12

 やっと会いに来てくれたのに、すぐに帰ってしまうのね……そう感じたがすぐに思い直したホキだ。それでも会いに来てくれた。それほど会いたいと思ってくれた。トヨミは帰りたくて帰るわけじゃない。皇子みこの仕事がどんなものなのか想像もつかないけれど、きっとすごく忙しいんだ。それでもに会いたくて、こうしてわざわざ都から、こんな田舎に来てくれた。


「嬉しい……」

嬉しくって涙が出そうだ。するとトヨミが驚く。

がすぐに帰るのが、そんなに嬉しいのか?」


「えっ? そんなわけないでしょ」

「すぐ帰ると言ったら嬉しいって言ったじゃないか。涙ぐむほど喜んで」

「だから違うってば。忙しいのにこんな遠くまで会いに来てくれたのが嬉しいって言ったの――都からカシワデまでって遠いのよね?」


「そっか、うん。そうだよな。ホキは自分のことより相手のことを考える。すぐに帰るのを喜ぶなど、わざわざ来たの気持ちも立場も考えないようなことを言うはずがない――普通に歩けば一刻半くらい。馬だと半刻と少しだ」

「そんなに? まさか歩いてきた?」


「まさか! クロコマに連れてきて貰った。郷のはずれで待たせてる。クロコマならあっという間だ。そうじゃなきゃ来れないよ。実は、かわやに行くと言って出てきた。厠の並びにうまやがあるからちょうどよかった」

「厠に?」

「あぁ、糞に時間がかかっているんだなとでも思って、今頃イライラして待ってるだろうな」


「そこまでして来てくれたのね」

またもホキが涙ぐむ。いったい誰が待っているんだろうとも思ったが、それは訊かないほうがいいと思った。


「ほら、泣くな――それより、これをホキに与えようと思ってきたんだ。受け取れ」

トヨミが包みを手渡してくる。


「これは?」

「うん、と餅だ。お産は体力を使う。母者ははじゃに食べさせてやれ。ホキも食うんだぞ。それに、妹弟たちにも分けてやれ。そう思ってたくさん持ってきた」

「そんな……このためにここに?」

「あぁ、ホキにと思って用意したが、暫く忙しそうなんだ。傷む前にと思ってね」

「嬉しい……」


 渡された包みを横に置いてトヨミに抱き着くホキ、

「うん、今度の嬉しいは判り易い」

トヨミも抱き返す。

「さて、都に戻らなくてはな。その前に、もう一度……いいかな?」

覗き込んでくるトヨミに微笑んで、ホキがそっと目を閉じた――


 トヨミが去ってしばらくはとしていたホキだが、包みを思い出して開けてみる。

(餅は粥に入れよう……これが?)

包みの中には二つの包み、他にはない。餅でなければこれがなのだろう。象牙のような色、触れると柔らかく弾力がある。トヨミに食べ方を聞いておけばよかった。このまま食べるのかしら?


 餅と蘇を包みなおし、ホキはとこに横になった。戸はトヨミが去ってすぐにしっかりと閉めた。蘇の食べ方は明日、ははさまに訊けば教えてくれる。きっとははさまは喜ぶだろう。ははさまが食べたいと言った話を、トヨミは覚えていたんだわ。だから手に入れてくれた。ははさまが喜べばが喜ぶと思った。トヨミに思われてはなんて幸せ者なのだろう……喜びが、ホキをすっぽりと包み込む。


 夜着を被ってホキがウフフと笑った。今夜はぐっすり眠れそうだ――


 夜の闇に紛れて地上に降り立った黒い馬、乗っているのは皇子トヨミ、澄まし顔でゆっくり馬を歩かせる。今の今まで天を疾走していたなどと、誰も思いはしないだろう。


 ここは帝がおわす都カミツ、トヨミが向かっているのはその一画タチバナの宮、トヨミが住む宮だ――初夏になると咲き誇るタチバナの白い花、それが秋には実となり庭一面を黄色く染めて輝かせる。そして常緑のタチバナは季節を問わず芳香を漂よわせた……そんな庭を持つ宮を人々は『タチバナ宮』と呼んでいた。


 己の屋敷に忍び込むように入るとうまやに回る。が、厩の手前で馬を停めた。目指す先にたたずむ誰か。あれは……

「こんな夜中に何用だ?」

その場で馬を下りたトヨミが問う。すると相手が嘲笑した。

皇子みここそこんな夜中に何処いずこへお出かけか?」

ふん、とトヨミが鼻を鳴らした。


「ここに居ると言う事は、一度は部屋に入りクルメトヨミの弟に会ったのだろう? で、かわやに行ったと言われ、ここに来た――用を足したらすぐそこは厩だ。馬を見たら急に遠駆けに行きたくなった。それだけだ」

「ほぉ、遠駆けはどちらまで?」

「さあなぁ。気の向くままに馬を走らせた。あっちに行ったりこっちに行ったりで、どこに行ったかなどよく覚えていないな」

「ふふん」

鼻を鳴らすのは相手の番だ。


「恐ろしいほどの記憶力をお持ちの皇子さまが覚えていない? それはまた珍しいことがあるものよ」

とて意識しなければ覚えていられるものではない――それでソガシ、いったいなんの用だ? わざわざ厭味いやみを言いにが宮に出張ってきたわけではあるまい?」

「まずは馬を仕舞いなさい。それからお話いたしましょう」

トヨミはクロコマの手綱たずないてうまやに向かっていた。まずはそちらを片付けろと言ったのだ。元よりそのつもり、トヨミは何も言わず厩に入っていった。


 厩から戻ったトヨミが

「それで? 何かあったのか?」

面倒そうに問うが、ソガシはすぐには答えない。じっとトヨミの顔を見ている。が、そうしてもいられないと思ったのだろう、溜息をついてから言った。


「ヤマセが高熱を出し――」

「なんだって!?」

顔色を変えたトヨミがソガシの襟を掴んで揺さぶった。


「それで!? 薬師くすしは呼んだのか? 祈祷はしたのか? ソガシ、其方そなたがついていながら――」

「落ち着きなさい」

自分の襟を掴むトヨミの手を引きはがしたソガシ、トヨミを冷たい目で見つめる。


薬師くすしも呼んだし祈祷もした。熱も下がり容体は落ち着いている。タチバナ宮に来る前に顔を見てきたが、乳母に抱かれて笑っておったわ」

ソガシの言葉にほっと息を吐くトヨミ、

「そうか、うん、そうか……ソガシ、面倒をかけたな」

居た堪れないのか、それとも何か迷っているのか、俯いて目を左右に泳がせている。


「いいえ、我が娘の産んだ子、が世話を焼くのは当たり前」

そう言いながらソガシが思う……さすがに己が子は可愛いか。だが、それならばなぜ顔を見にも来ない? 今もこんな夜中にどこに行っていたか知らないが、そんな時間があるのならが屋敷に赴き、自分の子と妃の顔を見たいとは思わないのか?――ヤマセはソガシの娘トウジが産んだトヨミの初めての子だ。トウジは正式に認められたトヨミの妃だった。


 トヨミは己の父の前の帝の皇女ひめみこを最初の妃としたが、この妃は子を生すことなくこの世を去った。ソガシは傷心のトヨミを慰めるため、トウジをトヨミに勧め、さして考えることもなくトヨミはソガシに従いトウジを妃とした。


 暫くはトヨミもトウジのもとに足しげく通ったが、だんだんと遠のいていった。月に一度来ればいいほう、忘れているのではないかと勘繰りたくなるほどだ。他に通う相手でもできたのかと探ってみるが、そんな形跡もない。


 なかたがいでもしたのかとトウジに訊けば、そんなことはないと答える。そしてトヨミを慕っていると泣く。なぜトヨミは来てくれないのでしょう? 父親てておやさまのお力で、トヨミを連れてきてはくれまいかと縋る。


 どうしたものかとソガシが考えあぐねているうちにトウジが子を宿しているのが判明する。報せた時のトヨミの喜びよう、これで巧く行くだろうと肩の荷が下りた気がした。それなのに……


 トヨミがヤマセの顔を頻繁に見にきたのも暫くのこと、すぐに足が遠のき、それでも忘れていないぞとばかり定期的に贈物を寄こす。だがそれも人づて、持参することはない。うかうかしているうちにトヨミの訪れはヤマセが生まれるまでと同じに戻ってしまった。でも、ヤマセとは誰だ、と言われなかっただけでも良しとするか。


「もし再び似たようなことがあったら、その時は真っ先にを呼べ。まぁ、薬師くすしの次でもいい」

拗ねたような顔で言うトヨミを

「それほどご心配なら、少しはが屋敷にお越しください――なんだったら、これから一緒に参りましょう」

ソガシが誘えば、

「うん。そうは思っているのだが……今宵はやめておく。クルメが待っているしな。そうだな、明日にでも顔を見に行く」

トヨミはソガシを見ずに答えた――


 落ち込むトヨミをクルメが笑う。タチバナ宮、トヨミの居室だ。

「やっぱりソガシに掴まったか――まぁそう落ち込むな。いくら兄者あにじゃとは言え、別の屋敷に暮らす子のやまいが判るはずもない」


「そりゃそうだが……なんでもっと巧く追い返してくれなかったかな?」

「咄嗟にいい嘘が思いつかなんだ。どうせ兄者あにじゃかわやにいるはずがないと思ったしな。こないだ話していた女に会いに行って、このまま今宵は帰らないかと思っていたぞ」


 クルメにはホキのことを話したトヨミだ。そしてクルメはトヨミの同母弟、同じ男が父親でも母が違えば兄弟と言っても遠い存在だ。が、母親が同じなら幼い頃より共に暮らした仲、トヨミとクルメも仲がいい。


 子はたいてい母親が育てた。入り婿もしくは妻を己の屋敷に住まわせない限り、父親が子とともに暮らすことはない。トヨミの妃トウジと子ヤマセもトウジの父ソガシの屋敷で暮らしている。


「帝の身辺が何やらきな臭いと聞いたら、うかうか都を離れられない――で、クルメ、さっきの話は本当なのか?」

「あぁ、もたまたまその場にいたからな」

その場とは、献上されたイノシシの目に帝が己のかんざしを突き刺した場だ。そして『いつか憎い相手の首を切り落としたい』と憎しみの籠った声で言ったらしい。


「そのがソガシと決まったわけではなかろう?」

「それが兄者あにじゃ、そのイノシシを献上したのはアヤマ、アヤマはソガシと親密だ。知っているだろう?」

「ふむ……それなら、その出来事をアヤマがソガシに告げた?」

「告げ口したくもなるさ。せっかくの贈物を目の前で台無しにされたんだぞ。顔を潰されたんだ」


「それで、その話を聞いたソガシの反応は?」

「そこまでに判るはずもない――兄者あにじゃが訊けばソガシも話すんじゃないのか?」

「まぁ、そうかもしれないが」


「で、これはヌカタベから聞いたんだが、ハツベは兵を集め過ぎているとソガシが言ってたらしいぞ」

ハツベとは今の帝の名だ。ヌカタベはトヨミとクルメの母の異母姉、二人の父の前の帝の妃でもある。ハツベとは同母の皇女ひめみこだが、その母親はソガシとは兄妹だ。


「ヌカタベはハツベとソガシ、どちらにつくかな?」

トヨミが呟くと

はソガシと見ている。ハツベはソガシとヌカタベが推挙したから帝の地位につけたんだ。それを忘れてソガシに逆らうなんて、清廉潔白なヌカタベが許すとは思えない」

クルメが答えた。


「やはりそう思うか? ハツベについたところで益はないし、ソガシを敵に回すのは得策じゃない――しかし、少々ソガシの勢力は強大になり過ぎてないか?」

「まさか、兄者あにじゃ、ソガシに逆らおうと思っている? ソガシの娘を妃にしておいて、それはないか」

クルメが己の早とちりを笑う。


「で、カタブの娘はどうだった? 田舎娘だが気立てが優しいとかって、えらい入れ込みようだが?」

「ん? まぁな」

だってその娘のために欲しがったんだろう? 蘇と餅を持ってかわやに行くヤツは居ないからな、すぐに判った」

「煩いなぁ」

トヨミが照れて笑う。


「ソガシに知られないうちに手を打ちたいんだが、いろいろ有って身動き取れない。でも、必ず妃に迎えたい」

「そんなにいい女か?」

興味津々のクルメにトヨミが苦笑する。


「蘇も餅も、その娘の母者ははじゃに食わせたかった。数日前に八人目の子を産んだんだ」

「八人目? そいつは凄いな。で、そのうち何人育った?」

「三人は既に成人してる。下に続く子らも健やかだと聞いている――カタブの娘の一番の魅力は身体の丈夫さだ。健やかに育つ子を何人も生んでくれる。まぁ、多分、だけどね」


兄者あにじゃ、それはあとからついてきた利点だろう? たまたま心惹かれた娘がそんなたちだったってだけだ」

クルメがニヤッとトヨミを見た。どうやら同母弟はお見通しらしい――


 その頃、タチバナ宮にほど近いソガシの屋敷では、ソガシが娘のトウジに責められていた。

「なぜ、なんとしてでもお連れしなかったのですか?」

トヨミのことだ。


「トヨミは明日、顔を見せると言った。それでいいじゃないか」

「己の子が高熱を出し、命を落としたかもしれないのになんと悠長な」

「ヤマセは熱も下がり元気になった。トヨミにもそう言った。その報告に行ったのだからな――まさか、ヤマセの熱が下がらなかったほうが良かったなどとは思っていまい?」


「当り前です! どうして熱が下がる前にトヨミに報せてくれなかったの?」

「トヨミにも、熱が出たなら薬師くすしの次に呼べと言われた――それどころじゃなかったじゃないか。其方そなたは泣きわめくし、ヤマセはぐったりしている。そっちに付きっ切りで、トヨミなど忘れていた」

そうか、結局のところはトヨミのこともどうでもいいんだ。ふとそう思うソガシだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る