④
島に来て1週間になる。
千鶴さんの好意に甘えてしばらく千鶴さんの家に厄介になることにした。
あの日以来、なんだか千鶴さんは若々しくなっているように見える。
咲笑はというと島に馴染んできていて、近所のおばあちゃんやおじいちゃんのアイドルになりつつある。子供の適応力の高さには、驚かされる。今日も近所のおじいちゃんに将棋を習いに行くと出かけて行った。
千鶴さんの頼まれて、美濃商店へ買い物に出かけた。美濃商店は近所にある何でも屋さんだ。食べ物はもちろん衣服や文具まで幅広く置かれている。
「おっ、千鶴さんところのお姉ちゃん」
店主の美濃さんは、何でもよく知っている。この島に来て翌日に買い物に来たら、もう私のことを知っていた。島にある店はこの美濃商店くらいだから、人がよく集まってくる。特に真夏はクーラーの効いたこの店に集まりがちらしい。だから自ずと島内の噂はここに集まってくる。
「今日は千鶴さんに頼まれて買い物を・・」
そう言って、頼まれた食材やらをかごに放りこんでいく。
「そういや、この島に不思議な男が来たって話知ってる?」
「不思議な男?」
「そうなんだよ。病気なのか、何かショックなことでもあったのか、なぜか記憶がないらしいんだよ」
美濃のおじさんの話によると、突然ふらっと島に現れたらしい。
30代の男性で、記憶が何もなく、なぜここに来たのかも、自分の名前すら憶えていない。
診療所に運ぶも診療所の設備でははっきりとはわからないが、多少の切り傷はあるものの大きな外傷はなく、心理的ストレスが原因なのか、何か脳に異常があるのか判断しかねているらしい。本土の病院に運ぼうとしたが、本人が強く嫌がったため、今は寺の住職が面倒を見ているらしい。
(あの住職か・・・)
鬼の形相の住職に怒られた記憶がよみがえって、ぶるっと震えてしまう。
「早く記憶がよみがえるといいんだけどなぁ」
記憶がなくなるのは、不幸なことなのだろうか。
忘れたいほどの過去なら忘れたままの方が幸せだ。
騒がしい教室。
幼馴染がいつもドジで陰気な私を庇ってくれていた。
その日も変わらず庇ってくれた。
いつも通り幼馴染が、仲裁してくれて終わるはずだった。
でもその日は違った。
女子生徒たちの叫び声が聞こえる―。
「大丈夫かい?」
我に返ると、美濃のおじさんが心配そうにこちらを見ている。
「冷や汗びっしょりじゃないか」奥からおばさんまで出てきて、「少し休んでいきな」と言われたけれど、その場をどうしても離れたくて、私は千鶴さんの家に帰ることにした。
でも途中でやっぱり気分が悪くなって、木陰で休むことした。
木陰に座って、目を閉じる。
セミの鳴き声だけが響いている。電車もないし、車もほとんど通らない。人も少ないから、世界に一人だけのような気持になって心が落ち着いてくる。
「大丈夫ですか?」
そろそろ家に帰ろうかと目を開けようとした途端に声をかけられた。
目を開けると、見知らぬ男が前に立っている。
まだこの島にきて一週間しか経っていないので、もちろん知らない人がいてもおかしくはないのだが、なんだかこの島の人と雰囲気が違う。
私が何も答えないので、不審がられたとでも思ったのだろう。
「私はお寺に今住んでで、怪しいものではないです」と言った。
(もしかしてこの人、記憶がない人・・?)
男は30代くらいに見える。白いTシャツにILOVE星成島と書かれている。観光客向けに作ったTシャツだ。下はジーパンをは履いている。背も高く、すらっとした感じだ。
「大丈夫です。少し休んでいただけなので」そういうと、ほっとした様子で「そうなんですね。良かった」と言って、逆方向に歩いて行った。
(いい人そうだったなぁ)
家に帰ると、咲笑が待ち構えていた。
「どこ行ってたの?」
「買い物だよ、買い物」と下げた買い物袋を見せる。
「どんな遠くまで行ってたのよ」
「心配してくれてたの?」
「私じゃなくて、千鶴さんがね」そう言ってふいっと顔をそむける。
「そうだ、さっき不思議な男にあったよ」
「不思議な男?」
ひとまず、千鶴さんと咲笑とお昼のそうめんの準備をして、食べながら不思議な男の話をした。
「記憶喪失なんてかわいそうにねぇ。辛いだろうね」
「・・・そうかな。忘れた方が幸せなこともあるんじゃないかな」咲笑はそう言って、何かを思い出しているようだった。
「そうだねぇ。生きていると楽しいことばかりじゃないものね。辛いこと、悲しいこと、悔しいこと、そういった経験や記憶は忘れたいと思ってしまうものかもしれない」
千鶴さんはブローチを優しくなでた。
「でもね、すべての経験が自分を作ってるのよ。つまり記憶を失うってことは、今の自分が失われるってことだからねぇ」
何だか眠れない。
身体を起こして隣を見ると、咲笑がすーすーと寝息を立てて寝ている。
起こさないように気を付けて部屋を出て、庭に出て、縁側に座る。
真っ暗で、明かり一つない。
空を見上げると、満点の星空だ。
地元では見れない。
(今の自分を失う・・・それもいいのかもしれないな)
21歳でニート、過去に憑りつかれて一歩も進めない自分なんて捨ててしまいたい。
「あら、眠れないのかい?」
振り返ると千鶴さんが立っている。
「ちょっと寝れなくて」
「そういう日もあるさね」といって千鶴さんが隣に座る。
「・・・どうしたら過去を忘れられるんでしょうか」気づいたらそんなことをつぶやいていた。
千鶴さんの穏やかな声はすべてを包み込んでくれる気がして、素直になれる。
「忘れなきゃ、前向かなきゃって思ってるのに、うまく前に進めないんですよね」
「それは忘れなきゃいけないことなのかい?」
「・・・わかりません。忘れちゃいけない気もします」
「人間はね、いつかは忘れてしまう生き物だからね、どんなに楽しいこともどんなに辛いことも少しずつ少しずつ忘れてしまうから安心しなさい。私みたいなおばあになると、忘れたくないことまで忘れちまってるよ」
千鶴さんの温かな手が背中にそっと触れた。
「私は今のあんたのこと好きだよ」
なぜだかその瞬間から星がにじんで、ゆがんで見えた。
翌日、私は咲笑とお寺に向かった。
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