彼の上に日は陰った 6

 シヴァルの反応は早かった。男の姿を認めるやいなや、背を向けて逃げだしたのだ。大きな音に驚いた犬のようだった。

 人にぶつかり、物を蹴倒し、シヴァルは空をかくようにして、不恰好に手を動かして全力で逃げる。


 男は追ってくる。

 シヴァルは人ごみで相手の視線が切れたのを見はからって脇道に折れた。走る。土地勘もなにもない道をでたらめに走った。食事も取らず歩き続けた体は、すぐに息があがった。あえぎながらふらつきながら足を前に進める。


 まいたかと思うと男は姿を現す。シヴァルは逃げ続けた。

 気づけば人の声は遠くなり、シヴァルの耳に入るのは自分の喉をこする荒い息だけだ。周囲は廃墟となったレンガ造りの建物が並ぶ。ドラグニールが成長する過程で取り残された、かつてはなにかの種族が住んでいたのだろう一画だ。


 そのどんづまりの、屋根も天井も抜けて壁だけ残った家の中でシヴァルはついに立ち止まった。

 彼は気づいた。絶望とともに気づいた。逃げていたのではなかった。逃がされていたのだ。

 殺し屋の男に、みずから人気のないほうへ走るよう誘導されていたのだ。


 振り返ると、案の定、出入り口をふさぐように男が立っていた。まだ肩が激しく上下しているシヴァルとちがって、呼吸に一切の乱れがない。

「観念したほうがいいと思うんだよな……。ナイフに毒塗ってあるし、死ぬけど苦しくないっていう自信作だから、相手が抵抗してもきっと大丈夫……でも抵抗するんだろうな……ああ面倒だ」


 ぶつぶつ呟きながらだるそうに近づいてくる。シヴァルは息荒く、恐怖の表情でじりじりと後退する。が、壁が近い。もはや逃げ道はない。人狼ふうに言うならば、巣穴をふさがれたうさぎだ。


「ひ、ひとつ聞かせてくれないか。きみに依頼したのは兄上なのか?」

 その質問はほんとうに聞きたかったことでもあるし、時間を稼ぐためでもあった。しかし殺し屋は答えない。


「どこを刺せばいいかな……急所は外したいけど、あんまり浅いと毒の効きが悪いかもしれないしな……」

 ずっと独り言を言っている。会話が成立しない。


 さらに殺し屋が近づく。シヴァルは震えているだけだ。

 一転!

「うわあああっ!」

 追いつめられたシヴァルは力をふりしぼって動いた。床に落ちているレンガの破片を殺し屋に投げつけ、その隙をついて相手の脇を通って逃げる!


 そのつもりだった。

 だが、そううまくはいかないものだ。


 投げた破片は大きく狙いをはずれ、目くらましにもならず、しかもシヴァルが駆け抜けようとしたのは殺し屋がナイフを持っているほうであった。

 ナイフが彼を襲う。


 ちょうどのタイミングで、シヴァルは床の破片を踏んでバランスをくずした。これがよかったのか悪かったのか、シヴァルの肩口に毒のナイフが突き刺さる。

「があっ!」


 偶然にも昨晩黄丹が刺されたのと同じ場所だった。

 それでもシヴァルはそのまま逃げようとした。しかし数歩進んだ時点で足が萎え、全身の力が抜けて、そのまま倒れてしまう。


「あっ……ぐ……!」

「痺れ、脱力。そういう毒なんだよな。回りはじめるのが早い。で、回りきるのは遅い。苦痛は少ない……苦しませるの嫌いだからな。同僚にいるんだ、人が苦しむのが見たいってやつ……。趣味悪いよな……まあいいか」


 殺し屋はかがみこんで指輪を取り出すと、いったんシヴァルの指にはめた。

「殺しのターゲットは指輪をはめた男、と。これでよし」

 満足そうにうなずく。


「で、これは仕事完了の証拠として提出するから……」

 すぐに指輪を外して自分のポケットに入れてしまった。意味のなさそうな行為だが、わざわざ昨晩指輪を返しにきたことからしても、命令には文字通り従うというこだわりがあるのかもしれない。


 それからなにを思ったのか、殺し屋はシヴァルのかたわらに腰をおろした。シヴァルの血のついた毒ナイフをもてあそびながら、

「さあ、じゃあおしゃべりしようぜ!」

 旧知の仲のように気安い口調で言った。


「最初に訂正しておくとおれは金で雇われた殺し屋じゃない。もっとこう、隠密部隊みたいな? かっこいいやつだと思ってくれよ」

 さっきまでとはうってかわって、表情はにこやかだし瞳は輝いている。別人のようだ。


「こういう仕事してると秘密が多くてな。あれ言うなこれ言うなってなると、どうにも体のふしぶしに秘密が溜まっちゃって、動きがにぶくなる気がするんだよな。ホント勘弁してほしいよ。この感覚、だれにも同意を得られたことがないんだが、ほかの連中はおれみたいに繊細じゃないんだよな。イカれたやつばっかりでさ」


 まるで自分がまともかのように殺し屋はぼやいた。彼は死にゆく相手としか会話ができない。より長く話し込むためにわざわざ毒を自作している。きっと相手がどう思おうがなにを言おうが、そのあとですぐ死ぬという保証があるから安心できるのだろう。


 彼に名はない。見た目の印象から、ごく単純に「日陰ひかげ」と呼ばれている。

「なんでも聞いてくれよ」


 シヴァルは頭を持ちあげるのも苦しくなっている。力をふりしぼって日陰を見上げた。

「聞かせてくれ……」

「お、いいね」

「本当に、兄上なのか……!?」


 一語一語なんとか吐き出すようにして、シヴァルは聞く。

「兄上がぼくを殺せと言ったのか」

「まあ……言うなって言われてるんだけど、いいか。死ぬしな。そう、おれのボスは部屋の中でも帽子をかぶってるで有名なお方よ。まあ、名前は言ってないってことでセーフ」


 シヴァルの目が大きく見開かれた。歯を食いしばる。

「なぜ兄上がぼくを殺そうとするんだ……!」


 ジューンの推測を聞いていてもなお、シヴァルの頭に浮かぶのは、なぜ、という言葉だった。それは疑問というよりも拒絶に近い。信じたくないから、なぜ、と聞くのだ。


「よしよし、聞かせてやるよ」

 しかし、シヴァルのなぜ、は、自分ひとりの身のことにすぎなかった。まさか自分の死が、もっと大きな兄の戦略に利用されようとしているとは、まったく思いもよらなかった。


 日陰の口からそれを聞かされたシヴァルは、さらに驚愕することになる……。



「……言ってみりゃアンタも王国のためになるってことになるのかな。王子として本望じゃないかな? どうだい?」

 語りおえて日陰はシヴァルに目をやった。シヴァルは目を開いたまま動かない。まだかすかに息はあるようだが、それも消える寸前であった。


「……なんだ、もう話は終わりか」

 ちょっと名残惜しそうに日陰は立ち上がり、尻の汚れをはたく。

「いやでも、ありがとうよ。ひさしぶりに秘密しゃべりまくったおかげで体が軽い軽い。飛んでいけそうだ」


 次の瞬間、日陰は気配を感じうしろに跳んだ。かくれて観察する彼の視界に入ってきたのは、眼鏡をかけた少女の姿であった。

「あいつか……やばいな」


「シヴァル!」

 ジューンが鋭くシヴァルに呼びかけ、駆け寄った。

 ひざまずいてシヴァルのようすを確認する。一目で毒の刃を受けたと見てとった。


 そのあいだに日陰はすでにその場を逃げだして、道を走っている。

「達人の相手なんかしてられないよな。もうあいつは死ぬわけだし、報告に戻ろうっと」


 ジューンはけわしい顔だ。これはもう、解毒薬でどうにかできる段階ではない。シヴァルの魂はすでに九割がた夜の国に沈んでおり、残り一割もすぐ沈もうとしている。


 死ぬ。

 もはやジューンにできることはひとつだけだ。


 周囲に目を走らせた。物音を聞きつけて誰かがやってくる気配はなかった。殺し屋はもう遠くまで逃走している。つまりここにはジューンとシヴァルしかいない。


 だれかに見られる気づかいはない。

 それを確認するとジューンはシヴァルの脇に膝をつき、彼の肩口、ナイフに刺された傷に手のひらを触れさせた。


 するとそこから淡い光が生じた。光は傷口をあたたかくおおう。シヴァルの意識がはっきりしていたなら、それは昨晩暗闇のキッチンの隣から漏れてきた光と同じものであることに気づいたかもしれない。そして、そのあとで黄丹の容態が安定したことにも考えが及んだかもしれなかった。


 それは、失われたはずの、魔法の光であった。



 何も見えない。体の感覚もない。これが夜の国に沈むということか、とシヴァルは思った。五感が消えていく。


 最後まで残るのは聴覚だというのは本当のようだった。目が見えなくなっても、日陰が話したことはすべて聞こえていた。その後の物音もだ。どうやらジューンが来たらしいことがわかった。


 せめて殺し屋に聞いた話をジューンに伝えることができたら……。だが口を動かすことももはやかなわない。あとは沈んでいくだけだ。


 兄上……。

 シヴァルの脳裏に、まだ仲がよかったころの兄の笑顔が次々と浮かんでくる。


 と、もう感じなくなったはずの体に暖かさが伝わってきた。その暖かさは傷口から入って全身にしみわたっていく。湯を飲んだときに熱が腹へ降りていく感覚がわかるように、暖かさが四肢のすみずみまで到達していくのがわかる。


 目は利かないはずなのに、光を見た気がした。やがてその熱と光にみちびかれるように、シヴァルの意識が薄れていく。

 夜の国にしてはずいぶん明るいように思えた……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る