12
やっと会いに来てくれたのに、すぐに帰ってしまうのね……そう感じたがすぐに思い直したホキだ。それでも会いに来てくれた。それほど会いたいと思ってくれた。トヨミは帰りたくて帰るわけじゃない。
「嬉しい……」
嬉しくって涙が出そうだ。するとトヨミが驚く。
「
「えっ? そんなわけないでしょ」
「すぐ帰ると言ったら嬉しいって言ったじゃないか。涙ぐむほど喜んで」
「だから違うってば。忙しいのにこんな遠くまで会いに来てくれたのが嬉しいって言ったの――都からカシワデまでって遠いのよね?」
「そっか、うん。そうだよな。ホキは自分のことより相手のことを考える。すぐに帰るのを喜ぶなど、わざわざ来た
「そんなに? まさか歩いてきた?」
「まさか! クロコマに連れてきて貰った。郷のはずれで待たせてる。クロコマならあっという間だ。そうじゃなきゃ来れないよ。実は、
「厠に?」
「あぁ、糞に時間がかかっているんだなとでも思って、今頃イライラして待ってるだろうな」
「そこまでして来てくれたのね」
またもホキが涙ぐむ。いったい誰が待っているんだろうとも思ったが、それは訊かないほうがいいと思った。
「ほら、泣くな――それより、これをホキに与えようと思ってきたんだ。受け取れ」
トヨミが包みを手渡してくる。
「これは?」
「うん、
「そんな……このためにここに?」
「あぁ、ホキにと思って用意したが、暫く忙しそうなんだ。傷む前にと思ってね」
「嬉しい……」
渡された包みを横に置いてトヨミに抱き着くホキ、
「うん、今度の嬉しいは判り易い」
トヨミも抱き返す。
「さて、都に戻らなくてはな。その前に、もう一度……いいかな?」
覗き込んでくるトヨミに微笑んで、ホキがそっと目を閉じた――
トヨミが去ってしばらくはぼおっとしていたホキだが、包みを思い出して開けてみる。
(餅は粥に入れよう……これが
包みの中には二つの包み、他にはない。餅でなければこれが
餅と蘇を包みなおし、ホキは
夜着を被ってホキがウフフと笑った。今夜はぐっすり眠れそうだ――
夜の闇に紛れて地上に降り立った黒い馬、乗っているのは皇子トヨミ、澄まし顔でゆっくり馬を歩かせる。今の今まで天を疾走していたなどと、誰も思いはしないだろう。
ここは帝がおわす都カミツ、トヨミが向かっているのはその一画タチバナの宮、トヨミが住む宮だ――初夏になると咲き誇るタチバナの白い花、それが秋には実となり庭一面を黄色く染めて輝かせる。そして常緑のタチバナは季節を問わず芳香を漂よわせた……そんな庭を持つ宮を人々は『タチバナ宮』と呼んでいた。
己の屋敷に忍び込むように入ると
「こんな夜中に何用だ?」
その場で馬を下りたトヨミが問う。すると相手が嘲笑した。
「
ふん、とトヨミが鼻を鳴らした。
「ここに居ると言う事は、一度は部屋に入り
「ほぉ、遠駆けはどちらまで?」
「さあなぁ。気の向くままに馬を走らせた。あっちに行ったりこっちに行ったりで、どこに行ったかなどよく覚えていないな」
「ふふん」
鼻を鳴らすのは相手の番だ。
「恐ろしいほどの記憶力をお持ちの皇子さまが覚えていない? それはまた珍しいことがあるものよ」
「
「まずは馬を仕舞いなさい。それからお話いたしましょう」
トヨミはクロコマの
厩から戻ったトヨミが
「それで? 何かあったのか?」
面倒そうに問うが、ソガシはすぐには答えない。じっとトヨミの顔を見ている。が、そうしてもいられないと思ったのだろう、溜息をついてから言った。
「ヤマセが高熱を出し――」
「なんだって!?」
顔色を変えたトヨミがソガシの襟を掴んで揺さぶった。
「それで!?
「落ち着きなさい」
自分の襟を掴むトヨミの手を引きはがしたソガシ、トヨミを冷たい目で見つめる。
「
ソガシの言葉にほっと息を吐くトヨミ、
「そうか、うん、そうか……ソガシ、面倒をかけたな」
居た堪れないのか、それとも何か迷っているのか、俯いて目を左右に泳がせている。
「いいえ、我が娘の産んだ子、
そう言いながらソガシが思う……さすがに己が子は可愛いか。だが、それならばなぜ顔を見にも来ない? 今もこんな夜中にどこに行っていたか知らないが、そんな時間があるのなら
トヨミは己の父の前の帝の
暫くはトヨミもトウジのもとに足しげく通ったが、だんだんと遠のいていった。月に一度来ればいいほう、忘れているのではないかと勘繰りたくなるほどだ。他に通う相手でもできたのかと探ってみるが、そんな形跡もない。
どうしたものかとソガシが考えあぐねているうちにトウジが子を宿しているのが判明する。報せた時のトヨミの喜びよう、これで巧く行くだろうと肩の荷が下りた気がした。それなのに……
トヨミがヤマセの顔を頻繁に見にきたのも暫くのこと、すぐに足が遠のき、それでも忘れていないぞとばかり定期的に贈物を寄こす。だがそれも人づて、持参することはない。うかうかしているうちにトヨミの訪れはヤマセが生まれるまでと同じに戻ってしまった。でも、ヤマセとは誰だ、と言われなかっただけでも良しとするか。
「もし再び似たようなことがあったら、その時は真っ先に
拗ねたような顔で言うトヨミを
「それほどご心配なら、少しは
ソガシが誘えば、
「うん。そうは思っているのだが……今宵はやめておく。クルメが待っているしな。そうだな、明日にでも顔を見に行く」
トヨミはソガシを見ずに答えた――
落ち込むトヨミをクルメが笑う。タチバナ宮、トヨミの居室だ。
「やっぱりソガシに掴まったか――まぁそう落ち込むな。いくら
「そりゃそうだが……なんでもっと巧く追い返してくれなかったかな?」
「咄嗟にいい嘘が思いつかなんだ。どうせ
クルメにはホキのことを話したトヨミだ。そしてクルメはトヨミの同母弟、同じ男が父親でも母が違えば兄弟と言っても遠い存在だ。が、母親が同じなら幼い頃より共に暮らした仲、トヨミとクルメも仲がいい。
子はたいてい母親が育てた。入り婿もしくは妻を己の屋敷に住まわせない限り、父親が子とともに暮らすことはない。トヨミの妃トウジと子ヤマセもトウジの父ソガシの屋敷で暮らしている。
「帝の身辺が何やらきな臭いと聞いたら、うかうか都を離れられない――で、クルメ、さっきの話は本当なのか?」
「あぁ、
その場とは、献上されたイノシシの目に帝が己の
「その憎い相手がソガシと決まったわけではなかろう?」
「それが
「ふむ……それなら、その出来事をアヤマがソガシに告げた?」
「告げ口したくもなるさ。せっかくの贈物を目の前で台無しにされたんだぞ。顔を潰されたんだ」
「それで、その話を聞いたソガシの反応は?」
「そこまで
「まぁ、そうかもしれないが」
「で、これはヌカタベから聞いたんだが、ハツベは兵を集め過ぎているとソガシが言ってたらしいぞ」
ハツベとは今の帝の名だ。ヌカタベはトヨミとクルメの母の異母姉、二人の父の前の帝の妃でもある。ハツベとは同母の
「ヌカタベはハツベとソガシ、どちらにつくかな?」
トヨミが呟くと
「
クルメが答えた。
「やはりそう思うか? ハツベについたところで益はないし、ソガシを敵に回すのは得策じゃない――しかし、少々ソガシの勢力は強大になり過ぎてないか?」
「まさか、
クルメが己の早とちりを笑う。
「で、カタブの娘はどうだった? 田舎娘だが気立てが優しいとかって、えらい入れ込みようだが?」
「ん? まぁな」
「
「煩いなぁ」
トヨミが照れて笑う。
「ソガシに知られないうちに手を打ちたいんだが、いろいろ有って身動き取れない。でも、必ず妃に迎えたい」
「そんなにいい女か?」
興味津々のクルメにトヨミが苦笑する。
「蘇も餅も、その娘の
「八人目? そいつは凄いな。で、そのうち何人育った?」
「三人は既に成人してる。下に続く子らも健やかだと聞いている――カタブの娘の一番の魅力は身体の丈夫さだ。健やかに育つ子を何人も生んでくれる。まぁ、多分、だけどね」
「
クルメがニヤッとトヨミを見た。どうやら同母弟はお見通しらしい――
その頃、タチバナ宮にほど近いソガシの屋敷では、ソガシが娘のトウジに責められていた。
「なぜ、なんとしてでもお連れしなかったのですか?」
トヨミのことだ。
「トヨミは明日、顔を見せると言った。それでいいじゃないか」
「己の子が高熱を出し、命を落としたかもしれないのになんと悠長な」
「ヤマセは熱も下がり元気になった。トヨミにもそう言った。その報告に行ったのだからな――まさか、ヤマセの熱が下がらなかったほうが良かったなどとは思っていまい?」
「当り前です! どうして熱が下がる前にトヨミに報せてくれなかったの?」
「トヨミにも、熱が出たなら
そうか、結局のところ
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