タナガー商会のケース 3
幼いシヴァルは屋敷の庭を駆け回っていた。侍女を引き離し、庭師にぶつかりそうになりながら、幼児特有の、小さな体におさまりきらないエネルギーを発散するみたいに走っている。
剪定された木のあいだをぬって走る。たしか、チョウかなにかを追いかけていたような気がする。
突然、巨大な犬が現れ、まっしぐらにシヴァルめがけて駆けてきた。
あとから思えば野犬が庭に入り込むわけがないし、サイズはせいぜい中型犬程度だった。走ってきたのも襲いかかったわけではなく人にじゃれかかろうとしていただけだろう。
だが幼子の目には、魔物のような獣がよだれを垂らして自分を食いちぎりにきたように見えた。
シヴァルは硬直したままなにもできなかった。恐怖の魔獣がやってくるのをただ待っているだけだ。
そのとき、シヴァルをだれかが抱きあげた。
そのときはよほど大人の男のように思えたが、考えてみれば今のシヴァルと大差ない年齢だったはずだ。
じゃれかかる犬からシヴァルを遠ざけながら、彼は柔和に笑いかけた。
「やあ危なかった。シヴァルだね」
父と母以外にシヴァルを呼び捨てにする人はいないはずだった。シヴァルはまだ恐怖の硬直がとけないまま、硬い声でたずねた。
「……だれ?」
「ぼくはきみの兄さんだよ。マイザーンっていうんだ」
シヴァルはまじまじと、すぐ近くにあるその人の顔を見つめていた。
兄がいることは母から聞かされていた。しかしシヴァルにとってはおはなしの中に出てくる存在であって、歴史上の人物や会ったこともない貴族やおとぎ話の登場人物と同じカテゴリーだったのだ。
ほんとうにいたなんて。
シヴァルはもう犬のことを忘れていた。
ぽかんと口を開けているシヴァルに対してにっこり笑うと、
「きみの母さんはむこうだね。行こうか」
兄とシヴァルは母が違った。この年まで会ったことがなかったのはそれが原因であった。
シヴァルの母はいつも言っていた。兄はつよくてかしこくて、やさしくて、将来父のあとを継ぐのになんの欠点もないと。だからシヴァルは兄の役に立つよう努力しなければいけないのだと。
そうして、兄弟で協力していくのだと。
それまでは言われたことがよくわかっていなかったが、実物の兄を見たことで、シヴァルはごく自然にそれを飲み込むことができた。なにせ、あのおそろしい犬から守ってくれたのだ。
ああ、自分はこのひとの役に立つためにがんばろう。この大きな人は、ごく自然にそう思わせる雰囲気をまとっているみたいだった。
「あにうえ」
シヴァルは、兄に対してはそう呼べと母に言われた言葉を口にした。
兄はうれしそうにこっちを見た。
「そうだ、ぼくはきみの兄だ。たとえ、髪や瞳の色がちがっていてもね」
(@_@)
よほどジューンの身が心配だったのか、黄丹が来たのは翌朝早く、まだ太陽が昇るかどうかといった時間であった。
「おはようございます!」
シヴァルがちゃんと一階で寝ているのを確認して一安心したようだ。
むくりと起き上がったシヴァルはあくびをひとつしようとして、途中で口を開けたまま固まった。黄丹がおかしなものを手にしていたからだ。
「なんでそんなの持ってるんですか……?」
若干彼女から距離を取りながら聞く。黄丹が持っているのは剣だった。さすがに鞘に入ってはいるが……。
「これ? あまり気にしないでいいですよ。別にシヴァルくんがおかしなことをしていたら切り捨てようと思ったとかそういうことではないので」
大きな単眼で見すえられて、まるで金縛りにあったようだ。
「ほ、ほんとですか?」
「それより、朝やることを教えますから起きてください」
やるべきことはいくらもある。水汲み。洗濯。朝食の用意。黄丹は、きのうの紅茶のカップがキッチンに置きっぱなしになっているのを見て、
「洗い物も教える必要があるようですね」
と溜め息をついた。
きのうより掃除の手際はましになっているはずだ。シヴァルは教わったことを思い出しながらほうきを使う。
起きてきたジューンは、今日はさすがに肌着ではなかった。
「先生おはようございます」
「おはよう……なにかねその剣は」
「寝室に置いていただきたいと思いまして。侵入者対策に」
ちらっとシヴァルのほうを見た。彼は視線に気づいていない。ジューンは苦笑して剣を受け取った。
「すこし過剰な反応ではないかな」
「すみません」
というところを見ると、大げさなことは自覚があるようだった。
黄丹の報告で、ラギ・ラギの兄サークに対する面談は、タナガー商会まで来てもらえれば時間はいつでもいいということだった。
「早く終わらせたほうが黄丹もよろこぶだろう」
ということで朝食後すぐに向かうことになった。
黄丹は留守番、おともにはシヴァルを連れていく。そのことに黄丹は多少の不満顔を見せたが、
「新人の研修のようなものだと思いたまえ。キミならひとりで残しても心配ないしね」
というジューンの言葉に納得したようだった。
街に出たジューンとシヴァル。今日も三本の塔がそびえ立っている。空は薄暗く、黒雲におおわれている。雨になるかもしれない。
「今日こそは黙っていてもらうぞ」
とジューンは念を押した。
「わかってます」
ジューンは通りを足早に歩く。身長が低いのでどうしてもちょこちょこといった印象をぬぐえないが、本人は堂々としているつもりだ。そのうしろをシヴァルがついていく。
四つ角に人だかりができているのが見えた。まんなかにいる派手な服の男が、紙を何枚も貼りつけたボードを指し示しながら、周囲の人たちに語りかけている。
「あれはなんですか?」
「賭けニュース屋だ」
各国の情勢がどうなるかというのを賭けにしている商売だ。妖精ばりに派手な服を着たニュース屋は樹精であった。ラングルを着ていないのはより目立つためだろう。
双角人の国、ダイガラ王国の姫の婚姻が近いが、はたしてどの部族から婿を取るのかという賭けが行なわれているようだ。
「それともうひとつ、これはニュースというわけではないが……常設の賭けがある。ディント王国は竜の盟約を破るかどうか」
そう言ってジューンは、眼鏡のレンズ越しにディント王国から来た少年の顔を見た。
ディント王国がドラグニールに野心を抱いているというのは、現国王が即位してからずっと、皆の知るところである。ディントの現国王は強靭な意志と実行力を持ち、『斬首王』と言われるように反対者への苛烈な対応で知られる専制者だ。
そんなディント王でも、現在までのところは、さすがに竜の盟約を破ってまでドラグニールに攻め込もうとはしていない。
「だが、賭けの対象になるということは、盟約の効力が絶対ではないと考える者が増えている証左だ。残念ながらね」
ジューンは世を憂えるような表情でそう言った。
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