008号室 コーラの百倍美味かった
「それじゃあやっぱり数字は変わっていたわけだ」
朝。制服に着替えた紅介と小桃は高校へ向かう道中に今朝の出来事について話をしていた。
「そうなんだよ。昨日の夜、日付が変わる瞬間に数字も一緒に変わったらしいよ。それで夜は皆大騒ぎ。おかげでちょっと寝不足だよ」
ふわあと大口を開いてあくびをする小桃。目の下にはうっすらと隈が出来ている。
紅介はプレートの数字が変わった話を深堀りしたかったが、それよりも小桃の体調の心配が勝った。
「おいおい、大丈夫か? 今日は確か体力テストがあるだろう?」
「大丈夫だよ。ベニくんこそ、怪我してるのに大丈夫?」
「ま、なんとかなるだろ」
紅介の怪我は順調に回復しているが、現段階では日常生活に支障が出ない程度にまでしか回復していない。軽い運動でも全身に痛みが走るのだが、当の本人があっけらかんとしているせいで大丈夫のように思えてしまう。
紅介はしばらく緩い笑みを浮かべていたが、やがて遠くを睨むような目つきをする。
「学校か……」
「え?」
「いや、なんていうか……こんな非常事態なのに呑気に学校なんて行ってていいのかなって思えてさ」
マンションの地下には依然としてモンスターが蔓延っている。また、七階のプレートのカウントダウンという新しい問題も登場した。
今こうしているときにも新たな問題が生まれているのでは、とそんな風に紅介は考えてしまう。
難しい顔をした紅介に小桃がチョップを打ち込む。
「こら! おじさんの言葉をもう忘れたの?」
「親父の言葉?」
「『学校に通える時間には限りがある。余計なことは考えずに、今は学生生活を楽しむがよい』」
「ふっ……そうだったな。今は学校を楽しまなくちゃな」
「うん!」
白郎の言葉を思い出した紅介が肩から力を抜いて笑う。
雑念が消えた紅介の笑みを見て、小桃はわずかに頬を赤くする。彼女はそれを誤魔化すように笑うと、紅介の手をとって学校へ向けて走り出した。
▼
午前の授業は退屈だった。紅介は半分くらいを寝て過ごし、残り半分は上の空だった。考えないようにしようと心に言い聞かせてもやはり脳裏にはマンションのことが浮かび上がる。
いろいろな意味で我慢を強いられた午前が終わり、ようやく午後の体力テストがスタートする。
「よう紅介、今年も勝負しようぜ」
「おうカイト、なに賭ける?」
「ジュース一本」
「乗った。まあ、今年も俺の勝ちだろうけどな」
そんなやりとりをしながら紅介は学友とふざけあう。紅介は比較的運動神経が良いほうで、この手の勝負は毎年行われているのだが負けなしだ。
紅介の挑発にカイトが顔を赤くする。
「よーし! じゃあまずは上体起こしで勝負だ」
「やったらあ!」
学友の提案を受け、紅介がマットの上に横になる。記録係が開始の合図を告げる。
「おらららららら!」
「うおおりゃああ!」
紅介とカイトが凄い速さで上体起こしを繰り返す。紅介に関しては上体起こしは一番怪我に響く種目のはずだが、アドレナリンが出ているせいか気にせずに動き続けている。
三十秒が経ち、止めの合図が出る。
「カイト三十六回、紅介三十九回!」
「なに!? 三回も負けてるだと!? 去年は同じだったのに」
「はっ! 怪我人に負けるようではまだまだだよカイトくん」
「くそ……次だ次!」
上体起こしで負けムキになったカイトが次に握力を指名する。
両者握力計を手にして向かい合う。
「俺はこの一年、握力と上体起こしに絞ってみっちりトレーニングをしてきたんだ。お前に負けん!」
「上体起こしでは負けていたけどな」
「うるさい! 行くぞ!」
カイトはそういうとスリーカウントで全力で握力計を握りこむ。
同じタイミングで紅介も拳に力を込める。
「──だあ! どうだ!」
カイトと紅介が同時に握力計のモニタを見せ合う。
カイト──五十六キロ。
紅介──五十八キロ。
「ぬあああ! 去年より五キロも上がったのにまたしても負けただと!?」
「……」
一年間この日のために積み上げた努力が水の泡となり全力で悔しがるカイト。
その横で静かに立ち尽くす紅介は自身の手を見ながら首を傾げた。
「紅介! 次だ!」
「あ、ああ……」
その後も紅介とカイトの勝負は続いた。
反復横跳び、立ち幅跳び、ハンドボール投げ、長座体前屈。
しかし、その全てで紅介は白星を掲げた。
「なんでだああああ!?」
「……」
全敗し、過去最大級に悔しがるカイトを横目に紅介は不思議そうに自身の体を眺めた。
紅介は全ての種目でカイトに勝ったが、彼はこの一年間で特別鍛えたわけではなかった。むしろ一年前に比べると確実に体力は落ちていた。
だが、結果は紅介の全勝。記録も全て去年のものを越えている。
一体なぜ、このようなことになったのか。
「これもあのマンションの影響のひとつなのか……?」
考えすぎかもしれない。しかし、今の紅介はそう考えざるを得なかった。
「どうした、紅介。浮かない顔して」
「いや、なんでもない。──あー……ちょっと外の空気吸って来るわ」
おかしな憶測を考えてしまったせいで先程の対決がズルをして勝った気がして気まずくなった紅介はその場から逃げるように立ち去った。
体育館の外に繋がる扉の前に立ち、外気に当たる。
「女子は長距離か。大変そうだな」
体育館の外にはグラウンドがあり、現在女子が持久走を行っている。熱い中延々外を走らされる地獄を想像し、紅介はうえっと舌を出す。
「ベニくんのえっち」
紅介がぼーっと持久走をする女子たちを眺めていると、不意に横からそんな言葉をぶつけられた。
驚いて隣を見ると息を切らし、汗に濡れた小桃がそばに立っていた。こころなしか不機嫌そうな顔をしている。
「なんのことだか」
「うそ。さっきから女子のほうばっか見てさ。絶対おっぱ……胸とか見てたんでしょ!」
「んなわけあるか!」
勝手な見解を押し付けてくる小桃に紅介が反論する。それでも小桃は紅介の言葉が信じられないようでじとっとした目を向けてきた。
紅介ははあとため息をついて、小桃に隣に座るよう促す。すると彼女は紅介から少し離れたところに腰を下ろした。
「なんでそんな離れたところに?」
「だって……私今汗臭いから……」
「さいですか」
今更汗の臭いなど気にしないのにと思いつつ、面倒くさいことになりそうなので紅介は口にしなかった。
代わりにふと先程のことを思い出す。
「そういえば小桃。持久走の記録どうだった?」
「それ聞く? 全然ダメだったよ。去年よりもダメだった」
「そうなのか?」
「ベニくんは? どうだったのさ」
「俺は……全部上がった」
「ええ! 凄いじゃん! ……なのにどうして浮かない顔をしてるの?」
こういうとき小桃の鋭さには参るものがある。
紅介は小さく苦笑すると、先程の考えを小桃に話した。
「うーん……考えすぎじゃないかな? 現に私は上がるどころか下がってるわけだし」
「そうだよな。なんでもかんでも事件に紐づけるのはよくないことだ。わかってる……分かってるけど……」
「ベニくん、大丈夫」
紅介が暗い顔をして顔を俯かせる。
すると、頭にそっと優しい手が載せられた。子供をあやすように優しく撫でられる。
「ベニくんがひとりで抱え込むことないんだよ。あなたには立派なお父さんもいるし、頼れる仲間もいる。それに──私も。悩み事があるなら皆に話しちゃえばいいんだよ。そうしたら皆こうして甘やかしてくれるんだから」
「……やめろよ」
「ふふ、照れてるの?」
「照れてない!」
小桃にからかわれ、紅介は彼女の手を振り払う。
そこで初めて紅介は自分の心が軽くなっていることに気が付いた。小桃の甘やかしのおかげで溜まっていた毒気のようなものが抜けたのだ。
紅介は気恥ずかしそうに頬を掻く。
「……ありがとな」
「ん? なになに? なんて言ったのかな?」
「なんでもねーよ! つかそろそろ戻れよ。先生に怒られるぞ!」
「あー、話逸らした!」
「いいから、行けっての!」
ここぞとばかりにからかってくる小桃を雑にあしらうと、紅介はカイトらの下へと戻っていった。
体力テストの結果は実力かズルか、今はまだわからない。
しかし、確かなことが一つある。
それは──『他人の金で飲むジュースは格別である』ということだ。
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