この結婚はうまくいかない

平瀬ほづみ

第1話

 この結婚はうまくいかない。

 父から縁談を切り出された時、アイリスはそう思った。


***


 アイリスはまっすぐな黒髪に緑色の瞳を持つ、知的な顔立ちの美しい娘だった。

 甘さがないぶん、年齢のわりには大人びて見え、内気で物静かな性格をしていることもあり、時にはかわいげがないとも言われた。

 世間的には伯爵令嬢とはいえ、アイリスは先妻の遺した娘であり、父とその後妻にとっては若干扱いづらい娘だった。


 母はアイリスが六歳の時に病気で他界。母は自分以外の子どもを産んでいなかったので、父は跡取り息子を求めてすぐに再婚し、後妻は瞬く間に男の子一人、女の子二人を産んだ。

 祖父母も親戚も、アイリス一人しか産めなかった母よりも、男の子を含む三人の子どもを立て続けに産んだ後妻を厚遇し、アイリスの母はいなかったことにされ、アイリスはしだいに空気扱いされるようになった。


 アイリスの生家は伯爵位を持つとはいえ全盛期に比べればだいぶ落ちぶれており、金銭的に余裕がない。後妻は限られたお金を自分の子どもに使いたいため、アイリスは異母弟妹たちとは差をつけられて育った。また異母弟妹たちは後妻からあまりアイリスに関わるなと言われているようで、アイリスは孤独だった。お金のかかる社交も許されなかった。もともと内気でおとなしい性格をしているから、それは助かった。


 アイリスは屋敷の片隅で一人で本を読み、ピアノを弾いて過ごした。

 嫁入りの持参金はつけられないから自立してくれと父と後妻から言われていたので、勉強に励んだ。

 この国の貴族の娘が就ける職業といったら、王宮の侍女か、令嬢の話し相手であるコンパニオンか、貴族の令息令嬢の家庭教師くらいである。

 王宮の侍女はコネと才覚が必要なのでアイリスにはできない。

 コンパニオンは人付き合いの心得が必要だから無理。

 残るは家庭教師しかない、というわけで、アイリスは家庭教師になるつもりだった。


 そろそろ独り立ちの時期かしらと思っていた十八歳のある日のこと。

「アイリス、おまえに縁談がきている」

 父親に呼び出されたと思ったら、いきなりそんなことを切り出されてアイリスは目をむいた。

「私に? 妹たちにではなく?」

「おまえの母親の家の縁だ。断ることはできん」


 聞けば母の兄という人が軍人をしており、部下が嫁を探している、と。

 そういえば年頃の姪がいた、結婚相手もいないらしいからちょうどいいのでは、と白羽の矢が立ったそうだ。

 母の実家は、母が生きていたころはそれなりに付き合いがあったが、父が再婚してからは母の実家との付き合いをやめてしまったので、優しかった祖父母や伯父がどうしているかはまったくわからない。


 相手は侯爵家の嫡男ノエル。アイリスより三つ年上の二十一歳。

 持参金もいらないし嫁入り道具もこちらで揃えるから、できるだけ急いで結婚したい、と。


 この国の急速な発展と台頭を快く思わない帝国があらゆるものの輸入と輸出を禁止したため、この国と帝国の関係が急激に悪化。いよいよ開戦間近と言われている。そしてこの国では、身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるとされており、高位貴族の長男でも逃れることはできない。ノエルは学校を卒業後、軍に入ったため、戦地に赴くことになった。


 侯爵家の嫡男なら、平時であれば社交界でモテモテだろうが、ゆっくり嫁選びをしている時間がないので、すぐにでも嫁いでくれる娘を探していたらしい。

 すぐにでも嫁いで、すぐにでも後継ぎを……

 まともな令嬢ならまず受けない。

 そういう縁談だった。


***


 そういうわけでアイリスは身の回りのものだけを持って指定された日時にノエルが住む屋敷へと駆け付けたのだが、軍の伝達ミスですでに開戦の火ぶたが切られ、アイリスが到着したその日の朝、ノエルはあわただしく戦地へと向かったのだという。


 後継ぎを孕めと言われて嫁いできたものの、その目的も果たせないままにもかかわらず、来てしまったのだから追い返すこともできないと、アイリスはノエルの家に迎えられた。

 結婚式はなしで、教会へ婚姻の届け出だけ。


 夫不在の新婚生活が始まった。


 高位貴族に嫁ぐつもりはなかったから、花嫁修業は一切していない。

 家政の知識をほとんど持ち合わせていないことに姑は呆れたが、学問を修めていることは褒めてもらえた。そして姑の補佐をしつつ、ノエルの年の離れた妹ソランジュに勉強を教えることになった。


 婚家では、噂に聞くようなきつい嫁いびりはなかった。

 夫がいないこともあるが、戦地に赴く嫡男のためにほぼ力づくで連れてきたアイリスへの気遣いだろう。

 むしろ実家で放置されていたアイリスにみんな同情してくれたほどだ。

 自分はどうやら、かなりひどい境遇にいたらしい。嫁いで初めて知った。

 夫の上官、つまりアイリスの伯父に訴えてみるか聞かれたが、アイリスは首を横に振った。

 伯父にどんな権限があろうと、実家を締め上げたところでアイリスが得るものは何もない。どうせ離れるつもりだった家だ。今さらどうでもいい、というのが本音だった。


***


「軍事郵便は切手が不要なのよ。部隊名だけで届くの。あなたも手紙を書いたら?」

 結婚して間もない頃、姑がそう言ってきた。

「検閲されるから、中身は当たり障りのないことにしてね」


 そうはいっても何を書いたらいいのかわからない。こっちはノエルのことを何も知らない。

 ソランジュも手紙を書くというので、それなら二人で一緒に手紙を書きましょうということになったが、何も書けない。

 真っ白なままの便箋を見て、十三歳のソランジュがアドバイスしてくれた。


「お義姉様の好きなものを書いたらいいと思うわ」

「私の好きなもの……といいますと、真っ青な空にぷかぷか浮かぶ白い雲や、風に波打つ麦畑……などですけれど、そんなものを書かれても、ノエル様はお困りになるだけでは」

「だったら、帰ってきたときに、お兄様がプレゼントしてくれやすいようなものがいいのではなくて? お兄様の性格であれば、奥様に何もプレゼントしないということはないと思うのよ」


 ……というわけで、アイリスは自分の名前のほかに、婚家ではよくしてもらっていること、この国で一般的な焼き菓子が好きだということを書いて送った。


 しばらくして、戦地にいるノエルから手紙が届いた。

 舅、姑、ソランジュ、それぞれに手紙があるのに、アイリスあてには手紙がない。


「遅れているだけなのかもしれないわ」


 姑が言う。

 そうかもしれない。

 家族全員が手紙を出すというし、当然のようにアイリスも手紙を書くように言われたので、アイリスは近況をつづった手紙を送った。


 しばらくして、その手紙への返事が届いた。

 しかしアイリスにはなかった。

 婚家で気まずい空気が流れる。


「もう、あの子ったら。照れてるだけよ! 懲りずに送ってあげなさい。すでに結婚して嫁がいることを忘れさせてはダメよ!」


 何を心配しているのか、姑がそう指示してくるので、アイリスはノエルから軍事郵便が届くたびに、ノエルに手紙を書くことになった。

 とはいえ、返事もない相手に手紙を書き続けるのは苦痛だ。ネタもない。


 しかたがないので、アイリスは自分の日記のような手紙を送り続けるハメになった。

 よく知りもしない人の日常なんて見せつけられて楽しいかしら、と思いながら、まあ、それでも実家の出来事だから多少は興味を持ってくれるかもしれないと思いつつ。


 婚家では出征したノエルの話がよく出てくる。

 子どものころのやんちゃ話、王都の学生時代の話、軍隊に入ってからの話。

 勉強が得意で、剣も強くて、優しくて、妹思い。家族にとっては自慢の息子であり、兄だったという。

 小さい頃から毎年のように画家に描かせた肖像画も見せてもらった。栗色の髪の毛に青い瞳、小さい頃はかわいらしく、大きくなってからは凛々しい顔立ちの青年だった。


 新聞では、どこどこを陥落させたとか、どこどこで戦艦を沈めたとか、勇ましいニュースばかり流れてくるが、世の中はどんどん景気が悪くなっていく。帝国に輸入も輸出もブロックされているので、この国は自分で何もかも賄わなくてはいけない。「帝国の横暴に立ち向かうためあらたな経済圏を作る」ともっともらしいことを言いつつ、資源を求めて第三国に侵略を開始したせいで戦況は泥沼化。新聞がどんなに勇ましいことを言っていても、この国が追い込まれていっていることはよくわかった。


 貴族たちには華やかな生活の自粛を求められるばかりか、平時の時からは考えられないほどの重税が課され、泣く泣く財産を処分することが増えた。そしてアイリスたちの生活は一気に質素になった。


 ノエルからの手紙が減ってきた。

 前は何枚にもわたってびっしり書かれていた手紙が、家族あてにそれぞれ一枚になり、やがて全員にまとめて一枚、というふうに。

 ここまできてもやっぱりアイリスへの返事はない。


 嫌われているのだろうか。

 どうやら上官である伯父に命じられての結婚だったようだし、ノエルは乗り気ではなかったのかも。


 そう思ったが、姑やソランジュが「手紙を書いた?」と聞いてくるので、やめることもできない。

 戦地にいる人に辛気臭い話もできないから、アイリスは相変わらず誰に見られても痛くもかゆくもない日常の一コマを書き続けた。

 姑がこんなものをもらってきただの、ソランジュがこんなことを言ってまわりを笑わせただの。


 男たちが次々と戦場に送られていくため、アイリスとソランジュにも軍需工場で働くように要請がきた。

 二人は揃って砲弾を作る工場に行かされた。


「貴族の娘が埃と油にまみれて働くなんて」


 姑は嘆いたが、階級関係なくみんなお国のために働いているのだから自分たちだけ特別扱いしろなんて言えない。むしろ、アイリスは戦地にいるノエルと一緒にいるような気さえするほどだ。

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