きょうは最悪の日

 どうしてこうなった。


 きのうは最高の日だった。思ってもみなかった高額の稼ぎがあり、弟分たちともどもしばらくは遊んで暮らせるはずだったのだ。

 それが、どうしてこんなことに。

 ラッチは地に這いながら天上神を呪った。


 ラッチは、腕力にものを言わせるガキ大将が、知能はそのまま、倫理観はより悪いほうへ成長し大人になったような男であった。数人の弟分といっしょにケチなゆすりたかり、追いはぎ、盗みなどを行なうグループのリーダーである。あまりにケチな悪事のため、警察や、大きなマフィアの目からこぼれているようなチンピラだ。


 ところがきのう、そんなケチなラッチ一味に幸運が舞い降りた。迷子の旅人を襲ったところ、まとまった金を手にすることができたのだ。現金以外の持ち物もいいものばかりで、高額の換金が期待できた。旅人は上流階級の人間にちがいなかった。着ているものも上等だったので脱がせたところ、下着までシルクだったのだ。


 その金で一味はこのごろご無沙汰だった娼館へ向かい、夜が明けるまでめったにない豪遊に興じた。

 そこまではよかったのだ。


 日もいいかげんにのぼったころ――これはスペクタクル・ジューンの事務所でちょうどシヴァルが目を覚ました時間にあたるが、その同時性に気づいた者はこの世のどこにもいない――ラッチとその一味は娼館を出て、街をぶらつきだした。まだ昨晩の興奮が体内に残っており、それを鼻息として噴き出すように歩いた。


「……ああ、まちがいないこの指輪だ」

 浮かれ騒ぐ一味の中に、いつの間にか知らない男がひとり混じっていた。目にくまのある、眠そうな半眼の男。人族だ。ラッチの手に顔を近づけて仔細に観察している。いちいち動きがけだるげだ。


 ラッチは指に指輪をつけている。真鍮の指輪だ。これも当然、きのうの旅人から紳士的に譲渡してもらったものだ。ラッチにはわからないなんらかの意匠が刻まれている。大した金にならないから戦利品として所持していた。


 その指輪に、半眼の男は目をつけたのである。男は次にラッチの顔を無遠慮に見やった。

「でも人相は聞いたのと全然ちがうな……別人か? 探しなおしは勘弁してほしいんだけどな……」

「おい、誰だてめえは!」


 ラッチが大声で威嚇する。体格のいいラッチが凄みを利かせると、双角人や満月近くの人狼以外はだいたいが目をそらすのだ。

 男も目をそらしたが、単にラッチの顔を見終わっただけで、威嚇が効いたようすではなかった。

「てめえなめてんのか! おお?」


「ラッチくんやっちまえよ!」

 眠そうな男は、取り巻きの言葉を聞き逃さなかった。

「ラッチくん? 名前もちがう。でもその指輪してるやつって念を押されたんだよな……。どっちを信じりゃいいんだ? 名前と人相か? それとも指輪か? ああ面倒くさい」


 ほかの者に向かって言っているわけではなかった。さっきから彼はずっとひとりごとを言っているのだ。


「何をぶつぶつわけわかんねえこと言ってんだ!」

 ラッチの拳は空を切った。眠そうな男がゆるゆるとした動きでよけたのだ。何度やっても同じだった。

「て、てめえ……!」


「ラッチくん、まずいって。ここじゃ警察が来る」

 通行人が遠巻きにながめていることに気づいたラッチは、男を囲んで別の場所に移動した。男は抵抗しない。


 ドラグニールは膨張をつづける都市である。そのぶん密度が薄い場所も多い。人の来ない路地、ゴミしかない袋小路、うち捨てられた空き家……そういったところがいたるところに存在している。ラッチたちが男を連れてきたのも、そういう人目のない一角だった。


 そこで男を痛めつけてやるはずだったが、無残な結果に終わった。

 男はけだるげな動きのままナイフを取り出し、まるでリンゴでも摘果てきかするみたいにラッチの弟分たちの喉を切り裂いていった。だれも声を出す暇がないほどの流れ作業であった。


 そのあと男は別のナイフでラッチの腹を刺した。

 寝不足のせいもあり、悪夢の中にいるみたいに立ちつくしていたラッチは、逆にそれで正気を取り戻し男に襲いかかった。まだ戦意はおとろえていない。以前別グループとのけんかのときに、腹に三本ナイフを刺されたまま相手を殴り倒したこともあるのだ。


 しかしこのときラッチの体は意思をうらぎった。拳を握ることもできず、全身の力が抜けてラッチは地に伏した。体がしびれて動かすことができない。

「毒か……!」


 ラッチが麻痺すると、男はそのすぐそばに腰を据えた。おびえた目でそれを見上げるラッチ。男の目つきが明るくなっている。友人と会ったみたいに快活に、男ははじめてラッチに話しかけた。

「ちゃんと動けなくなってるな。さあ、おしゃべりしようか」


 そしてさっきまでとは別人のように饒舌になって語り出した。この男、毒が回って無力になった相手としか話せないらしい。

「これはおれが自分で調合した特別な毒で、痛みなく逝けるから安心してくれ。どうやって作るかっていうと、まずリュウシュを干してな。この干し加減が大事なんだ……」


 どうしてこうなった。ラッチは絶望的な状態で男の話を聞くことしかできない。

 ひとしきりしゃべった男は、ラッチの指から指輪を抜き取った。


「これで仕事がすんだらいいんだが、まあ別人だろう。ラッチくん、まだギリギリ口きけるよな? ふたつばかり質問があるんだ。聞かせてくれよ。アンタ、この指輪をどこで手に入れた? それから……」


 ラッチの顔をのぞきこむようにして、


「シヴァルって名前に心当たりは?」

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