事時以外の昼間に父さんが家の中にいるのは珍しい。

 母さんが顔をあげて明らかにホッとしたような顔をした。

「良かった。今お父さん森にあなたを探しに行くって言ってたの」

「何かあったの?」

 手に持っていた袋を台所に置いてアリスは2人を見た。

 父さんはため息をついて自分の頭を乱暴にかいた。

「隣の村がガムルーの群れに襲われたらしい。ついさっき知らせが届いた」

「えっ。ガムルーは群れないわよね?そんなの聞いた事ない」

「ああ。ただ数年前からそういう噂はあったんだ。被害にあったのはこの村からは遠い場所ばかりだったからあまり気にしてはいなかった。それがいきなり昨日の夕刻隣の村に現れたらしい」

「沢山襲われたの……?」

 考えるだけで恐ろしい。あの赤い目と鋭い牙を思い出す。まだ生きているガムルーを見た事は無いけれど、村の中を群れになって動く姿を想像しただけで背中がゾワッとした。

「それがおかしいのよ。手当たり次第に襲うだけじゃなくて、あなたくらいの歳の女の子を執拗に狙って襲うんですって。隣の村も襲われたのは若い女の子が多いの。可哀想に、2人亡くなって数人の子が今晩もつかどうかって状態みたい。ねぇ、しばらく森には行かないで。隣の村とはそこそこ離れているけれど、獣の足ならもうこの辺にいてもおかしくないわ」

「そうだな。安全が確認できるまで暗くなる前には家の中にいるんだ。もちろん明るくても村の外に出てはいけない。ドアや窓にも板を打って補強しておこう」

「それはいいけど……ハンターは来るの?」

 ガムルーが出た時はいつも街から専門のハンターに来てもらい駆除している。

「いや、今回は首都から騎士が来ているらしい。何かの任務で近くまで来ていたらしいんだ」

 騎士。噂には聞いた事がある。4年前、王がある夜「聖女が現れた」と頭の中に声を聞いた。それ以来国の騎士達が色々な街や村を訪ねて聖女を探していると噂が流れた。ちょうどアリスも賜りの儀式を受けた頃だったから、周りから「アリスなんじゃないの?」と冗談半分で揶揄われた。「そんな訳ないじゃない。私が聖女様だったらすごい事沢山して皆んなをビックリさせてるわよ」と笑って誤魔化したが、いつアリスの村に騎士が来るかしばらくビクビクしていた。でも今に至るまで騎士がアリスの村にやって来た事はない。

「騎士か……」

「アリスどうしたの?騎士様でもガムルーの群れを退治できるか不安?」

「ううん。もう誰も怪我をせずに群れがいなくなればいいなって」

「そうねぇ。今夜はうちの村も夜通しで外に火を炊くみたいよ。父さんも見張りの手伝いに行くって。母さんは村長の家で他の女性達と獣よけの匂い袋を作りに行く事になっているの。アリスは絶対に家から出ちゃダメよ」

「うんわかった」

アリスはある事を考えながら微笑んだ。


 夜、晩御飯を食べると母さんはまた作業をしに村長の家に出かけた。父さんは男性達と村の柵を補強しに出ている。

 アリスは寝室のドアを閉めると寝台の上に座った。目を瞑って集中する。胸のあたりを触るとじんわりと熱を持っていた。きっと光りだしているはずだ。

 まだ。まだ足りない。隣の村の方向を意識しながら集中する。薄く目を開けると、部屋全体がアリスの胸の模様から放たれる光で眩しいほどになっていた。

 よし。飛んでいけ!アリスは貯めた光を一気に放った。胸の光は一気に小さくなり、今は服の上からぼんやりと確認できる程度だ。アリスは大きく息を吐いた。

 成功するだろうか。

 自分が傷を治せるとわかったのは賜りの儀式から数ヶ月経った頃だ。森で怪我をした鹿をみつけた。お尻の辺りに矢が刺さっている。多分村の誰かが射た矢が当たったものの、そのまま逃げてきたのだろう。地面に横たわり鼻をヒクヒクさせている鹿を見てどうしてもほっとけなかった。このままでは長い時間痛い思いをして死んでしまうのかもしれない。

 アリスは心の中で『怖がらないで』と話しかけながらゆっくり鹿に近づいた。動物に自分の気持ちが伝わっているのかもと思いだしたのもこの頃で、ロンおじさん家の前にある小さな木に繋がれているラディ坊で試したら確信に変わった。ラディ坊はアリスがお願いした通りに羽を開いたり閉じたり甲高い鳴き声をあげたのだ。

 横たわる鹿は首を持ち上げてアリスの方を見たがそれ以上動かなかった。

 アリスは鹿の背を撫でると「ごめんね。痛いと思う」と呟いてお尻に刺さった矢を引き抜いた。鹿は一瞬ビクンと体を震わせた。すぐにアリスは胸に手を当てて祈った。

 傷よ治れ。治って。お願い、治って。

 だんだん自分の服の中から光が漏れ出していく。アリスはひたすらに鹿の背中を撫でながら祈った。すると、アリスから放たれた光が鹿の傷にほわほわ流れ始めた。やった!できそう。アリスは嬉しくなってまた祈りを続けた。すると傷口から流れていた血が止まり、最後は綺麗に塞がった。鹿は持ち上げた頭をブルブルと振って、元気に立ち上がった。

「すごい!私、本当にできた!」

 アリスは思わず歓声をあげた。これが聖女の力なのね。他にどんな事ができるんだろう。

 鹿は数歩前に歩いたあと、振り返ってアリスを見た。黒い優しい瞳がまるでありがとうと言ってくれている様に感じた。

「良かったね。私も嬉しい」

 アリスの言葉に返事をするかのように前脚を何度か踏み鳴らした鹿は、元気に森の奥に走って行った。

 それからアリスは人気のない森や両親が寝静まった夜中の自分の部屋で、自分に何ができるか少しずつ試すようになった。

 賜りの儀式から4年。少しずつ祈りの力は強くなり、アリスも使い方を覚えていった。村の誰かが寝込んでいると聞けばこっそり回復を祈った。すると次の日には元気になって不思議そうに「一晩寝たらすっきり治っちまった」と首を傾げていたりする。アリスは大好きな村の人の役にたっているのが嬉しかった。

 別に聖女として国の人々に有り難がられたい訳じゃない。この4年間、アリスは色々と考えた。聖女に選ばれた事は母さんにも父さんにも、妹みたいな存在のリナにも話していない。決して人前で力を使おうとはしなかった。私はこの村で今まで通り暮らしたい。どうして自分が選ばれたかわからないけれど、400年も新しい聖女が国にいなくても問題はなかったのだもの。それともせっかく選んで頂いたのにこんなんじゃ神様から罰をもらうかしら。でもこの4年間アリスの身には何もそれらしい事は起きていない。

 きっと神様は気まぐれでたまたま私を選んでみたのだわ。だったら、私もあまり重くとらえないでこのまま村でひっそり暮らしていこう。この力でたまに周りの人を助けてあげられたらそれで満足だわ。

 16歳になったアリスが出した結論だった。

 でも、隣の村で多くの村人や同い年くらいの女の子達が襲われたのはショックだった。どんなに痛くて怖かっただろう。アリスの力が果たして村からどのくらい離れた場所にも使えるのかわからなかったが、試してみたくなった。こっそり1人で試せば誰にもわからない。少しでも被害にあった人達の傷が良くなるのなら試してみる価値はあると思った。

 どうかこの力が怪我をした人達に届きますように。

 胸の光か完全に消えるまで待ってアリスは布団に入った。昼間に母さんが外で干してくれたのだろう、お日様の匂いがする。

 アリスはうつらうつらと夢の世界に入っていった。

 

 次の日朝ごはんを食べて父さんと母さんが外に出ると、アリスは昨日とってきたキャランの実でジャムを作る事にした。本当は昨日のうちに作りたかったがガムルーの件でそれどころではなくなってしまった。

 キャランの実は赤紫色で、一粒はアリスの親指の爪くらいだ。それを全てザルに入れて潰さないように丁寧に洗ってゆく。何度か繰り返すうちに浮かんでくる細かいゴミも無くなるのでそれを鍋に入れて焦がさないように混ぜながら小さな火でコトコト煮る。その頃には家の中がキャランの香りでいっぱいになった。

「んー。いい香り」

 アリスは深呼吸して胸いっぱいにその爽やかな香りを吸い込んだ。だんだん水分が出てくると火を強める。後は丁寧にアクを取ったら砂糖を加えてまた煮詰めていくのだ。

「長く楽しみたいからお砂糖は多めにいれようかな。うーん、でも父さんはあんまり甘いのよりちょっと酸味がある方が好きだし」

 アリスがブツブツ呟いていると家のドアがリズム良くノックされた。その音だけでリナだとわかる。

「開けて入って!」

 アリスはドアに向けて大きな声で言った。今手を止めるとせっかくのジャムが焦げて台無しになってしまう。

「やっほー!キャランのジャムね!アリスの家の前に来ただけで香りですぐわかったよ」

「そうなの。今年は豊作だから沢山ジャムにして楽しもうと思って。もちろんリナの家の分もあるからね」

「やった!」

 リナは手を叩いて嬉しそうに鍋の中を覗き込んだ。

「これからお砂糖入れるとこ?混ぜるの代わろうか」

「ありがとう。じゃあちょっとだけ交代して貰おうかな。そうだ、リナは甘みが強いのと甘さ控えめで酸味がある方どちらが好き?」

 ジャムをかき混ぜながらリナは少し考えて「私は紅茶とかにも入れたいから甘いの好きだけど、父さんは控えめが好きかなあ」と言った。

「わかる、うちも一緒。じゃあ作った人の好み優先って事で、ちょっと甘さ強めにしちゃおうか」

 アリスとリナは顔を見合わせて笑いあった。

「リナまた背伸びたんじゃない?」

 鍋に砂糖を入れながらアリスはリナに言った。

「そうかな。確かに最近よく関節とか痛くて。それを父さんに言ったら身長が急に伸びてるせいだって言ってた」

「私もそういう時期あったよ。リナより少し早かったけど」

「アリスは私くらいの時にはちょっと歳上の男の子達より身長高かったもんね」

「今はもう全員に抜かされちゃったけどね」

 他愛もない話しをしているうちに鍋の中のジャムから順調に水分が抜けていき、キャランの爽やかな香りに砂糖の甘さも加わって早く味見がしたくなる。

 アリスは横に立つリナを見た。リナは先日13歳になり、去年賜りの儀式も終えた。リナのお母さんはもう亡くなってしまっているから、アリスの母さんがリナのために作った儀式用の白いワンピースは彼女にとても似合っていた。アリスの肩ほどまでの身長。華奢な体はまだ大人の女性ではないけれど、可愛らしさと美しさが共存していた。瞳の色はアリスよりも薄い黄色がかったブラウンでアリスよりよっぽど聖女様のイメージに近いのではないかと思う。昔みたいに一緒のベッドで寝る事はもう滅多にないけれど、アリスにとってリナは今でも可愛い妹の様な大切な存在だ。

「リナ、ハルトおじさんからあまり外に出るなって言われてるでしょ」

「うん。隣の村で酷い事が起きて、何人も大怪我をしたって。亡くなった人もいるんでしょう」

「大丈夫?心細かったらしばらくうちで寝泊まりしていいのよ」

「ありがとう」

 リナはそれだけ言うと少し黙った。何かを考えるようにアリスの混ぜる鍋の中をじっと見ている。

「リナ?本当に遠慮しなくていいんだからね」

「うん。あのね、お願いがあるの。アリスがお庭で育てているお花少しもらってもいいかな」

 意外なお願いにアリスは少し驚いた。花好きのアリスは、家の横にある庭と言えるかどうかもわからない程の小さな場所で数種類の花を育てている。今までリナがその花を欲しがった事は無かった。森や丘にいけばいくらでも綺麗な花が咲いているし、リナは花よりも鳥や動物を見るのが大好きだったからだ。

「もちろんいいけど、リナがそんな事言うなんて珍しいわね」

「うん。ほら、今は村の外に行けないでしょ?だから、せめて家の中にお花でも飾って癒されたいなって」

 リナはアリスの顔を見てエヘヘと笑った。

「私も今度お花の育て方アリスから教えて貰おうかな。家の周りにお花が咲いていたら父さんも喜ぶんじゃないかな。父さん意外と可愛いものとか好きだし」

「ハルトおじさん、手先が器用だから趣味の木彫りで動物の置物とか作っちゃうものね」

「そうそう。たまに夜に厳しい顔でリスとか小鳥とか黙々と彫ってるんだよ。なんか笑っちゃうの」

 アリスにもその光景がありありと浮かんできて思わず笑ってしまう。

 鍋の中のジャムを見るとちょうど良い頃合いになっていた。

 火を消してエプロンを外す。

「じゃあ、ジャムが冷めるまで待たなきゃいけないし、さっそくお花選びに行く?」

「うん。ありがとうアリス!」

 リナは嬉しそうに頷いた。

 結局その後リナは庭から気に入った花をいくつか持って家に帰って行った。

 真剣に選んでいたから、本当に花を飾りたくてしょうがなかったみたいだ。花くらいいつだってあげるのに。

「ジャムが冷めて瓶に詰めたら渡しに行くね」

 別れ際アリスがそう言うと

「ありがとう。でも明日また私が貰いに来ていい?ゆっくりお喋りできるの楽しかったし。今日はこれからアリスが前に貸してくれた本をゆっくり読もうかなって。村の外に出れないんだもん。いいチャンスでしょ?」

 リナはまた意外な返事をした。本をゆっくり読むだなんてリナの口から初めて聞いた。ちょうどその本はアリスが賜りの儀式の日街で買ってもらった物だ。貸した時でさえ、表紙の絵が可愛いらしいからしばらく自分の部屋に飾りたいなどと言っていたのだ。

「リナ、なんか変よ?リナが真剣に本を読んでる姿なんて想像できない」

 アリスがクスクス笑ってそう言うと、リナは頬を膨らませて「そんな事ないよ!まぁ、たまにはそういう気分にもなるの!」と怒ったような顔をした。でもすぐに笑いだす。

「アリスと本の話しをするのも新鮮じゃない?じゃあまた明日遊びに行くね」

 そう言って家に入っていった。


 その日の夕方母さんと晩ご飯支度をし始めていた時だった。リナのお父さんのハルトおじさんが血相を変えてアリスの家に飛び込んで来た。

「リナが家にいないんだ!家の中も蝋燭一本灯されていない。どこに行ったか知らないかい」

「午前中うちに来てお昼頃帰ったわ。うちの玄関の前で別れて、リナが家に入って行くところも見たのよ」

 アリスも青くなって答えた。

「じゃあなんで家に居ないんだ!」

 ハルトおじさんは大きな声でそう言って両手で頭を抱えた。

 いつも寡黙なおじさんのこんな姿は初めてだった。

「ハルト落ち着いて。リナは今日誰かと何か約束したりしてなかったかい?どこかの家に遊びに行くとか」

 父さんがハルトおじさんの肩に手を乗せてそう言うと、その手を振り払って「落ち着いてなんかいられない!いられるはずないだろう!」と父さんに叫んだ。

「昨日隣の村が襲われたばかりなんだぞ!リナには夕方になる前には必ず家に居るよう言ってあったんだ。なのに家の中は真っ暗で、スープを温めた跡もない」

「村の家を回ってくる!」とおじさんがドアを出ようとした時、父さんが「まてハルト!それなら時間がかかる。今は万一の事もある、鐘を鳴らそう」と言った。

 鐘は村の中心にある広場にある。滅多に鳴らされた事はなく、アリスはまだ小さな時に一度だけ聞いた。その時は火事が起こって3軒の家が焼けてしまったのだ。子供達にも絶対に鐘には触ってはいけないと教えられている。イタズラで鳴らしてしまったら、もうこの村には住んではいけなくなるのよ、とアリスも母さんから何度も口を酸っぱくして言われた。

 ハルトおじさんは一緒ハッとした顔で父さんを見た後「そうだな、鐘を鳴らす」一度頷いてドアから飛び出して行った。

「いいか、母さんとアリスは絶対に家から出るな。父さんが帰ってくるまで絶対にだ」

 そう言って父さんもハルトおじさんの後を追いかけて行った。

 アリスは自分の指先から急に温度がなくなっていくのを感じた。リナが居ない。ついさっき話したのに。家に入って行くのも見たのに。リナはなんと言っていた?そうだ、珍しくゆっくり本を読むと言っていた。どこかの家に遊びに行くなんて言っていなかった。

 グルグルとリナとの会話を思い出す中、鐘の音が村中に響いた。金属と金属をぶつけ合う大きな音が何度も聞こえる。玄関のドアが勢いよく開かれ反動で家の外壁に当たる音があちらこちらから聞こえる。

「アリス、座りましょう」

 母さんに背中をさすられて、アリスは自分の足が震えてる事に気付いた。

「どうしよう。リナはどこに行ったの。本当に昼間会った時は何も言っていなかった。私が貸した本を家で読むって帰ってったの」

「大丈夫よ。なんとなく気が向いてお友達の家に遊びに行って、うっかり寝ちゃったのかもしれない。どこかの家の納屋で動物と遊んでいたら夢中になって時間を忘れてしまったりね。リナちゃんだって、まだまだ子供だもの」

「リナはそこまでもう子供じゃないわ」

「母さんからするとアリスだってまだまだ子供よ。ともかく、鐘が鳴らされたのだから今事情を聞いた大人達が村の中を隅々まで探すはずよ」

 母さんはテーブルに肘をついて頭を埋めるアリスの背中を優しく撫でつづけた。

 外を走る人の足音。緊張した声で言葉を交わす大人達や、次第にリナー!リナちゃーん!と呼ぶ声も増えていった。

 時が経つのがこんなにも遅い事は今まで一度も無かった。アリスはひたすらにリナ、リナと心の中で呼びかけた。でも返事はない。

 金色の真っ直ぐでサラサラした長い髪。アリス、と親しげに呼んでくる可愛いリナの笑顔。ついさっき、私の隣で楽しそうに笑っていたのに。庭からお花を摘んで嬉しそうだったじゃない。お家に飾って癒されるんだって。

 お花を……

 珍しくリナはお花が欲しいって……

「母さん!今日って初春の月よね?何日!?」

「え、今日?今日は、17日ね。初春の月の17日」

 それを聞いたアリスは家を飛び出した。後ろから母さんの声が聞こえるが止まらない。アリスは隣にあるリナの家に勝手に入った。荒い息で室内を見回す。

「うそ。うそ、リナ!!」

 そのままドアを出て広場に向けて走った。村にこんなに人がいたのかというくらい沢山の人が家から出てリナを探していた。広場には父さんが数人の男の人達と何か話していた。ハルトおじさんは鐘の下にある階段で頭を抱えて座っている。

「父さん!」

「アリス!家から出るなと言っただろう!」

「リナの行こうとした場所がわかったの!間違いないと思う」

 それを聞いたハルトおじさんが勢いよく立ち上がった。

「おじさん、今日は初春の17日よ!リナのママのお誕生日!昼間リナから花がほしいと言われたの。家に飾りたいって。でも今おじさんの家を見てきたけど、花なんて飾られてない!リナはお母さんのお墓に花をあげに行ったんだわ!」

 ハルトおじさんは呆気にとられたように立ちすくんでいる。

「リナは心配させたくなくてこっそり家を出たのよ。多分ハルトおじさんが家に帰ってくる前に、リナも帰って来ようと思ってたはずよ。こんなに遅くなるつもりなんて絶対無かったと思う。何かあったのよ!お願い、リナを探しに行って!私も行く!」

 そう言うとアリスは走りだした。

 後ろから「アリス待ちなさい!誰かその子を止めてくれ!」という声がしたが、アリスには関係無かった。走りながら右手を胸に当てる。すぐにアリスの胸元から眩しい光が溢れだした。それをみた村人達が慄いたように後退りする。

「来て!」とアリスが空に向かって叫ぶ。

 村から出たちょうどその時に一頭の立派な馬がどこからか駆けつけてきた。

 アリスが速度を落とした馬の首にしがみつくと、馬はブルン!と首を大きく回してアリスを背中に引き上げた。そのまままたスピードを上げて走り続ける。何も言わなくても馬はアリスの行きたい場所がわかっている。アリスは激しく揺れる馬の背の上で必死に首にしがみついて落ちないように耐えた。

 リナ、リナ、リナ!気付いてあげられなかった。リナのお母さんのお誕生日に2人で大人には内緒で何度もお墓参りしたのに。子供には遠い距離を色々な事をお喋りしながら手を繋いで歩いたのに。リナは帰り道よく疲れて泣いたからそんな時は私がおんぶした。リナ、どうして言ってくれなかったの。きっと最初は止めたかも知れない。でも、リナに1人で行かせるくらいなら私は絶対付いて行ったよ。リナ、今泣いてない?痛い思いはしていない?お願いだから無事でいて。

 馬の足だと目的の場所にはすぐに着いた。もうかなり暗い。月も隠れている今はアリスの胸元から漏れる光だけが辺りをボワリと照らしていた。

「リナ!リナ!アリスよ!返事をして!」大きな声で呼びかけても返事は返ってこない。

 足元に大きめの石でできた墓標が等間隔で置いてある。石にはそれぞれ故人の名前が刻まれていた。この辺りは草が少なく、石や砂が多い。所々に大きな岩が地面から突き出していて遠くまで見渡す事ができない。アリスは記憶を頼りににリナのお母さんの墓標を探した。馬は素直にアリスの後ろを付いてくる。やがて見覚えのある形の岩を見つけた。走ってそこに行くと、そこにはあった。

 四角い石の墓標の上に見覚えのある切り花が綺麗な布のリボンで結ばれて置いてある。

「リナ……」

 リナはここに来た。でも居ない。帰り道で何かが起こったの?

 その時遠くから馬の走る音と嘶きが聞こえてきた。音の方へ歩いて行くと、松明を片手に馬に乗る人々がアリスのいる方へ向かって来ている。

「村の人じゃないわ。村にあんなに馬はいないもの」

 アリスは深呼吸して胸元の光を消した。

 だんだん近づいてきたその姿を見てアリスは息を呑んだ。

「騎士……!」

 騎乗の集団は鎧を身に纏い腰には剣を帯刀していた。

 騎士達はあっという間に近付いてアリスの数メートル手前で止まった。20人くらいいるだろうか。アリスに付いてきた馬が興奮したように後ろで前脚を上げて嘶く。

 1番中央にいた騎士が松明を隣の騎士に渡し、馬から降りて数歩アリスに近づいた。兜を脱いで脇に抱える。そしておもむろに口を開いた。

「私は首都ガーデルンから来た第三階梯聖騎士団団長カサンと申します。後ろに控えているのは私の部下達です。貴女のお名前をお聞きしてもよろしいか」

 後ろの騎士達が持つ松明の逆光で、表情までは見えない。ただ凄く背が高い事。そしてがっしりとした体つきなのがよくわかった。村にこんな男性はいない。

「私、私の名前はアリス。友達を探しているの。早く見つけなきゃ」

「こんな暗い夜に女性が1人で?」

「そうよ。でもきっとすぐに村の人達も来るわ」

「丘の村の人達なら、私の部下が引き返すよう言って村まで送り届けているところだと思いますよ。ガムルーの群れは村人にどうこうできる相手ではない」

「そんな!行方がわからない女の子のお父さんだっているのよ!」

「誰であろうと結局相手に敵わなければ無駄死にです」

「ガムルーが彼女に何かしたかなんてまだ分からないじゃない。具合が悪くなったり暗くて道に迷ったりしてしまったのかも知れない」

「それでもこの近くに群れが潜んでいる事はほぼ間違いない。もしその女の子を探す村人がガムルーと鉢合わせたらどうしますか」

 アリスはだんだん相手にイライラしてきた。今はこんな押し問答をやっている余裕はないのだから。

「我々は次のガムルーの標的は丘の村だろうと踏み近くの森に潜んでいました。すると村から鐘の音が聴こえ、様子を見に行った部下が馬にしがみついて駆け抜ける貴女を目撃した。その時貴女の身体は光っていたと報告を受けました。実際この場所に駆けつけた時も貴女のいる辺りに光が見えた」

 アリスはカサンと名乗った騎士にじっと見つめられているのを感じた。表情はわからないのに、アリスの一挙一動を見逃さずに観察されているような強い視線を感じる。

「その光の正体を教えてくれませんか?アリス」

「知らないわ!松明を持っていたけどあなた達が来るのを見てびっくりして落としてしまったのよ」

「馬の首にしがみついて爆走しながらも、松明を持っていたと?」

「そうよ!ねぇ、私はあなた達に質問を受けている暇はないの。友達を探さなきゃならない。大事な子なの。協力してくれないなら戻って村の周辺を見張るなりなんなりしてちょうだい!お願い」

 カサンは少し黙り、兜を被り直し身を翻して馬の方に戻った。良かった去ってくれるのかと期待したが、何故か馬の手綱を引いてアリスの元へ戻ってきた。そして自分が馬に跨ると両手を伸ばしてヒョイとアリスを持ち上げて自分の前に座らせた。

「ちょっと!何するのよ!」

「お友達を探しましょう。しかし貴女を危険な目には合わせられない。本来なら貴女は村に戻り部下の警備の元で待っていて頂きたいが貴女は聞いてくれないでしょう。また馬にしがみついてどこかに行かれても困る。ガムルーからも貴女の乗馬の技術からも貴女を守ります」

「頼んでないわ!」

「頼まれていません」

 アリスを後ろから支えたカサンは、馬を後ろに控えていた騎士達の元に歩かせた。

「ご友人の足取りはこの場所で途絶えているのですか?」

 アリスの言葉など全く聞いていないような冷静な口調が悔しいが、今は一刻も早くリナを見つける事が最優先だ。屈強な騎士達が協力してくれると言うならば確かに村の人達と探すより何倍も心強い。

「……そうよ。ここに来たのは間違いがないの。彼女が持ってきたお花が置いてあった。きっとここから村に帰るまでの道のりで何かがあったのだと思うの」

「背格好は」

「歳は13歳。名前はリナよ。長い金髪で私の肩くらいまでの身長で華奢な子よ。昼間会った時から着替えていなかったらだけど、薄い紫色のワンピースを着ていると思う」

「わかりました」

 カサンは前に並ぶ松明を持った部下達にアリスと話す時より大きく厳しい声で支持を出し始めた。

「これよりアリスの友人を搜索する!13歳女性。名前はリナ。体格は華奢。長い金髪。薄紫のワンピースを着ている可能性が高い。私を中心に円形体制で進む。速度は4。落物がないかよく見るように。ガムルーが現れた場合は戦闘体制に移るが、私を後方中心とし、アリスの命を最優先で守る事。以上」

 並ぶ騎士達が片腕を胸に当てハッ!と声を出した。

 アリスは予想外の言葉に驚く。

「あの、私の命が最優先ていうのは何なの」

「貴女を……民を守るのが騎士の仕事ですから」

 カサンはそのまま馬を進めて歩き出した。

 いつの間にカサンの馬の両側に騎士が1人ずつ。そしてそれを囲むように残りの騎士達が並んだ。

 アリスが小走りした程度の速さで隊列は進んで行く。行きとは違い多くの松明に照らされた道は色々な物がよく見えた。墓地を抜けると村の周辺とは違う痩せた木が両側に生えている。松明の光が届かない木の影に何か潜んでいそうで少し怖い。それでもアリスは何も見逃すものかと馬の上から目を凝らした。

 強引な態度とは違い、体を支えてくれるカサンの手はアリスの負担にならないよう気を使ってくれているのが伝わった。馬が歩く度にカチャカチャと騎士達の鎧の音が響く。騎士は聖女を探している。そんな噂を聞いた時はずっと騎士という存在が怖かった。なのに今はその騎士達に囲まれて夜道を進んでいる。

 余計な事を考えてはダメだ。無事にリナが見つかってから他の事は考えればいい。

 アリスは軽く頭を振った。

「どうしました」

 カサンが前を向いたまま聞いてきた。

「なんでもないの。ともかく、早くリナに会いたい。無事な姿が見たいわ」

「とても大切な子なのですね」

「家も隣同士で、可愛い妹みたいな子よ」

 その時だった。前方を歩いていた騎士が「止まれ!」と声をあげた。一斉に隊列が止まる。声を発した騎士が馬から降りて左前の木が茂っているところに歩いて行くのが見えた。しゃがんで何かを見ている。戻ってきた騎士の手には何かが握られていた。

 彼はそれをカサンの元に持ってきた。アリスには見えないようにやり取りされているのがわかって焦りと苛立ちが募る。

「何があったの?ねえ、教えて」

 アリスは首を捻ってカサンと部下の方を見ようとした。

「今見せますから、ちゃんと前を向いて」

 カサンがアリスの肩を抑えて前を向かせる。

「まず、これは靴です。捨てられて古い物じゃない。リナのものか確認しますか」

「もちろんするわ」

「血痕がついています」

「……見せて」

 後ろからカサンの左手が伸びてきた。手のひらに靴が乗せられている。

 アリスは震える手でそれを受け取った。

 クリーム色の革靴。真ん中に焦茶色の小さなリボンが付いている。その表面と中敷の布の部分にベットリと血のついた跡があった。表面の血はもう乾いているが中敷の血はまだ濡れているように見える。

 アリスは靴を持ったまま言葉が出てこなかった。目が靴とそこに付いた血痕から離れられない。震える手で靴を握りしめた。もうぬくもりを失ったその片方だけの靴はアリスの心臓を突き刺した。

 「……っ!」

 口から嗚咽が漏れる。

 カサンが靴を握りしめるアリスの両手を優しく包んで指を開けさせた。そして靴を取ると発見して持ってきた部下に渡した。

「丁寧に布で包んで皮袋に仕舞うように」

 渡された部下は小さく返事をして自分の馬に戻った。

「ここの周辺を搜索しようと思います。よろしいですね」

 アリスは口を押さえたまま無言で頷いた。

「周辺を搜索する!馬を木に繋げ!」

 カサンはまず自分が馬を降り、抱き上げるようにアリスを下ろした。

「私含めロディ、アルミア、ネル、ブラード、バンカ、フェネスはここでアリスを護りながら周辺を監視する。残りは二班に別れて搜索開始!30歩幅ずつ笛をならし」

「待って!私も探す!行かなくてはならないの!」

「ダメです。貴女を守る側としてそれは認められない。多分まだ……リナの近くにはガムルーが潜んでいる可能性が高い。今群れになって動いているやつらは狡猾なんです。靴をわざと見える場所に置いて探しに来た人間を襲う罠かもしれない。従来のやつらとは全く違うんです」

「どういう事なの?従来とは違うって」

「……それは今は話せない。ともかく貴女はここに残って下さい。私と部下達が絶対に守ります」

「私は自分を守ってくれだなんて言ってない。リナを助けるのを協力してほしいと言ったのよ」

「部下達がリナを見つけます。貴女が行っても我々の足手纏いになるだけだ」

 「違うわ!足手纏いになんてならない。リナは怪我をしているじゃない。それも多分とても酷い怪我。私が行けば助けられるかもしれないの。本当よ。もし私がここにいてリナを救う事が出来なかったら死ぬほど後悔するわ。行けば助かったのに、行かなかったせいでリナが死んでしまったら、私は絶対に自分が許せない!」

「貴女が行けば助けられるかもしれない?……いや、それでもダメだ。私はまだ正直貴女の事がわからない。ただ一つ確かな事は絶対に貴女を今この場所で死なせてはならないという事だ」

 失礼、と言ってカサンは素早くアリスの背後に回って両腕を押さえつけた。

「何をするのよ!やめて!離して!」

「罰なら後からいくらでも受けましょう」

 そう言うとカサンは部下達に「行け!」と命令した。騎士達が素早く二手に分かれて木々の中へ消えて行く。

「離して!リナを助けられなくなる!」

いくら暴れてもカサンの腕はびくともしない。

「お願いだから離して!私を行かせて!リナ!リナ!」

「私の部下達は優秀です。ガムルーを倒す事も、リナを治療する事もできます」

「じゃあなんで今までガムルーの群れは駆逐されなかったのよ!あなた達がもっと早くやっつけてくれていればこんな事にならなかったじゃない!」

「それは本当に不甲斐ない事だと思っています。先程も言ったようにやつらは非常に頭がいい。我々騎士の前には決して姿を現さず、ある日突然街や村を奇襲する。絶えず国全土を監視する事は難しいのです。ですが今夜この先に奴らがいる可能性は高い。もし対峙する事ができたら負ける我等ではありません」

「なんでそんな事が言えるの?もうガムルーはとっくに去っているかもしれない」

「その可能性は低い」

「なぜ!?理由を言って!」

「……靴を発見した場所の奥に続く木の葉についた血がまだ乾いていないと報告を受けたからです」

「!……何よそれ……何よそれ!離して!すぐにリサの所に行かなきゃ!」

 アリスは自分の内から何か熱いものが胸へと集まっていくのを感じた。今まで感じた事の無い程の熱。地下深くに溜まっていたマグマが一斉に噴き出すような衝動が体の内側から表面へ上がってきた。


「離してって言っているのよ!!!」


 アリスが叫んだ瞬間、辺り一面が眩い光に包まれ腕を掴んでいたカサンが後ろに吹き飛ばされた。

 アリスの体全体から光が溢れ出ている。カサンは体を起こし呆然とアリスの方を見た。

「私はリナの元に行く」

 アリスはそう言って目を瞑った。心の中で呼びかける。

「来て!」

 そう叫ぶと、木々の合間から数頭の鹿が飛び出してきた。鹿はアリスの体のあちこちに頭を擦り付けた。

『私の大事な女の子が今この近くで苦しんでるの。真っ直ぐな金髪の可愛い子。近くには獰猛な獣がいるかもしれない。黒くて赤い目をしたやつよ。お願い、私をそこに案内して」

 鹿は迷うようにアリスの顔と木々の向こうを見比べている。

「お願い!」

 アリスは鹿にもう一度声を出して頼んだ。

 その時、木々の奥からもう1匹大きな雄鹿が飛び出してきた。全速力で走ってきたかのように荒い息を吹いている。

 その雄鹿はアリスの前に行くと乗れと言わんばかりに脚を折って体を下げた。

「おまえ……」

 アリスにはその鹿の目に見覚えがあった。出会った時より2回りは大きく立派になっているが間違いない。アリスが森で出会った矢を刺された鹿だ。

「ありがとう!」

 アリスはその背に飛び乗った。

 雄鹿はスックと立ち上がると、飛ぶように木々の間をくぐり抜けていった。

 数秒遅れて大きな笛の音が2回響いた。カサンが先に入っていた部下に戻れと合図を送った音だが、アリスの耳には聞こえなかった。

 鹿がぴょんぴょんと凄い速さで木々の間を駆け抜けて行く。葉の当たる音と風の音、そして鹿の呼吸の音だけがアリスには聞こえていた。

 木々の葉がアリスの手や頬に小さな傷をつけて行く。鹿は全身を動かし木々の合間を縫う様に進む。上も下も右も左もごちゃ混ぜになる。

 ある地点で鹿は動きを止めた。荒い息を吐いて真っ直ぐ前を見つめている。

 アリスは鹿の背から降りると首の辺りを撫でてやりながら話しかけた。

「ありがとう。この先にいるのね?おまえは戻りなさい」

 鹿はチラリとアリスを見たがまた視線を前に戻し立ち去ろうとしない。

 アリスは心の中で語りかけた。

『この先は危険なのね。わかっているわ。おまえは戻るの。大丈夫。戻って安全な場所にいなさい。ほら、行くの。この場から去るのよ』

 鹿は何度か足を踏み鳴らして鼻を鳴らした後、後ろを向いて走り去って行った。

 アリスは鹿の姿が見えなくなるのを確認して歩き出した。足元の枯れ枝が踏まれてパキパキと折れる音がする。

 リナ、遅くなってごめんね。ここにいるの?今行くから。絶対にあなたを守るから。

 鹿がじっと見ていた方向に10メートル程進んだだろうか。横幅のある低い岩の上に片足だけ靴を履いた人の足が垂れているのが見えた。

「リナ!」

 アリスは駆け寄ってその姿を見た。

「……リナ?リナ!!」

 全身ビリビリに破れた薄紫色のワンピース。至る所についている血。特に首元から胸にかけては真っ赤に染まっている。

「嘘よ、嘘、リナ、いやだ、いや」

 リナの顔も体も真っ白で、その白い肌と血が周りの景色から浮き出るように際立っている。サラサラで美しいかった金髪は土や枝葉が絡みつき、顔半分を覆い隠していた。アリスはその髪をそっとよけた。

「ああ……」

 土や擦り傷はついていたがリナの顔は寝ているみたいだった。血で濡れた首元に手を当てる。まだ少し温かい。でも、鼓動を感じない。いくら触ってもトクンという動きを感じられない。

「いやだ……いやよリナ……」

 アリスはリナの上半身を持ち上げて抱きしめた。背中も肌が露出して血で染まっている。その背を優しく撫でた。リナの顔を自分の肩に乗せても彼女の呼吸は感じられない。

 どうして。遅かったの?大切な友達。家族。妹。その全てのリナ。私はなんて大馬鹿なの。ヨチヨチ歩きの頃から私の後をついて来たのに。どうして私は肝心な時にリナの前を歩いていなかったの。どうして1人で行かせてしまったの。輝く笑顔でアリスと呼んでくれる可愛いリナ。もう呼んでくれないの?お願い。リナ。お願い。

 アリスの目からポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。

 その時、周りの木の間から黒い影がスルリスルリと出て来た。アリスの体から溢れ出る光がその影の正体を映し出す。

 漆黒の毛並みに真っ赤な目。口からは涎を垂らし長い牙が覗いている。

 ガルムー。

 涙でぼやけた視界に映るそれをアリスは見据えた。

 十数頭のガルムーがアリスとリナを囲っていた。

 私を待っていたの?この子をこんなに傷つけて、さらに探しにくる人間を隠れて待ち構えていたの?

 リナの血だらけの靴を思い出す。まだ明るい道を歩いていたリナをこうやって取り囲んだのだろうか。ギラギラした赤い目で彼女に狙いを定めてこんな遠くまで引きずりこんで痛ぶったのか。

「ねぇ」と抑揚のない声でアリスは目の前の獣達に話かけた。

「お前たちがリナをこんな姿にしたの?」

 ガルルルと唸り声をあげるガルムー達。

 アリスの体から出る光がまた強くなってゆく。

「聞いてるのよ。リナをこんなに傷つけて、私から奪ったのはお前たち?」

 アリスの目の前にいるガルムーの鼻頭にアリスの体から出た小さな光の粒が鋭く当たり、キャイン!と甲高い悲鳴を上げた。

 どんなに怖かっただろう。痛かっただろう。花の棘が刺さっただけで泣きべそをかきながらアリスの元に来る小さなリナ。棘をとってあげても抱っこを要求してきた甘えっ子のリナ。

「何の罪もないリナを痛ぶって殺したのはお前たち?」

 今度はアリスの背後にいた3匹のガルムーに光の粒が当たる。3匹とも悲鳴をあげて弾けるようにジャンプをして後ろに後退した。

 アリスはリナの顔をじっと見て、左手を取って握った。目は閉じているけれど涙が流れて乾いた跡がある。まるで今でも泣いているようにアリスの光を反射して、その線が目の端からこめかみへと続いているのがわかる。

「ごめんね。ごめんリナ。お姉ちゃんなのに、守ってあげられなかった。痛くて苦しかったよね。きっと助けを呼んだよね。なのに、今までこんな場所でひとりぼっちにしてしまってごめんね」

 アリスはガルムー達を見た。涙はとめどなく流れているが、リナの変わり果てた姿を見てから初めてその表情に強い感情が浮かんでいる。憎しみ。悲しみ。絶望。

 アリスは気づいていないが瞳が金色に変わっていた。金の瞳の中に白い炎がユラユラと揺れている。

 アリスの体から出る光がブワリと膨らみ、グラスから溢れる水のように勢いよく全方向のガムルーを包みこんだ。

 ギャイン!という鳴き声とともにその場にいた全てのガムルーが飛び上がって地面に倒れた。必死に起き上がろうとしても体が震えてまた倒れてしまう。

「リナが何をしたって言うの。この子がお前たちに何をしたって言うのよ!こんな酷いこと。許さない。絶対に許さない。リナを返して!返しなさいよ!」

 さっきよりも強い光の波がガムルー達を襲った。悲鳴を上げて獣達は地面の上をのたうち回る。

「リナの何倍も、何倍も苦しめばいい。それでも許さないわ。この子の命が戻らない限り、私は絶対にゆるさない!苦しめばいい。苦しみなさいよ!」

 今までで1番大きな光がガムルー達を包む。今度は声も上げずガムルー達は体を痙攣させ静かになった。

 その時だった。1匹のガルムーがアリスの前に這いずり出てきた。口からは血を流している。

「その光間違いないな。やっと見つけたぞ聖女」

 声はその目の前のガムルーから聞こえた。

「やはり獣如きでは駄目か。しかしやっとお前を見つけられた。少しは役に立った」

 ガムルーの目は虚で、確かに声は目の前の1匹から聞こえるのにそこに獣の意思は感じない。

「なぜ聖女の力を得た事を隠した。余計な手間をかけさせおって。お前のせいで多くの人間が死んだぞ」

「死んだ?私のせいで?」

「そうだ。その腕の中の子供がそうなったのも元を辿れば聖女、お前のせいだ。もっと早く名乗り出て素直に殺されていればその子供も獣に襲われる事は無かった」

「リナがこうなったのも私のせいだと言うの。私が聖女に選ばれた事を隠したから」

「我々はお前を炙り出すために、獣を操り国中の若い女を殺していく事にした」

 それを聞いたアリスの体は更に光を増し、ウェーブのかかった長い金髪がフワリと浮き上がった。

「なんで。なんでよ!私は何もしなかった。聖女としてなんて何もする気もなかった!誰の邪魔もしていないじゃない。なんで私を探し出そうとそんな酷い事を!」

 アリスは腕の中にいるリナを見た。また頬に涙が伝う。

「好きで聖女に選ばれた訳じゃない。誰にも言わなかった。村で静かに暮らしたかっただけ」

 リナのおでこに頬を当てた。少しでも自分の熱が彼女に移ってほしい。この子がまた目覚めてくれるならなんでもする。

「お前がなんと言おうと運命は動き出している。聖女という存在があるだけでいつかは私達の邪魔になる。その為にお前は選ばれた。死ぬまでそこからは逃れられない」

「そんな運命いらない。勝手に与えられて、邪魔になると言われたって知らないわよ。私はあんた達がなんなのか興味もないし知りたくもない。ただこの子の命を返してほしいだけ。聖女の力だってあげられるものならあげるわよ!」

「聖女の力が欲しいのではない。聖女の命、存在を消さなくてはいけないのだ。我々の計画の邪魔になる事がないように。私達にも、お前にも、他の道は無い」

 アリスは目の前のガムルーを見据えた。

「そう……。わかったわ。じゃあそんなに私を殺したいなら死んであげてもいい。でも、お前達にこの命はあげない!私はこの子に命を譲るわ。お前達も私を選んだ神の思惑もどうでもいい!」

 リナの体をキツく抱きしめる。

 アリスは目を閉じた。そうだ、こうすればいいんだ。私が聖女だと言うのなら叶えて。私の熱を、生きる力を、未来を、全てこの腕の中の少女に与えて。もしそれが叶うなら、私は私の運命を恨まない。

 アリスの下から強い風が吹き上げるように彼女の髪や衣服を揺らした。アリスとリナの周りに繭のように光の膜ができていく。

 リナ。生きて。生きて

 体の底から吹き上がる熱を全て解き放った。体の中から光が空に向けて打ち上がり、空からまた光が体の中に入ってゆく。それはグルグルとアリスとリナの周りを光の布を編むように複雑な動きで回り続ける。

 存在を感じる。遠くに咲く花が風に揺れている。見た事もない広い場所に水が永遠と溜まっている。どこかの森で大きな鳥が鳴いている。

 知らなかった。私の中にはこんなに力が眠っていたんだ。温かい。目を閉じているのに光の粒が舞っているのが見える。綺麗。宙に浮いているような感覚がする。もっともっと出ていけ。私に与えられた力よ、私から出て行ってどうかリナを助けて。リナに鼓動を返して。

 父さんと母さんの顔が浮かんだ。胸がツキリと痛む。

 ごめなさい。こんな事になってしまって。聖女に選ばれた事を黙っていたのは2人と離れたくないから。私は聖女なんかじゃなくて、父さんと母さんの娘として生きていたかった。今更どうすれば良かったかなんてわからないけれど、父さんと母さんの娘で幸せだった。悲しませてしまってごめんなさい。いつか生まれ変わって、もう一度会いたい。ごめんなさい。

 その時アリスの耳にカサンの声が聞こえた気がした。

 カサン、あんなに守ろうとしてくれた。私が貴方達騎士が探していた聖女だときっとバレてしまったわね。

 何故聖女なんかに選ばれてしまったのだろう。

 12歳の誕生日の日、街に向かう私の乗った馬車にずっと手を振っていたリナ。あの日から私の運命は知らない方向に歩き出した。

 村の丘にリナとまた登りたい。黙って空を見上げているだけでいい。たまに顔を見合わせて笑い合って、丘に咲く花や土の匂いを思い切り吸い込もう。

 でもそれは決してもう叶わない。

 アリスの中で光の爆発が起こった。

 自分の体も抱きしめていたはずのリナの体もわからなくなっていく。意識が遠のいていく。

 頭の中に色んな村の景色が浮かんでくる。畑を耕す父さん。寝台のシーツを外に干す母さん。お喋りをして笑い合う村の人達。木の実の汁で口の周りを真っ赤に染めた小さな子供。ロンおじさんの腕から颯爽と飛び立つラディ坊。ハルトおじさん。そして、リナ。

「リナ……い……きて……」

 アリスの全てが白い世界に吸い込まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る