干戈迫る 5
窓から西日がさす。斜陽の時間帯である。
シヴァルは上体を起こせるようになっていた。順調に体力は戻りつつある。
腕を動かしてみて、あらためて傷のほどをたしかめる。
それで気づいたが、刺されたところの痛みがなくなっている。肩口を包帯の上から手で探ってみても痛まないし、傷口もくっついているようだった。
「けっこう深く刺されたよな……?」
いくらなんでも治りが早すぎる。ナイフが刺さってたった数日とは思えない。われながらすごい回復力だ。
シヴァルは空腹をおぼえた。
「エナ?」
エナはどこだろう。さっき水差しの水を交換に行ったのだが、それからもどってきていない。
大きい声を出して彼女を呼ぼうかと考えたとき、窓の外から人の声が聞こえてきた。
複数の男の声であった。とげとげしく攻撃的な声音に聞こえた。
「人族め、ディントの軍を手引きするつもりじゃあるまいな」
「おれたちに危害を加えようったってそうはいかないからな!」
「竜の盟約をやぶろうなんてとんでもない種族だぜ」
「やめてください……!」
エナの声だ!
いったいどうした? 不穏なものを感じたシヴァルは体をむりやり起こしてベッドから下りた。
立てる。ふらつくがなんとか立つことができる。シヴァルは今の体が許すかぎりの速さで窓へにじり寄り、そこから下を見た。
窓の下、家の前はせまい通りだ。エナはおおきな水桶を持っているからだ。井戸から汲んできたのだろう。
彼女は唇を引き結んで、おびえたような表情だ。それを取り囲むようにした四、五人の男たちがエナに暴言を浴びせている。いずれも人族以外の者たちだ。まだ若く、下手をするとシヴァルやエナより年が下かもしれない。
言葉だけでは終わらなかった。男たち――少年たちは、小石を拾ってエナに投げつけはじめたのだ。
「おら、人族め!」
「出ていけ!」
そのうちいくつかがエナに命中する。シヴァルは、前から気になっていたエナのあざの正体を知った。
エナは身を守ろうと体をひねり、転んでしまった。不運なことに、持っていた水桶がひっくり返って彼女の全身がずぶ濡れになった。春の日差しはもう西の地平に失せようとしている。黄昏の風が彼女の体を冷やす。
シヴァルははだかで座っていたときの心細さを思い出してかっとなった。
「なにをしている!」
二階からシヴァルは怒鳴った。上から見られているとは思っていなかったのだろう、少年たちはあわてて駆け去っていく。弱い女ひとりを攻撃することはできるが、男の声でとがめられたらすぐに逃げ出すような連中だったのだ。
「なんてやつらだ」
怒りがシヴァルの歩みを力強くした。シヴァルは部屋を出て階段を降りる。途中でふらついて壁に手をついたが、ものともせずに足を進めて一階に到着した。
家を出る。エナはぎょっとした顔でこちらを見た。
「シヴァルさんっ、まだ立って歩いては……」
「ぼくのことはどうでもいい」
手を差しのべる。エナはおずおずとそれに応じて立ち上がろうとする。
「家を出るたびにからまれるのか?」
肩を貸そうとひざまずくシヴァル。目線の高さが合う。
「シヴァルさんまで濡れちゃいます」
慌てて手をふるエナの遠慮を無視してシヴァルは彼女の腕をとる。
「石を投げてくるのはいつもあいつらか?」
「……」
「すべては、ディント軍が攻めてくるせいというわけだな」
いままで床についていたシヴァルは、ドラグニールをおおう不穏な空気にはじめて接したのだ。いつになく厳しい顔になっている。
ようやくエナは立ち上がる。彼女の体は、シヴァルがやすやすと支えられるほど軽い。細く、小さく、濡れそぼった髪や服から井戸水がしたたり、ときに投石を受けた痛みに顔をしかめるさまは、震える子猫のように頼りなく見えた。
ドラグニールは、こんな娘に悪意を向けるような町になってしまったのだ。
それもこれも誰のせいなんだ?
シヴァルは急に胸がつまるのを感じた。
そう。
「ぼくのせいだ」
ゆっくり家の扉に向かいながら、
「ごめん」
と沈痛な声を出した。
エナは首を振ってシヴァルに謝罪なんてしなくていいと伝えたが、彼はそれを見ていなかった。彼が見ているのは自分の内部だった。
「ようやくわかった。ぼくはずっと逃げてきたんだ」
玄関ポーチの階段をゆっくり上る。
「事務所から抜け出したのだって、先生たちに迷惑をかけないように、なんて言い訳だ。ほんとうは居場所がばれたのが怖くて逃げ出しただけさ。ドラグニールに来たことだって同じだ。本当にしなきゃいけないことから顔をそむけて逃げつづけてきたんだ」
エナは心配そうな目でシヴァルを見ている。
「ぼくは臆病者だ」
勇気がなかった。それが自分でも無意識にうすうす気づいていたから、ラギ・ラギにあんなみっともない詰め寄りかたをしたのだ。
「死にかけたのはその報いだろうな。そして今、ぼくの臆病がドラグニールを、きみを危険にさらしている」
「シヴァルさん……」
エナは彼の顔にむけて手をのばした。そこに浮かんだ彼の自嘲が痛々しかったせいだ。
彼女にはシヴァルの言っていることの意味はわかっていないだろう。なぜシヴァルが臆病で逃げたからといって、ディント軍が攻めてくるのか。
それはシヴァル以外のだれにもわかっていないはずだ。
だが今エナはそんなことよりも、傷ついた顔のシヴァルをどうにかしたいという思いだけだった。
だから、
「今わたしを助けてくれたのはシヴァルさんですよ!」
一生懸命そう言った。
自分の悪い面ばかりを見ている今のシヴァルは自覚していないかもしれない。だが、彼はただ臆病な男ではない。
「わたしにはよくわかりませんけど、シヴァルさんなら逃げないこともできるはずだと……思いますけど……」
エナはそれを伝えようとしているのだ。
そう、シヴァルは、いざというときには暴漢の拳の前にみずからの体を差し出すことができる。そういう男ではなかったか。
そして、いざというとき……それはまさしく今のことではないのか。
シヴァルははっとした。
「ぼくは……」
過去を悔いてももどらない。ずっと逃げていたのなら、今、逃げる足を止めて立ち止まればいい。
そして、自分のせいでこんな事態を引き起こしたのなら、自分の手で幕を引くしかない。
「シヴァルさん……!」
エナの見ている前で、シヴァルの表情は自嘲から、ゆっくり氷が溶けるように変化していった。
その顔。
別人のようだ。凛々しく、決意に満ちていて、はだかで座って泣いていた弱々しさはもうない。
長い沈黙のあとに彼は誰に聞かせるつもりでもなく、ぼそりと呟いた。
「どうせいちどは死んだ身だ。しなきゃいけないことをするしかない。……エナ」
「は、はい」
「ありがとう」
ようやく見せた笑顔は、腹をくくった者特有の透明感があって、エナを見とれさせたかもしれなかった。
……直後に彼が力を使い果たして倒れてしまわなければ。
「だだ……大丈夫ですかー!?」
「……なんとか」
(@_@)
自治評議会の建物を出ると、夕照がジューンの目を射る。ドラグニールはたそがれの金色に染まっている。
門のそばに黄丹がひかえていた。
「キミ、事務所にもどったではないのか」
「先生が心配で……ディント軍の使者が来たと聞いたんですが」
ジューンは帰宅がてら黄丹に事情を聞かせた。
「じゃあ、先生がディント軍のもとへ……!?」
黄丹は手で口をおおってショックを受けた顔をした。あまりに危険が大きいと感じたのだ。
だがジューンを信頼している黄丹は、
「でも、先生が引き受けたということは勝算があるんですよね」
とたずねた。
答えが返ってくるまでに間があった。黄丹はジューンの横顔を見た。視線に気づいたジューンは見返して微笑を浮かべたが、そこにはいつもの自信や不敵さが欠けているように見えた。
「これは秘密だが……実は自信がない」
黄丹は息を呑んだ。
「調停には双方の意思と案件に関する情報が必要だが、どちらも欠けているとあってはな。ついでに準備する時間もない」
「では……」
「それでもやらねば」
言葉のないままふたりはしばらく街を歩く。街なかはディント襲来のせいで常にも増して騒がしいが、ふたりの耳には届いていないようであった。
と、ジューンが、なかばひとりごとのように言葉を口にした。
「ドラグニールを守るためなら何を犠牲にしてもいいと思うか?」
黄丹はその意味をつかみかねた。
「犠牲……というと」
「たとえば、理想」
「理想……? 理想を捨てるということですか? 先生が!?」
ジューンの口から出たとも思えない言葉に、黄丹は単眼を大きくする。
「先生の理想といえば七族共栄ですよね」
「相互理解による七族共栄だ。そして相互理解のためには言葉によるコミュニケーション、話し合いが要る」
「はい。わかっています」
「それを放棄し、力で無理やりディント軍に言うことを聞かせたとする。そうすればドラグニールの平和は守られる」
「そうですね」
黄丹は、もちろんそんな力をジューンが持っているわけがないと理解しているので、一種の比喩として話を聞いている。
「だが、話し合いを放棄し、平和のために理想を捨てたボクに、調停士をつづける資格はあるだろうか?」
「先生、それは……」
「いやボク個人のことはいい。問題はドラグニールだ。ボクが求めていたのは、七つの種族がときにぶつかりあいながらも話し合いをやめることなく、傷つきながら相互理解を深めていく、自由な混沌と活力のるつぼなのだ。わかるかね」
「それは、たとえばスケイル地区のような?」
「そうだ。自由、自律、ということはつまり、外敵が来たときは住民の手で対処するべきなのだ。スケイル地区を警察などとともにライマンの組織が守っているように。ディント軍に対処するのはドラグニール自身でなければならない」
ジューンは続ける。
「外部の力で守ってもらった場合、ドラグニールはもはや七族共栄を目指していい場ではなくなるのでないか? ボクはそれがこわいのだ」
黄丹は少し考えてから口を開いた。
「先生のおっしゃる力というのがなんなのかわたしにはわかりませんが、先生のお言葉から推察するに、ディント軍を撃退できるほど強力で、ドラグニール外部のもの、ということになると思いますがいかがですか」
「キミはいつも話をまとめるのがうまいな」
黄丹が想像しているのは、マガティーア国をはじめとしたほかの国の軍隊というところだろう。それは正解ではないが、彼女がそう思うのは当然だ。今の状況でほかの心当たりがあるものはいまい。
「だとすると道理としておかしいところがあります」
「なにかね」
「そもそもいまのドラグニールができたのは竜の盟約のおかげです。つまりドラグニールは最初から外部の力によって守られてできた都市ということになるではないですか。いまさらそれを気に病むのは意味がないのではありませんか」
黄丹は、べつにジューンを言い負かしたいわけではないのだろう。ただジューンの悩みを理解したいのだ。それが理詰めになるのは単眼人らしいところである。
ジューンはうなずいて黄丹の正しさを肯定しながら、自分の意見を発する。
「だからこそ、だ」
「は?」
「過去のことは取り返しがつかないのだからやむをえない。今これからは、力によって生まれた場所だからこそ、同じことをくりかえしてはいけないと思うのだが……」
ジューンの歯切れが悪い。
「でも迷っているんですね?」
力にたよらず交渉にのぞむと決意しているなら、こんな弱音のような話はしないだろう。
「まあ……そうだ」
「なにをですか?」
「力なしに、弁舌だけでマイザーン王子を動かすのはむずかしい。失敗すれば大勢が死ぬことになる」
「人命か先生の理想かということですか」
「そう単純な二択ではないがね」
力にたよっても戦いが避けられない可能性はあるし、逆に力なしの交渉でうまくいく場合も、完全にゼロではない。
ジューンは自嘲めいた笑いをもらす。
「いや、らちもないことを言った。気にしないでくれたまえ」
話は終わりとばかりに、ジューンは歩く速度を上げた。
黄丹にとっては、最後まで要領をえない話になってしまった。ジューンが、力というものの正体を言わずじまいだったからだ。わかるはずもなかった。
でもわかることもある。それは、ジューンが悩んでいるということだ。黄丹にとってはそれこそが重要だ。
黄丹はすぐに追いつく。脚の長さが違う。
「先生。秘書として言わせてもらいます」
「……なにかね?」
黄丹はジューンの前に回って彼女の足を止めさせた。ジューンの細い両肩を、黄丹がつかむ。まっすぐ正面から黄丹は言う。
「先生は先生の思ったままにふるまってください。……わたしはドラグニールが好きです。でもそれは先生がドラグニールを好きだからです。先生が拾ってくれなかったらわたしはこの町を恨んでいたかもしれません」
黄丹の声のボリュームが上がる。
「だから先生がどうしたいかのほうがわたしには大事なのです!」
言い終わって自分の勢いにびっくりした黄丹は、あわててジューンの肩から手を離した。
ジューンの表情は、眼鏡に西日が反射してよく見えない。ただ口もとが少しだけゆるんでいるようにも見えた。
「単眼人らしからぬセリフだな」
黄丹は頬を赤らめて、
「単眼人でも道理より感情を優先したくなるときはあるんです」
すねたような口調であった。
「さ、帰りますよ先生」
足早に歩きだそうとした黄丹の耳元に向かって、ジューンは口を寄せた。
「ありがとう」
黄丹はその場で信じられないというふうに体を震わせていたが、目に感動の涙をためてジューンを追いかけた。
「せ……先生〜っ!」
うしろから覆いかぶさるように感動のハグ。
「抱きあげるのをやめたまえ、こら……ちょっと」
「このまま事務所まで帰りましょう!」
「断じて抵抗する!」
なんとか黄丹の手からのがれたジューン。困ったものだと言いたげに眉毛を上げていたが、評議会を出てきたときの迷いは晴れたようであった。
地上が宵闇におおわれるころとなって、ジューンと黄丹は事務所にもどってきた。
事務所の入り口、上がり段にだれかが座っているのが見える。
シヴァルだ。
今日は裸ではなかった。
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