竜は動かず 1

 立ち上がったシヴァルを、ジューンは見上げて聞いた。

「もう大丈夫なのか?」


「はい、先生」

 うなずいたシヴァルだったが、となりで彼を支えるようにしているエナが、困り顔でしきりにジューンに向けて首を振っている。

 なるほど、どうやら無理を押して来たようだな、とジューンは見てとった。


 一同は事務所の中に入る。

 ジューンはエナに視線を向けた。

「シヴァルの看病、今までよくやってくれた。苦労をかけたな」


「いえ、そ、そんな……」

 エナは恐縮して頭を何度も下げる。

「謝礼はあとで届けさせよう。ご苦労だった」


 彼女の仕事は終わったので、自由に帰っていいというつもりだったが、

「先生、彼女をひとりで帰すわけには……」

 と黄丹が耳打ちした。


「ああ、そうだな」

 もう夜だし、今の状況では人族女性のひとり歩きは危険だろう。

 黄丹か自分が送っていくべきだろうか。少し距離があるが……。とジューンが考えていると、エナがおずおずと口を開いた。


「あの、わたし食材を持ってきました……よろしければみなさんのお食事を作ります」

 手にしたバスケットを掲げた。肉や野菜が入っているのが見える。

 昼食もまだだったジューンは思ってもみなかった申し出に、

「ではおねがいしようか」


 エナを送るにも人通りの減る深夜のほうがかえって安全かもしれないし、いっそ泊まってもらってもよい。


「こちらです」

 キッチンに案内する黄丹。二人は奥のドアへ消え、黄丹だけすぐ戻ってきた。

「料理にはかなり時間がかかるそうです」


 ジューンはうなずいて少し笑った。

「賢い子だな」

「そう思います」

 黄丹もその意味がわかっているように返事をした。


「賢い……とは?」

 わかっていないのはシヴァルだった。彼には、なぜエナが料理に時間をかけるのが賢いのかさっぱり理解できていない。


 黄丹が説明してやる。

「われわれの話の邪魔にならないように、自然に席を外せる手段を用意したのですよ」

「なるほど。それは賢い」


「それよりキミだ。まだ本調子でないのに帰ってきたのは、なにか話があるのだろう」

 ジューンにうながされてシヴァルは表情をあらためた。小さな調停士のほうをまっすぐに見て、

「すみません、せっかく拾ってもらったのに」

 と言った。疲れから椅子に座っていたシヴァルは、立ち上がって言う。

「この事務所をやめさせてください」


「あなた、シヴァルくん……! 先生の何が不満だと言うんです!」

「黄丹」

 エキサイトしかけた秘書を制止して、ジューンは退職を願い出た雑用係に向き合った。

「やめてどうする?」


「……ぼくがやらなければいけないことをやります」

「マイザーン王子を説き伏せようというわけか」

「はい」


 ジューンはシヴァルの顔を見すえた。鋭い視線であった。眼鏡の奥にあるジューンの瞳は一見すると黒だが、よく見ると角度や反射によってその色を変える。


 シヴァルはその目をまっすぐ受け止める。

 泣きべそかいてた少年がなあ……。ジューンは彼とはじめて会ったときのことを思い出していた。

 まるで別人だ。


「いったい、なにがあったのかね」

 シヴァルはエナが入っていったドアのほうをちらりと見て、

「自分のまちがいに気がついただけです」

 と答えた。


「どんな考えがあったとしても、なにもしてない女の子が石を投げられるような事態はまちがってるんだ」

 値踏みしているようにそれを見ていたジューンは不意に眼光をゆるめると、

「背骨が入ったな」

 とだけ言った。その唇が笑みを形づくっている。まるで彼の決意をほめるかのように。


 それを受けてシヴァルの表情が明るくなる。

「じゃあ……!」

 ジューンはにっこりうなずいて、

「だが許可しない」


「えっ? なんで!」

 一転、冷徹な表情でジューンはシヴァルの申し出を却下した。

「成功しないからだ。キミひとりでどうやってマイザーン王子と話せる距離まで近付こうというのかね」


 シヴァルは歯切れわるく、

「それは、どうにかしのびこんで……」

「無茶だと自分でもわかるだろう。キミは病み上がりだし、それでなくとも隠密行動のしかたを知らない。危険が大きすぎる。犬死にするだけだ」


「そんなことはわかってます」

 ジューンの言葉を強い口調でさえぎった。もういちど、今度はささやくように、

「わかってる。……それでもぼくがやらなきゃ」


 シヴァルはジューンから視線を外さない。眉が下がって泣きそうにも見える顔で、でも譲ろうとはしない。

「これはぼくの仕事だから……!」


 ジューンは厳しい顔のまま、

「そこまで言うからには、マイザーン王子と話すことさえできれば説得する自信があるということだな?」


「自信は……」

 見透かすようなジューンの目に、弱気になりかけたシヴァルだが、なんとか踏みとどまる。

「あります! ぼくじゃないと無理だ」


 ジューンからすれば虚勢を張っているのは見ればわかる。声だって情けなく揺れている。しかし覚悟だけは本物だ。伝わってくる。

「根拠もあります」

「それは?」


「気づいたんです。ぼくがドラグニールに逃げてきたのと、兄上がドラグニールを攻めてきてるのは、同じことなんだ」

 彼の真意をはかりかねて、ジューンだけでなく黄丹もひとしくけげんな表情になった。

「どういう意味かな?」


「つまり――」

 シヴァルはその原因だと思われることを語った……。



 言い終えるとシヴァルはふたりの様子を交互に見た。

「どう思いますか?」

 自分にはにわかに判断がつかない、といった顔で黄丹は信頼する調停士におうかがいを立てた。


「蓋然性は低くない。いや、十分に考えられる。たしかにそれが本当だったらマイザーンを説得できるのはシヴァルだけだろう」

「しかし、主観の域を脱していないのはたしかです。シヴァルくんの読みまちがいという可能性もあります」


「だが、少なくとも今のボクにはそれ以上効果的な武器は用意できそうにない」

 ジューンは肩の力を抜くように小さく息を吐き出し、腹をくくった顔をシヴァルに向けた。


「ところで、実はドラグニールの自治評議会の決定により、ボクがディント軍への使者にたつことになったのだが」

「えっ」

「こちらも命の保証があるわけではないが、面会の前に殺される確率は、忍び込むよりは低いだろうな」


 眼鏡のつるに手をやって、

「空席を埋める気はあるかね。副使の地位が空いている」

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