彼の上に日は陰った 5
水売りが呼ばわる声が聞こえてくる。ということは朝だ。黄丹は意識を取り戻した。
大きなまぶたを開ける。一つ目をぎょろりとめぐらせて、ここがどこか認識しようとする。単眼人の彼女は、自分の部屋以外で寝起きすることなどほとんどない。一瞬どこだかわからなかったのだ。
寝る前にあったことを思い出す。
「……!」
殺し屋はどうなったか、先生はどうしているのか。黄丹はケガも忘れて勢いよく上体を起こした。肩口に走る痛みでようやくケガを思い出す。
だが思ったより痛みは小さかった。黄丹が眠っているあいだに巻き替えたらしく包帯は新しいが、そこに血はにじんでいない。あの男のナイフはかなり深くまで刺さったと思ったが、実際は案外軽傷だったということらしい。
腕を動かしてみた。ひきつれるような痛みはあるが、傷口が開いて出血するようなことはなかった。
ほかに不調な点はない。
自分の体の調子を把握した黄丹は室内に視線を移した。
「先生? シヴァルくん?」
誰もいない。
近くの床に血のついた布が落ちている。交換する前の包帯だ。替えておいて後片付けをしないのはジューンらしい。
室内は乱れていないが、なにかあったのだろうか。にわかに緊張が走る。寝ていられないと、黄丹はソファから降りて立った。
そこへジューンが帰ってきた。
「先生」
ほっとした声が出てしまう。
「ケガ人は安静にしていたまえ」
ジューンは両手にライ麦パンのサンドを持っていた。朝からやっている屋台の品だ。
「ほら」
野菜サンドのほうを黄丹に手渡し、自分ははちみつバターたっぷりホイップサンドにかぶりついた。
黄丹も昨晩食べていないので、ありがたくいただく。片腕がまだ不自由なので残念ながらジューンのお世話はできないが……。
食べ終わった。ジューンはべたべたになった両手をなめてからタオルで拭いている。いつものジューンのようだが、黄丹の一つ目には、微妙に雰囲気が異なっているように見える。もしかして、あまり機嫌がよくない……?
黄丹は質問した。
「先生。シヴァルくんはどこですか」
ジューンの表情に目立った変化はなかったが、やはり上機嫌には見えなかった。
黄丹が眠ってから、昨晩シヴァルが姿を消したことまでを、ジューンは話して聞かせた。ただし兄の角のことだけは約束どおり口にしなかった。
黄丹は大きな単眼をもっと大きくして驚いている。
「王子さまには見えませんでしたね」
そもそも黄丹は王族や貴族をあまり知らない。単眼人の国にも、ドラグニールにもそういう階級制度はない。だから微妙な物腰などでは人族の階級を判断できないのだ。
とにかくシヴァルは去った。
「でもどうしてです? 先生のそばにいるほうが安全だと思うんですけど……」
「キミが傷ついたのを目の当たりにして、ボクたちを巻き込むことを恐れたのだろう」
これもジューンにはめずらしく、シヴァルの行動に不満を抱いていることを感じさせる口吻だった。ほかの人には平静に見えるだろうが、黄丹はごまかされない。
不機嫌で、いらだっている。
「それは残念です」
黄丹はそれこそ平静な声で応じた。まるで、もう終わったこととして処理したみたいな口調だ。
「でも彼が去ってしまったのならば仕方ありませんね。では今日の仕事ですが、昨日の案件の報告書を六国法院の調停事務局に提出しにいかないといけませんね。そのとき、できればほかの案件をもらってきてください。まだ経営状況は順調とは言いがたいですし」
黄丹は日常業務の話をジューンに振った。
「うむ……そうだな」
ジューンの返事は煮えきらない。
「どうしたんですか、先生」
さらに黄丹が問うと、ジューンは眼鏡越しにじろりと見た。
「キミ、わざと言っているだろう」
「はい」
しれっと黄丹は肯定した。
シヴァルのことはもう終わったというような口ぶりだったのは、ジューンがそう思っていないことを承知で、あえて挑発したのである。
「捜しにいきたいのでしょう、先生?」
シヴァルは殺し屋に狙われている。土地勘のない、知り合いもないドラグニールの中を彼がどれだけ逃げることができるか。難しいだろう。遅かれ早かれつかまることは容易に想像できた。
そんなシヴァルを、ジューンが黙って放置するわけがないと黄丹は信じている。
「しかし……」
なにかを懸念している表情でジューンはためらった。
その懸念がなくなるように黄丹は笑顔を作った。
「わたしのことなら心配いりませんよ。もう殺し屋はこの事務所には来ないでしょう。王子がいないのですからね」
ジューンは、ケガで動けないであろう黄丹が心配で、事務所を離れることを躊躇しているのだ。さっき買ってきたサンドだって、以前からジューンは味に文句を言っていた店のものだ。それでも今朝買ってきたのは、そこの屋台が事務所からいちばん近くに出ているからだ。
しかし、ジューンはふんぎりがつかない。たしかに殺し屋はシヴァルを追っているはずだし、ジューンの実力を警戒しているだろうから、事務所に再来する可能性は低い。だが絶対確実というわけではないだろう。
黄丹はさらに続けて、
「すぐ捜しに出ないのなら、ほんとうに今日の仕事してもらいますからね。わたしができないぶん事務仕事してもらいますよ」
ジューンはその後押しを受けて、ようやく立ち上がった。危険を承知で尻を叩いてくれた秘書に感謝の目を向ける。
でも、口に出してはこう言っただけだ。
「キミも性格が悪いな」
黄丹もジューンがわかっていることをわかっている。笑ってこたえた。
「今ごろ気づいたんですか?」
(@_@)
昨日と同じ部屋で、ライマンはけげんそうな顔をしてジューンを出迎えた。
「二日つづけてとは、センセイにも似ないこった」
ライマンは眠そうだ。まだ朝だ。きっとこれから寝るのだろう。
「追いはぎ犯を殺したやつの情報を知りたい」
シヴァルをさがす前に、殺し屋の動きがわかればそれにこしたことはない。
ライマンの目が細まり、油断ならぬ表情になった。
「昨日はあんまり興味がねえみたいだったが? いったいどの方角に風向きが変わったんです?」
事情が変化したことをあらわす人族の慣用句を口にした。鮫人なら水の流れが変わった、双角人なら雲のかたちが変わったと言うところだ。
「犯人についちゃおれたちが追ってるんですがね」
殺されたラッチたちはライマンの組織の者でなかったとはいえ、なわばりでの殺しだ。かなり熱心に調べているにちがいない。
だからジューンはここに来たのだ。
「こちらは被害者なのだ。聞かせてもらってもかまうまい」
事情を話すわけにはいかない。シヴァルが狙われていることを知れば、ライマンは当然その理由を推測するだろう。王族とまではばれないとしても、自身が推測していた貴族の内輪もめが事実だったということはすぐにぴんとくるにちがいない。
一枚噛むことで大きな利益が得られるかもしれない、という功利心を刺激しかねないのだ。たとえばシヴァルの身柄をマフィアで押さえて、一番金になりそうな者に売りわたすくらいのことはやる。
ジューンとしてはライマンにシヴァルの情報はやりたくない。ただでさえ昨日直接会って、ディントの貴族であることがばれているのだ。
ライマンは手にした棒で床をコツコツ打った。
「言わないってことも情報のひとつになるんですよ、センセイ」
「ボクは会話の駆け引きを楽しみにきたわけではないのだ、ライマン・ザ・スティック」
ジューンはみごとに顔から感情を消している。調停士としての必須スキルだ。中立たるべき調停士が当事者に表情を読まれては仕事は立ちゆかない。本気を出せば黄丹でも見破れるかどうか。
「しょうがねえ、センセイには昔の借りがありますからね。おい」
と脇にひかえた男……きのう棒でぶたれたやつだ。傷はたいしたことがなかったらしく跡も残っていない……をかえりみる。
「先生に教えてさしあげろ」
ラッチたちの死体からは殺人者の身元につながるような手がかりは一切なく、目撃者もない。その徹底した手がかりのなさが逆に、殺人者がプロであることを推測させた。
言わないのも情報のうち、痕跡がないのも手がかりのうち、というわけか。
プロの線で探りを入れたが、ドラグニールの闇社会からはなにも出てこなかった。つまり外国の息がかかった殺し屋、それもおそらくは単独行動であろうというところまで絞れてきていた。
なるほど、ライマンたちの組織もなかなか有能らしい。
「ゆくえを探らせちゃいますがね、霧か煙かって具合で。……それにしても、なんでそんな外国の殺し屋がラッチなんぞを殺ったんですかねぇ……?」
ライマンがこちらの腹を探ってくる。ジューンは、もはやここではろくな情報が聞けないと見切って立ち上がった。
「ひとつ言っておくが、ボクの前をふさぐようなことはしないように」
「まさか、そんなことは考えちゃいない。センセイの強さはよーく知ってるんでね」
降参したようなポーズを取るが、前をふさがないとしても、うしろから出し抜くチャンスは狙っているにちがいなかった。
だが、釘は刺した。少なくとも大っぴらにジューンの邪魔をしたりシヴァルを拉致したりはするまい。それくらいで満足すべきだろう。
しかし、シヴァルや殺し屋の居場所についての見当はまるでつかない。その意味ではあまり来た意味はなかった。
こうなったら、とジューンは決意した。あそこへ行ってみるよりないだろう。
(@_@)
しばらく歩いて空腹に耐えかねたとき、シヴァルは金の持ち合わせがないことに思い当たった。そういえばふつう飲み食いには金がいるのだ。ドラグニールへ来る旅で学んだつもりだったが、王子だったころの地金が出てしまったようだ。
すでに日は高くのぼっている。こんな時間に、ひと気のある場所で、殺し屋は襲ってこないだろう。きっと。だからずっとシヴァルは人のいる大きな道を選んで、目的も無いままなにも考えず歩き続けていた。
空腹によってようやく現実に引き戻された感覚だ。
屋台が目にとまった。魚や貝を煮込んだスープを売っている。匂いがただよってきた。たまらずシヴァルの足はそちらへ方向を定める。
「店主さん」
声をかけると、上半身裸のかっこうをした屋台の主人はシヴァルをじろりと見て、無愛想に返事をした。
「なんだ」
「持ち合わせがないんだ。なにか金銭以外の対価でスープをいただけないかな」
主人は人族なら鼻を鳴らすところで首のエラを動かした。鮫人だ。
「そういうのはおまえさんとこの種族の店でやりな」
険悪な口調でそう言うと、主人はスープの仕込みにもどり、シヴァルをもう相手にしない。
シヴァルは急な悪意にとまどって、
「そこをなんとかならないか」
「わかんねえやつだな。どっか行けって言ってんだ。ここは人族が遊びで来るようなところじゃねえよ」
周囲を見て気づいた。このあたりの道を歩いているのはほとんどが鮫人だ。薄着で、すぐ水に入れるようなかっこうをしているのと、えらがあるのが特徴の、水陸両棲の種族である。
ゆくてに横たわるように大きな川が流れているのをシヴァルは発見した。ドラグニールの南を通る、明河だ。明河の近くには鮫人が多く住むが、そこへ入り込んでしまったらしい。
鮫人たちは、異分子であるシヴァルを一様に警戒の目で見ている。今までシヴァルがその視線に気づかなかったのは、身分の高い者特有の、他者の視線に対する鈍感さのせいだろう。
ここらの鮫人たちはシヴァルという個人を歓迎しないのではなく、人族を嫌っているらしい。
スケイル地区ではいろんな種族が雑じって暮らしていたが、ドラグニールにもこのような排他的な地域があるのだとシヴァルははじめて知った。
ジューンががんばって個別の案件を調停していくのは、どうにかこんな雰囲気を変えたいと思っているからなのだろう。
空きっ腹をかかえたシヴァルはうなだれて今来た道を戻りはじめた。
歩く、歩く。
どうしても足早になりがちだ。もしかしてどこからか殺し屋が見ているかもしれないと思うと、背中がちりちりと焦げるような錯覚をおぼえて、そのたびごとにうしろを振り向く。
気づけば周囲が賑やかになってきた。どこかの門の近くまで来たらしい。荷車や荷を背負った人たちが多く行きかっている。
この人ごみならまぎれやすいかもしれない。
すこし安心しかけた。……しかし、その瞬間、視界の端にそれを見た。
昨晩の男がこちらを見て立っている。
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