はだかの少年 5

 鼻の痛みとともにシヴァルは目を覚ました。一瞬自分のいる場所がわからなかったが、わずかに見覚えがあった。ジューンの家だ。一階の、来客用のソファに寝かされていた。掛け布団がわりに、昨日着なかった服たちが体にかぶさっていた。


 体を起こすと、身につけたラングルの胸元あたりに血が散っている。これは鼻血のあとか。顔面を殴られたのをシヴァルは思いだした。顔をしかめると鼻に痛みが走る。

「おはよう。起きなかったら医者を呼ぼうと思っていたところだ」


 そう言いながら、ジューンが部屋に入ってきた。

「殴られて失神したことはおぼえているかね」

 シヴァルはうなずく。

「あれからどうなった?」


「決闘にはならずにすんだよ。ケガをした者はいない、キミ以外には」

 ジューンは手にした木製マグをシヴァルに手渡した。中身は水だ。この町を通る明河めいがの水を煮沸しゃふつしたもので、桶をかついだ水売りが毎朝売りにくる。


「キミも鼻は折れていないそうだ」

 シヴァルはマグの水面に映った自分の顔をのぞきこんだ。鼻の具合は小さくてよくわからない。そっと触ってみると、ほんとうに折れていないのか疑いたくなるような痛みが走った。


「あやうくいい男になるところだった」

 シヴァルの軽口にジューンは口元をゆるめたが、すぐにまっすぐに引きなおす。

「しかし、無茶をしたものだな」

 咎める口調でなくジューンはそう言った。


「あなたには恩があるから」

 ごく真面目にシヴァルは答える。

「パンチ一発が宿代というわけか。割に合うかな」

 からかうようにジューンは笑った。

「ところでキミは行くあてがないのだったな。無一文で」


「……うん」

 いきなり厳しい現実を思い出させられてシヴァルの表情が沈む。眉毛がへなりと下を向いた。

「働き口も見つけていないわけだ」

「そうなる」

「どうするつもりかね」


「どうしよう……」

 シヴァルの口調は頼りない。裸で震えていたときと同じくらいこころもとなかった。そして、そうしながらも子犬みたいな目をジューンにときおり向けてくる。ジューンを頼りにしているという視線だ。言葉に出さないのは、そこまで世話してもらうのはあつかましいと思っているからだろうが、そんな哀れっぽいまなざしを向けられては、口にしているのといっしょだ。


 実のところジューンは彼を泊める気はなかったのだ。食事はおごる。それから、いくばくかの金をわたして別れる。昨晩はそのつもりだった。一介の調停士としては十分な親切だろう。ジューンは無制限の慈善家ではないし、慈善家になるつもりだとしても無制限のお金はなかった。泊めたのはアクシデントだ。


 シヴァルは困った顔でチラチラ見てくる。

 やれやれ……。ジューンは口を開いた。


「給与はごく少ない。だが最低限、全裸で震える必要はなくなるはずだ。仕事の内容は雑用ほか、ボクや秘書の補佐、……あとは黄丹が考えるだろう」

「……?」

 シヴァルの反応はにぶかった。なにを言われているのかよくわかっていないようすだ。


「キミを雇おうということなのだが」

 しばらくしてやっと言葉の意味が脳に染み渡ったみたいで、シヴァルは捨て犬が拾われたみたいな目でジューンを見る。

「どうして……?」


 彼にしてみれば、昨晩から何回恩を受けたのかわからない。さらに仕事までくれるというのは、信じがたいほどだ。

「自分のために拳の前に身を投げ出した男を無情に放り出すわけにもいくまいよ。いやなら提案はひっこめるが」

 シヴァルから視線を外してジューンは言った。


「いやだなんて……!」

 これで、ドラグニールで暮らしていくことができる!

「助かる……ありがとう」

 しぼりだすようにシヴァルは礼を言った。


 と、そこへ、

「おはようございます!」

 事務所の入り口が開いて、黄丹が元気に登場した。


   (@_@)


 黄丹がまず目にしたのは事務所の床に散らばる服だった。昨日二階から持ってきたままだったのだ。


「ああ、また服をこんなに散らかして」

 大きな一つ目の視線を動かし、やがて黄丹はシヴァルの姿を認めた。服を拾い上げながら歩いていた彼女はぴたりと動きを止める。


 ソファの前に立つシヴァルのラングルは着崩れている。彼はすぐ近くのジューンを熱い瞳で見つめていた。

 黄丹はわなわなと震えだした。

「先生……いったい何が……!?」


 その顔が一気に紅潮する。

「やはり先生も妖精族だったということですか! せ、性に奔放な……!」


 妖精にとっては、握手することとセックスすることのあいだにそれほど距離がない、などと言われる。たしかにそういった一面はあって、性交渉のハードルは七種族のなかでいちばん低いと言っていいだろう。個人の家を持たず複数の『巣』と呼ばれるシェアハウスを渡り歩くように暮らし、その中で少しでも気に入った相手とは抵抗なしに性交渉を行なう、という妖精族のライフスタイルは、ほかの種族からは淫乱で淫蕩で淫奔な文化だと見なされることも多い。


 ジューンはその点、妖精族には珍しくひとり暮らしだし、男を引っ張り込むようなことも今まではなかったので、彼女の貞操観念について黄丹は安心していたらしい。それが一気に覆されたような気がしたのだろう。


「純真無垢な先生が純真無垢でなかったなんて……! いえ、ご安心を。わたしはどんな先生でも着いていきますから。たとえ男をとっかえひっかえする生活でも、わたしの先生に対する忠誠心は変わりませんから!」

 大きな一つ目から涙をこぼしながら、熱くうったえてくる黄丹。


「そう、いつも先生がおっしゃっている。ドラグニールには七つの種族。それぞれがちがう価値観のもと生活している、それが尊いのだと。ですが、できればわたしに一言相談してほしかった……!」


 ひとりで盛り上がっている。

「待て待て、待ちたまえ。かなりの誤解があるぞ」

「と、おっしゃいますと……? まさかほかにもお相手が!?」


「黄丹」

 名を呼んで黙らせる。

「いったん妄言をやめて落ち着きたまえ。まずおたがいを紹介しよう。シヴァル、こちらは黄丹だ。ボクの秘書をつとめている。そしてこちらはシヴァルだ。きのう追いはぎに身ぐるみはがされていたところを拾った」


 ジューンは昨晩のできごとを簡潔に説明した。話が進むにつれ興奮状態だった黄丹も落ち着きを取り戻し、過去に性的関係はないし、今後の予定にもないことを明言されるとあからさまに安心したようだった。


「そうですよね、先生は純真無垢ですよね」

「ボクは純真無垢を売りにしたおぼえはないのだがね」

 黄丹は保護者の顔になって、

「でも、将来を誓いあった仲というわけでもない相手を泊めるのは控えてください」


「彼は意識がなかったのだよ」

 ジューンは黄丹がその点を忘れているのではないかと思って注意をうながした。

「それでもです! シヴァルくん、あなたも」


 きっとした視線を向けられて、シヴァルはびくっとした。単眼人の大きな目は、慣れない者には威圧的に見えるだろう。ジューンによってきてこっそり聞いてきた。

「……嫌われた?」


 黄丹が散乱した服をかたづけはじめたのを見て、こっそりシヴァルが訊ねてきた。

「そういうわけではない。単眼人は基本的にみなひとり暮らしで、めったに他の人を自宅に泊めないのだ。ことに異性は。それこそ特別な相手でない限りね」


 その点に関しては妖精とはいちばん遠い場所にいる種族といえよう。だから過敏になってしまうのだ。シヴァル個人がどうこうという話ではない。

「それならよかった」

 シヴァルはほっとしたようにうなずいた。


「まあいいです。それで、これからどうするんですか?」

 黄丹のセリフは、当然シヴァルは出ていくんだろうという口ぶりだった。


 まさか、

「ここで働いてもらうことになった」

 ということになっていたとは思いもしていなかったにちがいない。黄丹は目と同じくらい口を大きく開いた。ジューンを見て、シヴァルを見て、もう一回ジューンを見る。


「当面は雑用係ということになる。シヴァル、黄丹に挨拶したまえ」

「あ、うん。……えー、よろしくお願いします」

 返事もせずにしばらく固まっていたが、黄丹は突然すごい勢いで、あたりにある服を拾い集めだした。やがて服を全てかかえて、階段へと向かう。

「先生」


 階段ののぼり口に足をかけて、黄丹がジューンを呼んだ。

「いっしょに来て整理を手伝ってください。いつまでも彼に血のついたラングルを着せておくわけにはいかないでしょう」

「ええ~……」


「先生が散らかしたんですよ」

「わかったよ。行こう。キミはそこで待っていたまえ」

 ジューンと黄丹は二階に上がった。積みあがった服の山の前で、黄丹はその乱雑さにあきれた顔をしている。


「とにかく、さがせば人族の彼に合う服もあるでしょう。いつまでもラングルというわけにもいきません」

「なるほど、では頼む」

「他人事みたいに言わないでください。先生もさがすんですよ」

「……ラングルのままでもいいんじゃないかな?」


 黄丹の大きな目に睨まれて、ジューンはおとなしく服をさがしはじめた。

 さがすというより掘り起こすようにジューンは服の山に挑みかかった。黄丹は心得たもので、うしろにいてジューンが投げ飛ばしたものをキャッチしてテキパキと整理していく。


 ジューンは振り向かないままで、

「それで? わざわざ彼に聞かれないよう場所を変えたからには、何か言いたいことがあるのだろう」

「お見通しでしたか」

「それくらいはね。これは……子供服か」


「うちの事務所に、人を増やす余裕はありません。わたしひとりのお給料だって危ういじゃないですか」

 黄丹のもらう金も、同業に比べて決して多くはなかった。彼女のジューンに対する個人的な情がなければ、とっくに別の働き口に移られていた可能性は高い。


直言ちょくげんはキミの美徳だな。しかも唯一のというわけでもない」

「ほめていただけるのはうれしいですが……」

 ジューンは手にした服を放り投げた。道化が舞台で着るような衣装だった。


「給与は少ないと宣告してある。キミをふたり雇うわけではない」

「衣食住の世話だけでも事務所の経済を圧迫しますよ」

「たしかに彼は利発そうでもないし、世故せこに長けているわけでもない。ぼんやりしているところがあるし、単純な体力だって期待できまい」


 黄丹の単眼が思慮深げにジューンの顔を見やった。

「つまり、先生はそれらの欠点をおいてでも手元に置いておく価値がシヴァルくんにはあるとおっしゃるんですね」


 ジューンの脳裏にあったのは、彼女をかばって殴り飛ばされるシヴァルの姿であり、店の客を見世物のように見ていたのをジューンにたしなめられて赤面する姿であった。


 そして、いちばん最初にシヴァルが声をかけてきたときの姿だ。彼はあのとき、ドラグニールに来たばかりで、追いはぎにすべてを奪われた全裸だった。日も落ちて心細い時間帯だ。それなのに、まず助けを求めるでもなく、自分の窮状をうったえるでもなく、ジューンにここは危険だと忠告したのだ。


 そこにジューンはシヴァルの善性を見た。

 彼は素直であり、利他の精神があり、他種族への差別を恥じる心がある。いずれも得がたいものである。


「ボクは彼の地金じがねに期待しているのだ。意外とよい調停士になれるかもしれないぞ。お、これは」

 ジューンはようやく、シヴァルのサイズに合いそうな服を発見した。

「そこまでおっしゃるのなら反対はしませんが……」

 不承不承といったようすではあったが、黄丹はシヴァルの雇用を許容した。


「いままで以上に仕事をこなさないとやっていけませんからね」

「まあ……どうにかなるだろう」

 特に根拠はないけど。

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