モンシロチョウ

碧海にあ

モンシロチョウ

「私、いよいよ死ぬべきだと思うんだよね」

 彼女は歌うように、だけど毅然として言った。

 またどうしてそんな、と思ったが彼女は本気だろうしきっと考えなしに言ったことでもない。それに彼女はこのまま考えを曲げず死ぬのだ。僕にはなんとなくわかった。

「なるほど。どうやって?」

 彼女はちょっと嬉しそうな顔になってこちらを向いた。風に服がなびく。わざわざ死ななくたって、そのまま飛ばされていってしまえそうだ。

「折角ならさ、華々しくいきたいな。ほら、人生で一度きりだし」

 可愛らしくおどける。

 ならば、と僕は声をかける。

「ねえ、僕もついていっていい?」

 少し考える素振りを見せて彼女は答えた。

「いいよ」

 僕らは頭を寄せ合って計画を立てた。子どもの悪戯のような無邪気さで。遠足の前夜のように浮き立った心で。

「ねえ、本当にいいの?」

 帰り際に彼女はそう念を押した。

「もちろん」

 僕は笑う。

 彼女がいなければ特段生きていたいとも思わないのだから。むしろ彼女とさいごを共有できることにわくわくしている。僕はただ、美しい彼女を見ていたいのだ。

 また明日、と挨拶して僕らは別れた。


 翌日現れた彼女は真っ白い薄手のワンピースを着ていた。やわらかに揺れる様子は夏の終わりの淋しさに少し不釣り合いだ。

 彼女は手提げの鞄からタオルに包んだナイフを出した。

「やり残したことない?」

 彼女は言う。

「あってもいいよ」

 二人で笑った。

 それから彼女はゆっくりと足を進める。僕と少し距離を置いたところでこちらに向き直った。

 ナイフを持った手を持ち上げ、反対の手首をすっと引っ掻いた。とぷとぷとこぼれ出た彼女の綺麗な血液が細い腕を伝って地面を濡らす。

 そして彼女は手に持った刃をその薄い腹に立てた。

 わずかに震えるくちびるを噛んで、僕に向かって小さく微笑む。ほんの少しだけ、泣きそうにも見えた。肩の震えは収まっていない。

 彼女は言った。

「怖くないよ」

 僕の心は不思議に静かだった。怖がっているのは彼女自身だろう。

「うん」

「私、どう見えてる?」

 ぬるい風に彼女の長い髪が空に浮いた。夏の陽が透けて茶色く光る。

「美しいものに見えてるよ」

 彼女を形容するのにふさわしい言葉を僕はこれしか知らない。

 そう、と呟いて彼女は笑った。

 そして彼女は手に力を込めた。

 刃が埋まって、真っ白いワンピースに赤が滲んだ。その色は異常なまでの鮮やかさでもって僕の目に焼き付く。

 彼女はふらりふらりと蝶のように舞い、それから静かに散った。

 世界から音が消えたように思えた。その光景があまりに鮮烈だったから。視覚以外の情報が途絶えたように感じた。

 すべてが、いっそ暴力的なほど美しかった。今までに見た何よりも美しかった。

「ああ」

 しばらくして僕はため息のように声をもらした。そして返ってきたその声で僕の耳は機能を取り戻す。

 やっと動き出した世界で僕は地に倒れている彼女に歩み寄った。小さい肩の横に膝を付き、その顔を見た。

 美しいままだった。

 思わず手を伸ばして髪を撫でた。頬を撫でた。陶器のようだと思った。美しい彼女から命は感じられない。

「おやすみ」

 僕は彼女に口吻た。血の味がした。

 そして僕は彼女の腹に刺さったナイフに手をかける。力を込めて引き抜くと、赤黒いものがどっと溢れ出した。

 なおも美しい彼女にもう一度ため息をついて、手に持った刃で手首を切った。彼女と同じように。頭から血の気が引いていくのがわかった。そしてその彼女の血がついた刃を自分の腹に押し込む。知らない感覚。ごぽ、と音がして口から温かい液体が塊になって出てきた。

 力の入らない腕で、それでも刃を腹から抜いた。手がしびれて、やがて感覚がなくなった。

 彼女の横に倒れる。

 美しい彼女の横に並ぶ僕はどれほど醜く見えるのだろう。彼女の周りの美しい空間に僕は邪魔かもしれない。けれど同時に、それが喜ばしくもあった。彼女の最後の美しさに僕だけがともにいられている。何とも言い難い愉悦と穴の空いた腹の熱さに浸っていた。

 掠れた視界で季節外れのモンシロチョウが踊った。


 死に際でさえ、僕は彼女に恋をする。

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