彼の上に日は陰った 3
「えっ、もう仕事を終えてきたんですか? さすが先生! 愛らしい! そして最高の調停士です!」
途中関係ない評価が入った気がするが、ともかく事務所で待っていた黄丹は手放しでよろこんだ。
「ドンクの店の件とあわせれば、キミの給料もとどこおらずにすむだろう」
「ありがたいことです」
黄丹は紙束を持ってきてテーブルの上に置いた。
「シヴァル、キミはそこの椅子に座りたまえ」
ジューンも近くの椅子に腰かける。黄丹がテーブルの上に紙を広げ、ペンを手にした。ふたりの表情は、いつのまにかきびしく引き締まっている。
「はじめよう」
シヴァルが驚愕したのは、ジューンの記憶力だった。今日の面談の最初から、全員の発言を一言一句憶えていて、それを再生させるように語りつづける。ときおりシヴァルにも確認するが、ほとんどその必要もないほどであった。
そして黄丹が口述に劣らない速度で紙に書きとめていく。
ふたりとも、ほとんど人間業とは思えない。魔法のようだとシヴァルは思った。
しかし実質一日かからず終わった今回は楽なほうだという。何日も続く調停、飛び飛びで長期間かかる調停もあり、そんなときでも、案件が終了したさいには最初から最後までジューンはすべてを口述できるという話であった。
面白いことに、黄丹に書き記させてしまうと、その案件についてはおおまかな記憶しか残らなくなるのだそうだ。
そして筆記が終わると仕事の検討に入る。ここの対応は最善だったか、感情に配慮できていたか、など振り返って吟味するのだ。それは必ずしも時系列順とはかぎらない。
いくつかの検討のあと、ジューンはついにその場面について話すことにした。
その場面とは……つまりラギ・ラギとの個別面談の場面である。
あのときのシヴァルはあきらかにおかしかった。
「ボクは黙っているように言ったはずだが、なぜ勝手に話したのかね」
けっしてジューンは怒っているわけではないが、冷静な追及はときに怒りよりも危険である。
「すいません。もうしません」
「うん、そうしてくれたまえ。だがボクは原因を聞いているのだ」
謝ったり、今後のことを話してほしいわけではない。
シヴァルは
「言わなきゃだめですか?」
「ボクはキミの来歴を聞かないまま雇った。身元よりもキミの心根が貴重だと思ったからだ。言いたくなければ言わなくてもいいとね」
事情を知らないながら、ただの反省会とは空気がちがうことを察した黄丹は、大きな一つ目をジューンとシヴァル交互に向けていた。
ジューンはつづける。
「だが調停に差し障りが出るとなれば話は別だ。原因がわからないでは、キミのもうしないという言葉を信じるよすががない」
シヴァルの唇はかたく引き結ばれていた。
「それに……」
ジューンは言いかけた言葉を飲み込んだ。ライマンから聞いた推測……シヴァルが貴族だという……を話そうと思ったが、まだシヴァルが何も言っていないのにそこまで踏み込むのは行きすぎだと思ったのだ。
「いや。ボクはキミを信用したいのだ」
だから話してほしい、と、ジューンは眼鏡ごしの真摯な瞳を彼に向けた。
「……先生はどこまでわかってるんですか」
「推量がいくらか。確実なことは、何も」
しかしシヴァルは沈黙した。
まだ言えない……と感じている。スペクタクル・ジューンという人物は聡明で信頼にあたいするように思えるが、まだ彼女と出会ってたったの一日なのだ。全裸を見られているとはいえ、すべてをさらけ出す勇気はまだなかった。
ふたり、向き合ったまま、おそろしい数秒の沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのは、ジューンの声でもシヴァルの言葉でも、黄丹の仲裁でもなかった。
急に腹が鳴る音が響いたのだ。空気が一気に弛緩する。
ジューンは気まずそうに視線をそらした。音は彼女の腹部から発せられていた。
シヴァルが窓の外を見ると日が落ちている。室内の照明をいつの間にか黄丹が点けていたことにも彼は気づいていなかった。
夜になったことにジューンも気づいた。
「もうこんな時間か。反省会はこのくらいにして、晩ご飯を食べにいこうじゃないか」
今はこれ以上押してもシヴァルが話すことはないだろうと見切りをつけた言葉であった。
黄丹がまず立った。
「はい、先生。『ドンクの店』ですか?」
「うん」
追及の矛はひとまず収まった。シヴァルはほっとしたようすで息を吐く。
しかし、ほっとするのはまだ早かった。
彼が立ち上がったとき、事務所の呼び鈴が鳴ったのである。それは、せっかくシヴァルが言わずにすませたことを引きずり出すために、運命が響かせた音であった。
「こんな時間に、お客でしょうか」
「トラブルは時間を選ばないからね。トラブルはよくないが、仕事が増えるのはいいことだ」
黄丹が来客を迎えにいく。戸口に立っていたのは、どこか眠そうで、けだるげな、若い人族の男であった。
「調停のご依頼ですか?」
「ああ……いや、あの……先に出しときゃよかったかな……これ。失敗したな」
ひとりごとを言いながら、男は内ポケットからなにかをつまんで出した。
指輪であった。事務所内の明かりを受けて、真鍮のにぶいきらめきが生じた。シヴァルの表情が変わる。
「拾ったんだけど、落とした人がいるんじゃないかと思ったんだよな……どうだろう、いそうかな」
シヴァルは近づいてよく見た。指輪にほどこされた彫刻は馬の意匠である。どこにでもあるものではない。前脚のひづめが少し欠けているのも一致している。指輪の内側にはシヴァルの頭文字が彫られていた。
まちがいない。
「……ぼくの指輪だ!」
「やっぱり彼の指輪らしい。いったん返そうと思って来てよかった」
男はシヴァルに向けて指輪を突き出した。シヴァルはそれを受けとろうとした。
「待った」
ジューンがそれを制止する。
「なんですか……?」
「すこし下がっていたまえ」
シヴァルを奥にやってジューンは男の正面に立った。
「ふたつ質問がある。どこで拾った?」
が、男は目を合わさず口の中でなにかぶつぶつ言っている。よく聞くと、スケイル地区の通りの名をつぶやいていた。そこは、シヴァルを追いはぎしたラッチたちの死体が見つかった近辺だ。たしかに落ちていたとすれば見つかるのはそのあたりだろう。おかしい点はないように思える。
「ではもうひとつ。――なぜここに落とし主がいるとわかった?」
その言葉に男の目が光った。
男の手がひらめいて、きらりと光るなにかがシヴァルめがけて飛ぶ。一直線に疾る。だれも反応できないと思われるほどの速度であった。
しかしシヴァルの体に到達する前に、ジューンがそれをひょいとつかみ取った。
ごく小さいナイフであった。茶色く濡れているのは毒にちがいない。
「なるほど殺し屋か」
「おい、まじかよ。こんなところに達人がいたぞ」
男はうんざりしたようにつぶやいた。ずっと半眼だった目がわずかに見開かれている。
「追いはぎたちを殺したのもキミだな?」
「まずいな。楽な仕事のはずだったのに……」
男が動くのを見て、すぐそばにいる黄丹が彼を捕らえようとする。ただの単眼人の女ではない。スペクタクル・ジューンの秘書だ。彼女には武芸のたしなみがある。
だが男のほうが迅い。彼の袖からナイフが滑り出た。よどみない動きで黄丹を刺す。黄丹はかわそうとする。かろうじて急所は避けた。が、刃は肩口に突き刺さった。血の赤が散る。
痛みに顔をゆがめる間もなく、もう片方の手のナイフが確実なとどめを狙ってすでに繰り出されている。
ジューンが割って入った。黄丹を押しのけ、ナイフをさばく。手を伸ばして男を掴まえようとした。
玄関口にいた男はその手を間一髪でのがれ、道まで飛び退いた。
ジューンが路上に出たときには、男はすでに夜の闇の中にまぎれて消えている。
「シヴァル!」
叱咤するような声でジューンが呼んだ。シヴァルは急展開に頭がついていけていない。戻ってきた指輪、見知らぬ男、ひらめくナイフ、見た目からは考えられないジューンの動き、黄丹の血……。立ち尽くしたままだったシヴァルはもういちど強く名を呼ばれてやっと我に返った。
「水を持ってきてくれたまえ。それから清潔な布を」
「どこにあるんです?」
「わからない!」
水はともかく、清潔な布のありかはジューンも知らなかった。
苦しげな息の合間から黄丹が言う。
「キッチンの……奥の棚にあります」
布がしまってある場所を口にしたあと、青い顔で笑った。
「……やっぱり先生にはわたしがついていないといけませんね」
「ああ、そのとおりだ」
ナイフを抜き、傷口を洗い、止血して、布で縛る。不器用なジューンは何度も黄丹の顔をゆがませてしまった。
気丈にも意識をたもっていた黄丹だったが、処置が終わった時点で意識を失った。ソファに寝かせている。昨晩はシヴァルが使っていたソファだ。
ジューンの顔はけわしい。黄丹はぐったりと動かない。意識があったときから体の動きがままならないようすだった。投げナイフと同じように、彼女を刺したものにも毒が塗られていたのかもしれない。
ふう、と息を吐くと、ジューンは雰囲気を変えるためか少しわざとらしく明るい声を出した。
「シヴァル。少し外してくれないだろうか。ボクも汗をかいた。体を拭きたいのだ」
ジューンは自分の服の襟首に指をひっかけて少しひっぱった。シヴァルの位置から彼女の鎖骨とその先がちらりと見える。シヴァルは目をそらした。
「それとも、見たいのかな? 子供のようだからと妖精の娼婦を好む男がいると聞くが、キミもそのたぐいか?」
「い、いや、そんなことはないです」
シヴァルは急いでキッチンへ逃げ込んだ。
扉を閉めてしまうと、キッチンの中は暗闇になる。ドアの隙間から光が入ってくるていどだ。
なぜ急に体を拭きたがりだしたのか、シヴァルにはわからなかった。黄丹の具合もよくないというのに。心を落ち着かせるためか、それとも女性とはそういうものなのか?
と、漏れ入ってくる光が急に強さを増したようであった。
向こうの部屋にそんな光を放つような道具でも置いてあっただろうか?
一瞬、隙間に顔を近づけてのぞこうとしたが、ジューンが服を脱いでいる可能性があるのを思い出して、慌てて離れた。
そんなことをしている間に光のようすはもとに戻っていた。
「もういいぞ、シヴァル」
言われてドアを開けたが、部屋のようすには変わったところはない。ランプの火が一瞬強くなっただけかもしれなかった。いまはそんなことを気にしている場合ではないと、シヴァルはジューンと黄丹に目を戻した。黄丹の呼吸は規則ただしくなっている。刺された直後に比べてだいぶ落ち着いたようだ。シヴァルはほっとした。
「黄丹は大丈夫だろう」
「よかった……。ところで先生、強いんですね」
シヴァルは投げナイフを簡単にキャッチしたことを言っている。
「あれだけできるんなら、ドンクの店とかマフィアのところで、もっとかんたんにコトがはこべたのでは……」
「腕っぷしで言うことをきかせればいいということか?」
「いえ、あの……すいません」
ジューンのセリフにまぶされたトゲに、シヴァルは思わず謝ってしまった。
それを見てジューンはため息をつき、
「いや……実は以前やったことがあるのだ。強い力を誇示して無理に揉めごとを収めたことが。たしかにそれで解決はしたのだが……。後悔した。今もしている」
ジューンは黄丹の寝顔を見ながらつづける。
「力による支配は調停からもっとも遠い行ないだと思わないかね。それでは一〇〇〇年前の竜族と同じだ。そうだろう」
ジューンはシヴァルが部屋にいないうちに考えをまとめていた。
あの男はプロフェッショナルといってまちがいなかった。それほど殺しの技術に長けている。そいつが、あきらかにシヴァルを狙ってきた。黄丹はその障害になったから排除されようとしたにすぎない。ターゲットはシヴァルだ。
「ドラグニールは自由な都市であるべきだとボクは思っている」
どのような立場だったとしても、ドラグニールでは一市民として出発できる。そんな都市にしたい。
だからジューンはさっきシヴァルの出自を無理には聞かず、話す気になるまで待とうとした。ディント王国の貴族であろうと、どんな事情で国を出てきたのだろうと、ドラグニールに来た以上はドラグニールの住人としてひとしなみにあつかう。そのつもりだった。
「だが、こうなっては答えてもらわざるをえない」
ジューンは眼鏡を光らせてシヴァルを見据えた。
「――キミはいったい何者だ?」
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