【短編】これは恋ではないけれど ~ 子爵令嬢ファティマのしあわせ ~

藍銅 紅(らんどう こう)

これは恋ではないけれど ~ 子爵令嬢ファティマのしあわせ ~


「金が要るんだよ、金がっ! 彼女に贈るんだから、最上級の品物でないとダメなんだっ! 王太子殿下にも侯爵令息にも、オレは負けたくないんだっ!」


 金色の髪を振り乱して、充血した瞳で、狂ったように兄が叫ぶ。

 うるさい。

 馬鹿なの?

 高位の方々と張り合って、借金を重ねて。プレゼントで恋しい令嬢の心を掴もうとするなんて。



「……悪いけど、君との婚約はなかったものにしてもらおうか。借金まみれの子爵家の娘と、婚約を継続するほど愚かではないものでね」


 愚かな兄のせいで、わたしの婚約までもがなくなった。

 そのことを、周囲の人たちが、笑う。

 友人、学友。親しくしていたはずの者たちが、どんどんわたしから離れていく。


 恋に狂った兄が、また何か叫んでいる。


 うるさい。

 うるさい。


 母が泣く。

 父も嘆く。


 なにも聞きたくない。

 なにも言いたくない。


 わたしは目をつぶって、耳をふさぐ。


 だけど。

 兄が作った莫大な借金も。

 兄を含む多数の愚かな人間の醜聞も。


 目をつぶっても、耳をふさいでも。

 決して、なくなりは、しない。



 ☆★☆



 白薔薇の咲き誇る薔薇園のガゼボ。

 大理石のテーブルに広げられているのは、染み一つない真っ白なテーブルクロス。

 そこに侯爵家の侍女の皆さんが、六人分の紅茶のカップを置いていく。

 紅茶には、薔薇の花びらまで浮かべられているのだから、すごい。

 貧乏子爵家の者には、身に余る光栄です、侯爵ご夫妻……と、ひれ伏したくなってしまうおもてなし。

 侯爵夫妻の、このお見合いにかける並々ならぬ意気込みというか、圧を、感じてしまう。

 とりあえず、紅茶に手を伸ばすのではなく、わたしのお見合い相手であるノエル・ジェームス・キングスフォード侯爵令息をじっと見る。


 白薔薇の貴公子と、二つ名が付けられるほど優雅な美貌。

 風に揺れる柔らかな金髪。

 晴れた日の青い空のような瞳。

 だけど、拝みたくなるほどの美貌は過去形。

 いや、今でも美形と言えば美形なのですけどね。

 だけど、どんな美貌でも、口をポカーンと開けて、焦点の合わない目で、遥か彼方を見つめているとですね。

 ……美形というより、阿呆面。

 あ、いや、失礼。

 思索にふけっているとかではなく、正気ではないのよね、ノエル様は。

 不幸というか、ショックなことがあって、心ここにあらず……なのだ。

 多分、今、わたしとの、お見合いの最中ということも、理解してはいないのだろう。

 ノエル様の心は、現実逃避をしたままだ。


 あー、これ、どうにかなるのかなあ……。

 前途多難というかなんというか……うーん。


 ノエル様の身に、なにが起こったのかと言えば……。

 演劇や小説の題材になるくらいには、実にありふれた話なのだ。


 我が国の王太子殿下が、とある男爵令嬢に恋をした。

 その男爵令嬢は、自分を物語のヒロインだと思い込んで、笑顔を振りまき、そのうえ「あたしだけはあなたのことをわかっているよ」などという感じで、多くの男性の恋心をつかんだ。

 愛する相手を一人だけ選べばいいものを、ヒロイン気質の男爵令嬢はそうしなかった。

 たくさんの男性からちやほやされて、愛を捧げられることに喜びを感じているタイプのお嬢さんなのね。


 迷惑だよねえ、そういうお花畑系ヒロイン思考。


 わたしと無関係であれば、そーゆー人もいるよねと、お茶会の話題にして、笑い飛ばしちゃうんだけどねえ。残念ながら、直接的な関係はなくとも間接的な関係ならあるんだから。あー……。


 男爵令嬢は、王太子殿下と恋仲になった。

 王太子殿下はご自身の婚約者である侯爵令嬢を国外追放にした。まあ、たぶん冤罪だろうけど。

 そのまま可憐なヒロインを演じていれば、後に王妃にでもなれたのかもしれない。

 だけど、男爵令嬢は、それだけで満足はしなかった。


 宰相閣下の息子と親密になり「一番の親友」と公言した。

 愛しているのは王太子殿下だけど、あたしのことを一番に理解してくれるのは宰相閣下の息子だと、そう、言った。

 宰相の息子は、それで、結婚などしなくてもいい、私の運命は男爵令嬢と共にあると、阿呆なことを言った。


 今、わたしの目の前にいる、お見合い相手であるところのノエル・ジェームス・キングスフォード侯爵令息も同じだ。

 男爵令嬢から「みんなのことは大好きよ。でもね、ノエルの側が一番安心するの。ほっとする。これからもずっとあたしの側に居てね」などと言われ、自身の恋は成就しなくても、男爵令嬢のしあわせのためなら何でもするとばかりに、その男爵令嬢にそっと寄り添い続けた。


 他にも、神官の息子に商人の息子、学園の教師、子爵家の令息など。

 身分の上下に関わらず、男爵令嬢に恋をした男たちは大勢いた。


 どうやら、その男爵令嬢は、男性を虜にする術に長けているようだ。

 物語のヒロインを自称するだけはある。


 で、途中はいろいろ端折るけど、その男爵令嬢が、妊娠した。


 身に覚えのある王太子殿下は、たいそう喜んだ。


 そうして、男爵令嬢は、王太子殿下と婚姻し、王太子妃となって、美しい男の赤ん坊を生んだ。


 ここまでで話が終われば、王太子殿下も王太子妃となった男爵令嬢も、しあわせだったのだろう。


 だが、しかし……だ。


 王太子殿下は、燃えるような赤い髪とルビー色の瞳の持ち主。

 王太子妃となった男爵令嬢は、ピンク色の髪に緑の瞳の持ち主。


 で、生まれた男の赤ん坊は……金髪に青い瞳だった。


 ちなみに、我が国の王族には、金の髪の持ち主も、青い瞳の持ち主も、いない。


 赤い髪とルビー色の瞳が王族の証であり、赤以外の色を纏う王族は、王位継承権を持てないということになっている。

 祖父母のどちらかの遺伝で……というのは通用しない。


 当然ではあるが、王太子妃である男爵令嬢の不貞が疑われた。


 王太子妃になった男爵令嬢と近しい関係での男性で、金髪青眼の者。


 つまり、わたしの見合い相手のノエル・ジェームス・キングスフォード侯爵令息も、その外見に該当する。


「お、おまえかっ! お前の子なのかっ!」


 錯乱した王太子殿下に、何人もの金髪青眼の男たちが問い詰められた。


 厳しい取り調べの結果、身に覚えがある……と、自白した男たちの数は……なんと、十人以上。

 その者たちは、王太子殿下によって、即座に処分された。

 つまり、全員が、今では墓の中。


 幸いと言っていいのかどうか、わたしの見合い相手のノエル・ジェームス・キングスフォード侯爵令息は、男爵令嬢と、手を繋ぐ以上の肉体的接触はしていなかった。

 馬鹿正直に、男爵令嬢に寄り添うことしかしてこなかったのだ。

 純情且つ純愛、なのだそうだ。

 肉体よりも精神を貴ぶとかなんとかかんとか。


 だから、生き残ることができた。

 けれど、恋心を抱いていたのは確かなわけで。


 あばずれ……失礼、多くの男性と、子どもを作るような関係になっていた男爵令嬢。


 それに恋焦がれ、恋が成就せずとも、男爵令嬢のしあわせのために生きようと、自身の心に誓いを立てていた、ノエル・ジェームス・キングスフォード侯爵令息は……心に多大なるダメージを受けたのだ。

 聖女に仕える騎士のような気持ちでいたのに、相手が聖女ではなく娼婦だったのだから、衝撃は大きかったのだろう。精神が崩壊する程度には。


 命は助かっても、心が死んだ。

 呆然と、どこか遠くを見ているだけの毎日。

 ショックが大きいのか、時折叫ぶこともある。

 そんな感じで、現在に至る。


 今、わたしとの見合いの最中も、椅子の背もたれに、体重を預けたまま、ぽかんと口を開けて、青い空を見上げている。その空のように、瞳も青く美しいけれど、瞳に映っている風景など、見えてはいないのだろう。


 こんな状態の息子を憂いたキングスフォード侯爵は、新しい恋でもすれば、もしくは新しい婚約者との親密な関係でも結べれば、ショックも軽くなり、人生をやり直せるようになるかもしれない……と願ったらしい。


 あちこちに、ノエル・ジェームス・キングスフォード侯爵令息との婚約を打診した。

 だけど。


 王太子殿下を含む、一大スキャンダルの中心的登場人物のひとりでもあるノエル・ジェームス・キングスフォード侯爵令息との婚約を受け入れる者などいなかった……。


 まあ、あたりまえよねえ……。


 というわけで、借金まみれの貧乏子爵家、つまりこのわたしのところまでお見合いの話が来たのだった。


 まあ、ノエル・ジェームス・キングスフォード侯爵令息がどのような人で、どのような状態であろうとも、わたしに拒否権はない。


 身分差と言うだけではなく。

 いろいろな事情もあり、その上、我が家には、莫大な借金がある。

 ノエル・ジェームス・キングスフォード侯爵令息と結婚すれば、我が家の借金は肩代わりしてくれるのだ。


 どうせ、元々わたしは、借金の返済のため、どこかの金持ちに嫁ぐしかなかったのだ。

 その金持ちが、どこかのヒヒジジイであるかもしれないし、特殊性癖であるかもしれないし、まあ、それでも仕方ないか、と、人生を諦めていた。

 そんなわたしにとって、死んだ目をしている美形など、寧ろありがとうございます、ラッキーですと感謝したくなるくらい。

 正気に戻ったら、ノエル様は暴れるかもしれないけど。

 ま、呆けている間は、きっと無害。

 寧ろ、置物としての価値はあるかもしれない。

 優しげな美形の置物など眼福です。


 というわけで、わたしは見合いを頑張った。

 頑張っては、みた。


「……キングスフォード侯爵家のお庭は美しいですね」


 わたしが話かけても、ノエル様は無言のまま。というか、無反応。


「空も晴れて、雲一つなく」


 無言。


「お見合い日和ですわね」


 無言。

 相変わらず、目の焦点も合っていない。

 わたしの声も聞こえていないんじゃないかな……。

 心、壊れているんだろうなあ、やっぱり。


「あの、ちなみに、わたしは認識されていますか? 視界に入っていますか?」


 無言。

 茫然と、遠くを見ているだけのノエル・ジェームス・キングスフォード侯爵令息。


「わたしの名前くらいは、ご理解してくださっていますか?」


 カックンと、首が動いた。頷いたのかな……と思ったら、項垂れただけ。


「えーと、わたし、ベネット子爵家の娘で、名前をファティマと言うのですけど……」


 反応、なし。

 ダメだなあこれは。


 わたしはノエル・ジェームス・キングスフォード侯爵令息ではなく、その隣に座っているキングスフォード侯爵夫妻に視線を向けた。


「あの、心ここにあらず……と言うよりも、精神崩壊していらっしゃるのでは……」


 これでは見合いなど成立しませんねぇ。

 我が家の借金どうしよう?

 お父様とお母様を見る。必死の形相だ。わたしになんとかしろと、瞳で訴えてくる。

 あー……。


「で、でもねっ! 正気を取り戻せば……、きっと……」


 侯爵夫人がそうおっしゃいますが、その正気を取り戻すのがそもそも無理では?

 侯爵も、渋い顔だ。


「……我がキングスフォード侯爵家には、子はノエルだけなのだ……。なんとしてでも元のノエルに戻ってもらわないと……」


 跡継ぎの問題ですか?


「えーと、ご親族から、どなたかを跡取りとしてもらい受けることは……」


 評判は地に落ちても、腐っても侯爵家。

 跡を継ぎたい人はいるのでは?


「……王家に睨まれている侯爵家を継ぎたいという者はおらんでな……」


 しーんと、静まり返る、その静寂が、耳に痛いほど。

 うーむ。

 侯爵家に跡継ぎがいないと困るよね。


 そして、わたしのほうも、侯爵家の御支援があればこそ、借金が返済できるのだ。

 お互いに、この婚約を結び、そして結婚に持っていきたがっていることは確か。


「では……、僭越ながら、こういった案はいかがでしょうか……?」


 恥も外聞も投げ捨てて、わたしはキングスフォード侯爵夫妻に、一つの提案をした。



   ☆★☆



 一か月後、わたしとノエル・ジェームス・キングスフォード侯爵令息は、夫婦となった。

 結婚式は挙げなかった。

 初夜は……行った。

 どうやったかは……まあ、媚薬を使って、あれやこれやそれ、ということで。


 そうして、わたしは金髪青目のかわいらしい男の子を出産した。


 何事もやればできる。


 キングスフォード侯爵夫妻はもう、涙を流して喜んだ。

 子はランディと名付けられ、祖父母の愛情を一身に受け、すくすくと育った。


 まあ、自分で生んでおいて言うのもなんだけど、ランディはものすごくいい子だ。

 利発とまではいわないけど、周りの大人の言うことをしっかりと聞き、わからないことや疑問に思うことはきちんと聞く。

 将来、侯爵家の立派な跡取りになってくれる……かな?

 まだ五歳だから、将来どうなるかはわからないけれどね。

 どんなにまっすぐ育ったとしても、ノエル様のように、うっかりトラップに引っかかることもあるだろう。

 ランディにはそんな人生には進んでもらいたくはないけれど、こればっかりは運でしょう。わからないな。

 母親としては、息子にしあわせになってほしいけど。

 わたしも侯爵家の嫁として、社交とか、なんとかいろいろこなすことができるようになってきた。

 ノエル様といえば、相変わらず、部屋に閉じこもり、ぼーっとしているだけの日々。たまに叫んだりもするけどね。


 ……だけど、もうそろそろいいかな。


 というか、もういいだろう。

 わたしの実家の借金もなくなった。

 侯爵家には、跡取りとなるランディもいる。

 だから、わたしは……引きこもり状態のノエル様を、部屋から引っ張り出した。


「さあ、ノエル様、行きましょうかっ!」


 どこへ行くのかとも、何も聞かないままのノエル様。

 侯爵家の下男たちの手を借りて、ノエル様を馬車に押し込む。

 そして、とある場所へと連れて行った。



   ☆★☆



「こんにちは、アンジェ様。ご機嫌いかがですか?」

「良いはずないわよっ!」


 ピンク色の髪と緑色の瞳を持つ、可憐だったご令嬢。

 元男爵令嬢にして、元王太子妃殿下。

 今では牢屋に閉じ込められている犯罪者。

 痩せこけて、幽鬼のよう。

 殺されなかっただけでも運が良いと思うけどね。

 産まれたお子は、他国の孤児院に入れられたとか。

 だけど、こちらの元王太子妃、アンジェ様は、放逐も追放も、死罪とされることもなく、今はこうやって牢に閉じ込められている。

 もちろん慈悲ではない。

 ……一度、娼館に売られたんだよね、この人。

 そうしたら、元王太子殿下や高位貴族、その他もろもろ大勢の男を虜にした悪女ってことで、売り出されて、あっという間に娼館の売れっ子になってしまった。

 王族もかくや、という優雅な生活をしていたらしいの。

 すごいね、この人。

 で、それを知った国王陛下とか王妃様とかが、冗談じゃあないってことで、捕えさせて牢屋に入れさせたとのこと。

 ああ、牢と言えば、元王太子殿下もそう。

 閉じ込められているらしい。

 元王太子殿下は、アンジェ様のように、粗末な牢ではなく、きっと王族専用の豪奢な離宮みたいなところなのだろうけど。


「いいからさっさとあたしをここから出してよっ!」

「そう言われましても、わたしにそんな権限はないんですよ。だって、わたし、元は単なる子爵家の小娘でしかないんですもの」


 ま、今は侯爵家の嫁ですが。

 とりあえず、鉄格子の隙間から、小さな箱を差し入れる。


「甘いものでも欲しいのではないかと、今日はクッキーの差し入れです」


 感謝の言葉なく、アンジェ様はクッキーの箱を奪うようにして、取った。


「……毒とか、入ってないでしょうねっ」

「わたしがあなたを毒殺するメリットなんて、ないのですけどね。他人ですし」

「その他人が、どうして何度も何度もあたしを訪ねてくるのよっ!」


 うん、そうですね。疑問に思うのも当然でしょう。

 以前は面識などなかった。

 ……間接的な関係ならあったけどね。


「いろいろ理由はあるんですけど。まあ、第一の理由はアンジェ様にできるだけ長生きをしていただきたいということ。それからアンジェ様がわたしの夫となった人の思い人ということですかね」

「へっ?」


 これまではいろいろと誤魔化して、わたしは自分のことはなに一つ、アンジェ様に言ってはこなかった。

 ただ、お菓子とか、服とかを差し入れするだけで。


「まあ、でも、わたしがここに来るのは今日で最後かな。ようやくわたしの目的の一つが果たせます」

「な、なによ目的って……」


 殺すとか、なんとか。そういう怖いことを、アンジェ様は考えたようで。牢屋の中を後退りした。


「別に大したことではないんです。わたしの夫となったノエル様に会ってほしいだけなんですよね」

「夫……? ノエル……って」


 両腕を、下男に抱えられて、引きずるようにして連れてこられたノエル様。

 やっぱり目は死んだまま。

 わたしはそのノエル様の耳元にそっとささやく。


「ノエル様、見てください」


 焦点の合わなかったノエル様の瞳。そこに、少しずつ光が戻ってくる。


「わかりますか、牢の中の女性が」


 ふらり、と。おぼつかない足取りで。

 ノエル様は鉄格子に近づいていく。


「アンジェ、な、のか……」


 かすれた声。

 まともに話すことなどなかったのだから、声が出るだけマシなのかな? 

 ああ、でも、時折泣いたり叫んだりしていたから、声帯に問題はなく、声が出るよね……。


「ええ、そうですよ。ノエル様が愛したアンジェ様です」


 わたしは一歩後ろに下がる。


「ノ、ノエルっ! あたしよっ! アンジェっ! あなたのアンジェよっ!」


 アンジェ様が、縋るような顔になって、鉄格子へと駆け寄った。わたしの差し入れたクッキーなど放り出して。


「王太子殿下に騙されたのっ! それに、みんなにも……っ! あ、あたしだって、あんなこと、したくなかったのに、無理矢理に、みんなにさせられて、子どもまで産ませられたのに……っ!」


 アンジェ様のその言葉が本当なのか、それとも牢から出たいためだけの嘘やら出まかせなのか、わたしにはわからないし、どうでもいい。

 うん、彼女が牢屋に入れられてから、わたしが度々この牢屋を訪れていたのは、別にアンジェ様の為ではない。

 多くの男性を惑わせたアンジェ様の何かを知りたいわけでもない。

 彼女が悪女だろうと、なにかの犠牲者だろうと、わたしにはどうでもいい。


 ただ……わたしは、個人的な事情で、アンジェ様に死んで欲しくない……と、いうだけ。

 できる限り長生きしてほしい。

 できれば老婆になるくらいまで。

 可能であれば、永遠に生き続けていてほしいくらい。


 彼女の為、ではない。


 アンジェ様にノエル様を会わせれば、正気に戻るかなと思っていたのが一つ。


 でも、それはわたしの目的の、一つではあるけれど、本音ではない。


 本当の目的は、死んだわたしの兄に対する嫌がらせ、だ。


 まあ、アンジェ様を長生きさせることが、嫌がらせになるかどうか、本当はわからないのだけれど。

 多分、完全に、自己満足……なのかもしれない。


 アンジェ様の取り巻きで、アンジェ様と肉体的な関係を持った、わたしの兄。

 金髪青目だったから、王太子殿下によって殺された。


 まあ、それは、正直、ざまぁみろと思った。


 アンジェ様に貢ぐために、我が家の名前で借金に借金を重ねたわたしの兄。

 その兄のせいで、父や母は苦悩し、そしてわたしの人生も変わった。


 王太子殿下によって、殺されなければ、わたしがこの手で殺してやろうかとさえ思った。

 そう、そのくらい、当時、わたしは兄を憎んだ。


 わたしにはねえ、ちゃんと婚約者もいたの。

 学園を卒業したら、結婚式を挙げようなんて、言ったりしてね。

 だけど、兄のせいで婚約は破棄された。

 二度と関わらないでくれと言って、去って行ったわたしの元婚約者。


 正直に言って、恨んだわ。

 アンジェ様よりも、元婚約者よりも、兄を……ね。


 その兄が死ぬ前に、兄が言ったのだ。


「アンジェが生んだのが、金髪青目の子ども……。だったら、オレの子かもしれない。うん、きっとそうだ。だったら、アンジェも死を賜るかな。だったら、親子三人、あの世でしあわせになれるだろう」


 死を前に、錯乱しただけなのかもしれないが。

 それを、兄から聞かされて、わたしは思った。


 ふざけるな。


 兄は……お前は、死んで、あの世とやらで、しあわせになるつもりか。


 あの世なんてものがあるかどうかはわからないけれど、アンジェ様が死んだら、兄が喜んで迎えに来るのかもしれない。


 兄が残した借金で、父も母も、わたしも苦しめられたのに。


 わたしを、どこかに売って金を作るしかない。許してくれ。

 毎日毎日、父や母からそう言われた。


 言われるたびに、わたしは兄に対する憎しみを深くした。


 あの世でしあわせになる? 


 ふざけるな。だったら、それを阻止してやる。

 なにがなんでもアンジェ様には長生きしてもらう。


 今思えば、馬鹿々々しいけれど、当時は本気でそう思ったのだ。


 でも、まあ……もう、いいか。


 いつまでも、兄なんかに囚われているのも馬鹿々々しい。

 ノエル様だって、そろそろ立ち直って、人生をやり直したほうがいい。

 そう思えるのは、今、借金がないからで。

 それに、ノエル様のお父様やお母様に、ランディをすごく可愛がってもらっているからで。

 現在までの経緯はともあれ、今、わたしは、それなりにしあわせなのだ。

 穏やかに、毎日を送っている。しかも侯爵家の嫁として。何不自由なく。

 だったら、もう、いいよね。

 兄のことなんて忘れて。

 アンジェ様のことなんて忘れて。


 なによりも、恨みなんて、ランディには残したくない。

 あの子には、しあわせだけをあげたいと、母親として、そう思う。


 それでいいと、思えるようになった。

 それだけの時間が経過した。


 だから、ノエル様をアンジェ様の前に連れてきた。

 全部、終わらせようと思って。


 鉄格子越しに、対面している二人をそのままに、わたしはそっと牢から外に出る。


 地下の牢はうす暗かったけれど、外はまぶしいくらいだった。

 空には太陽が輝いて、雲一つない。

 再出発するには良い日だろう。

 わたしはそのままぼんやりと空を眺めていた。

 鳥が、空を飛んでいった。

 良い日だな。

 決別日和だ。


 ノエル様はどうするかな。

 アンジェ様を連れて逃げるかな?


 少なくとも、正気に戻ったみたいだったから、それでいいよね。

 ノエル・ジェームス・キングスフォード侯爵令息の嫁としての義務も、これで果たしたことにしてもらおう。

 やっぱり息子が、心を痛めたままだと、親はつらいものね。

 キングスフォードのお義父様だって、お義母様だって、ノエル様が正気に戻ってくれたら嬉しいでしょう。

 ……アンジェ様を連れて、キングスフォード侯爵家に戻ったとしたら。

 ちょっと問題かな。

 その場合、ランディはどうなるのかな?

 まあ、ね。借金もなくなった上に、わたしの実家に対しての資金援助もしていただいたから、わたしの実家は問題なく経営できている。

 うん、ランディを連れて、わたし、実家に帰ってもいいかな……。

 なんて、ぼーっと空を見ていたら。

 ノエル様が、牢から出てきた。


「ノエル様……」


 一人で。あ、下男たちはついては来ているから、正確には一人じゃないか。

 ノエル様は、わたしを見て目を細めた。

 なにかを確認しているようだ。

 じっと、見つめながら、わたしに近づいてくる。


「あの、その……あなたは、ベネット子爵家のファティマ嬢……ですよね?」


 自信なさそうに、ノエル様が聞いてきた。


「ええ。ファティマです。今現在は、ノエル様の妻といいますか、キングスフォード侯爵家の嫁、という立場ですが」

「あ、ああ……そうだった。その、君との間に……息子が一人、いる……」


 そこまで言って、せき込まれた。

 お水とか、飲んでもらったほうがいいのかな?


「ランディです」

「ランディ……。ああ、そうだった。そんな名だったな……」

「認識して、いらしたのですか?」

「……一応は。あなたとの、その、初夜のことも、そのあとのことも、ある程度は覚えている……」


 あら……。

 おぼえているのか……。

 わたしはちょっと顔を赤らめた。

 それは……、あれ、だな。うん、とりあえず、謝罪が必要かな……。


「ノエル様の意に反し、勝手をしてしまったこと、どうぞお許しくださいませ」


 深々と、わたしは頭を下げた。


「ま、待ってくれ。謝るのはこちらの方だろう」

「いいえ、あなた様の体を勝手に使ったようなものですから」

「媚薬を飲まされたとはいえ、自分で動いた……ああ、いや、そんなことはどうでもよくて。あ、良くないか。ええと、なにからどう謝罪をすればいいのか……。謝らねばならないことが多すぎる……」


 ああ、あの素晴らしいお義父様とお義母様の息子だけあって、まともであれば、ノエル様はきちんとした人……なのかしらね。

 わたしに対して、八つ当たり的に怒鳴るとかではなく、まず謝罪をと考えるのだから。


「謝罪は不要です。それよりも、ノエル様。アンジェ様のことはよろしいのですか?」

「アンジェ、か……」

「王家に申請をすれば、アンジェ様をもらい受けることくらいはできるかもしれませんよ?」


 わからない、けどね。

 さすがに無理かな?


「確かに、アンジェに恋い焦がれていた。正気ではなくなるほどに。だが……」


 ノエル様は、言葉を止めて、なにかを考えているようだった。


「先ほど見たアンジェには……何も感じなかった。愛も情も、嫌悪さえ」

「そうですか……」

「……なぜかな? わからない。牢の中にいるのは確かにアンジェなのに。見知らぬ他人のようにしか思えないんだ……」


 それこそ物語のヒロインのように、世界の中心で、愛に満ちていた可憐な女性だったアンジェ様。

 今はそんな面影もなくなって、牢の中で痩せこけて、幽鬼のようになって。瞳だけがぎらぎらとして。


「そう、ですか……」


 ノエル様が愛した可憐な少女ではなくなった……のかもしれない。

 それとも時間が経過したから、思いが薄れたとかなくなったとか……?


「まあ、過去はいいとして。そろそろわたしたちも未来へ進んだ方が良いかもですね」


 わたしは、改めて、ノエル様に向きなおった。

 息を吸う。

 そして、告げる。


「ノエル様。あなた様が正気に戻った以上、わたしはあなた様と離縁する覚悟がございます」

「はっ⁉」

「わたしとあなた様の婚姻は、あなた様の意思ではない。わかっております。両家の事情とわたしの思惑が合致した結果です。ですが、あなた様はもう真っ当な判断ができる。人生をやり直すこともできる。もう一度、アンジェ様ではない、別の女性と愛のある人生を進むこともできます」

「その場合、君は、どうするつもりなのか……?」

「ランディを連れて実家に戻ります。おかげ様で借金もなく、子爵家にしては裕福な生活を、わたしの両親もさせてもらっています。これもすべてキングスフォード侯爵家のおかげです。ですので、わたしのことは気にせず、ノエル様が進みたい人生をお選びください」


 ずっと考えてきたことだったから、わたしは即答した。


 人生を、やり直す。

 わたしも、ノエル様も。


 アンジェ様に囚われていないというのなら、それもいいだろう。

 アンジェ様と共に生きたいというのなら、それでもよかったのだが。

 ノエル様は、眉を顰めた。


「ファティマ嬢。あなたは、それでいいのか……?」


 わたしはふっと笑った。


「さあ? わたしはランディがしあわせであれば、他のことはもう、どうでもいいのですよ」


 子を産んで、一番に思ったこと。

 ランディさえしあわせであれば、もう、どうでもいい。

 恨みも、子育ての忙しさと幸福の中で、すべて忘れた。

 ノエル様にも感謝している。

 わたしに、ランディを、さずけてくれてありがとう。


「……ランディが」

「わたしとノエル様が離縁したとしても、きっとキングスフォードのお義父上もお義母上も、ランディを大事にしてくれます。その点は、信頼しています。だから、離縁しても、大丈夫。ランディがしあわせならわたしもしあわせです」


 ランディが、わたしのことを「おかあさま」と呼んで、笑顔で抱きついてくる。

 それだけあれば、わたしは生きていけるとさえ思うのだ。


「だったら、離縁などと言わずに、親子三人祖父母付きで、暮らしたほうがいいのでは……」

「だけど、ノエル様。あなたは別にわたしのことが好きというわけではないでしょう?」

「というか、何も知らないのだが……。ほぼ初対面のご令嬢のようなもので……」


 ま、そりゃそうか。

 子までもうけたとはいえ、ノエル様は正気をなくした状態だったのだしね。

 寧ろよくわたしの名前を憶えていてくれたなあ……って感じ。


「だったら無理して婚姻を継続しなくても」


 別にわたしもノエル様に恋い焦がれているわけではない。

 借金返済のため、ノエル様を利用したようなものだ。

 その負い目があるからこそ、わたしは今日、ノエル様をアンジェ様の元へと連れてきたようなものなのだけれど。借りは返します……的な感じで。

 正気に戻ったことは、喜ばしい。

 だけど、関係を続ける意味など、もはやない。

 そう思ったのだけれど。


「……子までいるのに、初対面のようなものだが。だが、それで即座に離縁というのも……申し訳ないというか」

「申し訳ないのはこちらもですから」


 少し考えた末に、ノエル様は、わたしの手をそっと取った。


「では、提案があるのだが。受けてくれるかな?」


  

  ☆★☆



 まずは友人から始めて、お互いを知る。

 期間は十年。

 その間に、家族としてでも、男女としてでも、愛情が生まれたら、婚姻継続。

 どうしてもダメな場合は離縁する。


 その、ノエル様の提案を、わたしは受けた。


 べつにノエル様が好きだとか言うわけでは、この時点ではなかった。


 ただ、ランディに、父親がいたほうがいいだろうなと、そう思っただけで。

 まあ、わたし一人だけでも育てる覚悟はあったのだけれど。


 結局この提案がどうなったのかというと、結果は、十年も必要なかった。


 だって、三年後には、ランディの妹が生まれたのだから。

 もちろんわたしとノエル様の子で。

 このころには、わたしもノエル様も、アンジェ様やわたしの兄のことなどすっかり忘れた。

 わたしの兄は冥界を彷徨っているのかもしれないし、天の国でアンジェ様を待っているのかもしれないがどうでもいい。

 思い出すことも皆無になった。


 アンジェ様のその後も知らない。

 未だ牢の中かもしれないし、恩赦や何かで牢から出られたのかもしれない。さすがに無理かな。

 まあ、どうでもいい。


 キングスフォードのお義父上もお義母上も涙を流して喜んでくれた。

 そうして生まれた娘に名をつけてくれたのがノエル様。


「その……フェリシアという名はどうだろうか」

「恵まれているとか、しあわせという意味ですよね。素敵な名前だと思います」


 そう言ったわたしに、ノエル様が言った。


「ファティマ、あなたへの私の感情は……、アンジェに対するような、あれほどまでに狂おしくもつらい恋ではない。あなたが私に寄越してくれたものは……すべて、しあわせでしかない。だから、その、あなたが私に産んでくれたこの子には、しあわせという名をつけたいんだ」


 ありがとう。わたしに向かって微笑むノエル様。

 こちらこそ。わたしも笑う。

 わたしの腕の中には生まれたばかりのフェリシアがいて。

 ノエル様は、足元にしがみついていたランディを抱き上げた。


「ほら、見てごらん、ランディ。お前の妹だ。フェリシアだよ」

「わあ……。ボクの、妹?」

「かわいいだろ?」

「うんっ!」


 家族皆で笑いあう。

 こんな未来が来るとは思わなかった。


 あんな出会い方をしたわたしとノエル様は、ごく当たり前の、普通の、仲の良い、世にありふれた、家族になった。


 予想外。

 だけど。


 これは、きっと、恋ではない。けれど、だけど、わたしは……ううん、わたしたちは、今、しあわせだ。







 終わり





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【短編】これは恋ではないけれど ~ 子爵令嬢ファティマのしあわせ ~ 藍銅 紅(らんどう こう) @ranndoukou

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