第2話

 やがて戦争はこの国が白旗を上げることで終わりを迎えた。

 四年の月日が過ぎていた。アイリスは二十二歳になっていた。


「戦争が終わったのに、どうしてノエルは帰ってこないの。どうして誰からもなんの連絡もないの」


 姑が不安を吐露する。

 それはアイリスも思う。


 戦争が終わって半年が過ぎたころ、一人の軍人が「ノエル様に頼まれました」と言って汚れの染みついた袋を持ってきた。


「部隊長は勇敢でした。自分は部隊長に救われました。戦争が終わったことは告げられましたが、上官から最後の突撃命令を受け、部隊長は自分だけが行くと言い残して、これを自分に託して、一人で行かれました。最後までお供できずに申し訳ございません」


 そう言い残して軍人は敬礼し、去っていった。

 それは鉛色の雲から雪が舞う寒い日の午後。

 姑とソランジュは泣き崩れ、舅は無言で立ち尽くしていた。

 しかしアイリスはどうしたらいいのかわからなかった。


 袋の中に入っていたのは、家族がノエルにあてた手紙だけで、アイリスの手紙は一通もなかった。


 縁談が来た時に思った。

 この結婚はうまくいかない、と。

 そう思ったのは自分だけではなかったのだ。


 舅と姑が語る、自慢の息子。

 ソランジュが語る、優しい兄。

 会ってみたかった。

 家族思いのあなたと、家族になりたかった。

 まったく認められなかったのね。


 アイリスはノエルの家族三人を残して自分の部屋に行き、ベッドに突っ伏して泣いた。

 ノエルは三歳年上だから、今、二十五歳。

 一度も会ったことがない夫の早すぎる死を思って泣いた。


 二十五歳。やりたいことがたくさんあったに違いない。こんなわけのわからない女を娶るよりも、自分が想う人を娶りたかったに違いない。彼のやり場のない気持ちは「手紙を出さない」という形になっていたのだろう。直接言葉をぶつけてこなかった彼はみんなが言うとおり、優しい人だったのだと思う。


***


 長男の嫁として、後継ぎを産むためにここにきたのに、その長男がいなくなって後継ぎを産むめども立たなくなった。

 だから自分はここにはいられない。でも行くあてもない。

 どうしたらいいんだろう。


「あなたと息子は結婚の実態がないから、教会に申し立てをすれば離縁ではなく結婚そのものをなかったことにできるわ。どうする?」


 姑に相談すれば、そう言われた。

 離婚歴があると結婚しにくくなるのだ。

 けれど、行く先と同様に、嫁ぎ先にもあてがない。


「いやでなければ、うちにいるといいわ。ソランジュもあなたに懐いているし、あなたがいると私も助かるし」


 姑はそう言ってアイリスを引き留めてくれた。

 そうはいっても、である。

 そうはいっても、アイリスは持参金ゼロで嫁いできており、衣食住すべて婚家に出してもらっている。多少は家の手伝いをしているとはいえ、本来期待されていた役割には程遠い。


 頭の中では出ていくべきだと結論が出ているが、言い出す勇気が出せないまま、冬が過ぎ、春が来た。

 雪は解け始めたがまだ風は冷たい。

 自室の窓辺で繕いものをしていたのだが、温かな日差しにだんだん眠くなってきた。

 手を止めてうつらうつらしていた時だった。

 コンコン、とドアがノックされる。


「はい?」


 はっと我に返り返事をする。

 ドアは開かない。


「どなた? ソランジュ?」


 不審に思ってもう一度声をかけると、ドアがそっと開く。

 そこにいたのはソランジュではなかった。

 背の高い、くたびれた軍服姿の、少しやつれた青年だった。

 栗色の髪の毛に青い瞳。

 肖像画の中で何度も見た。


「……ノエル様……?」

「あなたがアイリス?」


 自信なさそうに聞いてくるので、アイリスは頷いた。


「ただいま……というべきか、はじめまして、というべきか……。遅くなって申し訳ない」

「……ノエル様、生きて……? 本物……?」


「本物だよ。さっき階下で父上や母上と会ってきたけれど、うちの部下の伝え方では確かに死んだように聞こえたね。まあ、死ぬだろうなと思って、そのつもりで部下に手紙を託したから、しかたがないけど」


「死んで……死んではないのですよね……? 幽霊ではないのですよね?」


「死んでないよ。突撃命令を受けて、敵の部隊の前まで行ったんだけど、なんで戦争が終わっているのに死ななきゃいけないんだと思って、おとなしく投降した。しばらく帝国軍で捕虜になっていたから、連絡もできなかったし、帰ってくるのも遅くなってしまった。本当に申し訳ない」


 確かにノエルの部下は、ノエルが突撃命令を受けて一人で行ったと言っていたし、ノエルがどうなったかについては言及していなかった。

 つまり自分たちは早とちりで泣いていたのか。


 ――でもあのものの言い方では、そう受け取ってもしかたないのでは……


 またしても伝達ミスが発生したということか。


「まあ、いろいろあったけど、生きて帰ることができたかな」


 部屋に入ってきたノエルがそう言って何やら包を差し出す。

 アイリスが近づいて受け取ると、ふんわり甘いにおいがした。

 驚いてノエルを見つめると、ノエルが「開けてみて」と促す。

 包みを開けると、焼き菓子が出てきた。


「妻への初めての贈り物がこんなもので申し訳ない。あなたが最初の手紙に書いていたから、強烈に覚えていて。よくあるお菓子だからすぐに手に入るだろうと思ったけど、食糧不足でどこにも売ってないんだな……探したよ、本当に……」

「……よく手に入りましたね。お菓子なんてどこにも……」

「王都のほうは少しずつ物流が回復してきているみたいでね」


 それから、とノエルは言いにくそうに切り出した。


「手紙をたくさん、ありがとう。返事をひとつも書けなくて申し訳なかった。書こう、書こうとは思っていたんだけど、どうしても言葉が出ないうちに次の手紙が来るから……書けないまま月日が過ぎてしまった。そのうち、僕は戦地で死ぬからあなたが煩わしく思わないように、何も返事をしないほうがいいのではないかとすら思い始めた」


 あなたの手紙は全部とってある。そう言ってノエルが淡く微笑む。


「戦地は殺伐としていて、家族からの手紙は本当に嬉しかったし心を救ってくれた。最後の命令は有志だけだから部下に両親とソランジュの手紙を持たせて先に帰したんだけど、あなたからの手紙はどうしても手放せなくて……もし散るのなら一緒がいいなと思ったんだ」


 ノエルから返事がなかった理由も、袋の中に手紙が入っていなかった理由もわかった。


「私の手紙はあなたに届いていたのですね」


 焼き菓子を手にしたまま、アイリスは聞き返した。

 いろんな感情が一気に押し寄せて頭がぼうっとする。

 怒るべき? 泣くべき? 喜ぶべき? どうしたらいいのかわからない。


「届いていたよ。全部。……ありがとう、家を守ってくれて。母とソランジュについていてくれて。二人の手紙にあなたのことがいっぱい書いてあった。あなたがいてくれたから二人とも参らずに戦争を乗り越えられたんだと思う」

「そんな……私は何もしていないです。むしろ私のほうがお世話になりっぱなしで……」


 何しろ持参金ゼロにもかかわらず、衣食住すべて与えてくれたのだ。

 貴族令嬢の嫁入りとしては例外中の例外の扱いである。


「両親と妹、そしてあなたの手紙を読み続けたせいで、はじめましてなのに、はじめましてという気がしないね。あなたのことは昔から知っていたような気分だ」


 ノエルが微笑む。


「私もです。不思議ですね。直接、手紙のやり取りをしていないのに」

「……それは、悪かったと思う。本当に。なんていうか……本当に、書けなくて。何を書いても、あなたにがっかりされるんじゃないかと思ったら、怖くて。それに僕は字が汚いし」

「汚くはありませんよ。ちょっと癖が強いですけど」


 姑やソランジュあての手紙なら見せてもらったことがある。

 アイリスの指摘に、ノエルがきまり悪そうな顔をした。


「あなたの字はきれいだった。それに、あなたが見つめている世界はとても優しい。……それで、思ったことがある。生きて帰れたら、僕は、顔も知らない妻を大切にしなければならない、と」


 そう言うと、ノエルがその場に跪いてアイリスの指輪のはまった左手を取った。姑から、結婚しているのでつけておきなさい、おそろいのものをノエルにも送っておきましたと言われた、その指輪のはまった指先にノエルが唇を落とす。


「アイリス嬢。あなたに結婚を申し込む」


 自分たちはすでに結婚しているけれど……


「……ノエル様。あなたのお申し出をお受けします」


 アイリスは作法通りに答えた。

 ノエルが立ちあがって微笑み、そっとアイリスを抱き寄せる。

 よく見たら、ノエルの左手にもおそろいの指輪がはまっていた。

 自分たちは結婚していた。そう、四年も前に。

 この四年間、ずっと夫婦だった。

 初めましてなのに。へんな気持ち。

 初めましてなのに、夫の帰還がたまらなく嬉しい。


「ただいま、アイリス」

「……おかえりなさい」


 まずは結婚式のやり直しだね、とノエルが囁く。

 抱きしめられたまま、アイリスは頷いた。


***


 この結婚はうまくいかないと思った。

 最初は。


 アイリスは夫と子どもと手をつないで真っ青な空にぷかぷか浮かぶ雲を眺めながら散歩をしていた。

 国の形は変わり、それに伴っていろいろなものもどんどん変わっていっているけれど、空の色は変わらない。


「おとうさま、だっこ!」


 歩き疲れた息子が手を振りほどき、ぐずる。ノエルが息子を抱き上げる。

 視線が高くなったことに幼子が喜ぶ。

 ノエルと息子の笑い声が響く。

 アイリスはそんな二人を見つめて、緑色の目を細めた。

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この結婚はうまくいかない 平瀬ほづみ @hodumi0125

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