11
末の弟が生まれたその日、トヨミがホキを訪れることはなかった。翌日も来ない。夜中に戸を叩く音がしないかと眠りの浅い日が続くホキ、そんなホキを悩ませるのはなかなか来ないトヨミだけではなかった。
彼らはみな一様に、祝を延べたあとはホキの話を聞きたがる。あるいは相手の貴人の事を聞きたがる。カタブは妻と
彼らが一番に知りたがったのは相手の貴人の素性だ。言っていいものか迷い、ホキがカタブの顔色を窺う。すると、こちらのことなど気に留めていやしないだろうと思っていたカタブがホキに目配せをする。怖い顔だ。これは迂闊に明かしてはいけないと、ホキは言葉を
郷の者の中にはホキではなく、貴人に気に入られたのはヒリだと勘違いする者もいて、ホキだと知ると妙な顔をしてホキを見た。そして取ってつけたようにホキの容貌を褒めてから居た堪れないらしく、早々に帰っていった。
噂を聞いて誰より気を揉んだのはカシワデの郷の若者クガネだっただろう。ホキの話を知ると他のことは投げ打って
来たついでと言うわけではないのだろうが、この際だからとカタブに詰め寄る。ヒリと契る許しをくれと言ったのだ。
今はそれどころじゃないと無視を決め込むカタブ、だがクガネは引き下がらない。
『今すぐでなくても、必ず許すとせめて約束を』
ヒリも一緒になって食い下がる。見かねた妻が
『婿入も約束するなら許してもいいのでは?』
取りなすが黙っている。
『クガネのどこが気に入らない!?』
ヒリの怒鳴り声に驚いて泣き出した
カタブの妻に促されて
『約束などできん』
『
『そうよ、どこが不足なのよ?』
若者は先だってのテイビの乱でカタブに従い、カタブの軍勢の中では目を引く働きをした。同世代では一番と言っていい。身体も大きく丈夫、もともと次の
『ふむ……』
カタブが座り直して難しい顔をする。
『実はな、アスハナの地に一族を引き連れて移ろうかと思っている』
『アスハナ?』
一番先に反応したのはカタブの妻だ。が、カタブはそれを無視する。
『都の繁栄は話に聞き及んでいるだろう? 人々が溢れかえり、少々手狭と感じるほどだ。人が増えれば食い物も足りなくなってくる。そうなる前にどこかを開墾し、田畑を増やして増収を考えなくてはならない』
『それはカタブの仕事ではないのでは? ましてカシワデの郷と関わりのないこと』
『話は最後まで聞け――そこで帝は皇子のお一人に開拓を命じられた。めぼしい場所を定め、開墾し、街を作れ……都に集まった人々が、ここなら移り住んでも良いと思えるような街にしろ』
カタブが言葉を切ってクガネを睨む。
『
『移住の件は判ったが、それがどうヒリと
クガネの問いにカタブがフッと笑う。
『関係などない。が、それが決まるまで他のことは決められない――まだヒリは若い。クガネ、
『契るのは待てる。だけど約束がなければ安心できない』
『では、この話はなかったことにする』
『
ヒリが悲鳴を上げ、クガネが抗議する。
『そんな、なんでそこまで?』
それにカタブが涼しい顔で答えた。
『
これにはクガネがぐっと息を詰まらせる。ヒリを手に入れたければ、ここは退くしかない。
『承知いたしました――アスハナに移ることになったなら、他の者に負けぬ働きをお見せする。いいえ、アスハナに限らず、これから先もますます身を挺して働きましょう。ヒリに
クガネが去ってから妻がカタブに言った。
『いい加減、勿体つけるのはやめたらどうです? どうせヒリはクガネにと考えているのでしょう?』
するとカタブが煩そうに答えた。
『クガネと決めてはいない。他にもっといい相手がいるかもしれない』
『カシワデの郷ではクガネが一番だって、カタブも言っていたじゃないの』
『カシワデの郷ではな』
『
『……なにもヒリの相手が次の
『えっ?』
『
立ち上がるカタブ、それ以上は訊くなと言う事か? そのまま部屋を出て行ってしまった。一人残された妻はあれこれと考える。
カタブがアスハナへの移住を言い出した時に浮かんだ疑念……もしやその皇子がホキの相手なのでは? だけどまさか、と打ち消した。貴人と言ってもソガシの縁者とか、せいぜい高い役職に就いた貴族程度だろう。皇子をこの屋敷に招くなど畏れ多すぎる。まして娘が寵愛を受けるなんて考えられない。
帝に開拓の勅を受けた皇子は誰なのか? 皇子と言っても様々だ。さして力のない皇子だっている。
思い違いなのだろう。ホキの相手はきっとソガシの縁者……気に入られればホキにも
それでも妻は疑念を拭いきれずにいた。ホキの相手は皇子、そしてカタブは……ヒリさえも皇子に売り込もうとしているのではないか?――
クガネが屋敷に来ていた時、ホキはお産の手伝いをしてくれた女衆一人一人のもとに、出産祝いとともに礼の品を届けに行っていた。屋敷に戻るとすぐにヒリが泣きついて来て、カタブとクガネの遣り取りを知った。
「ねぇ、
涙ながらに訴えるヒリに、どうしたものかと心を痛める。己はどうやら思う相手と結ばれそうだ。妹にもそうなって欲しい……しかし有効な手段を思いつけない。
「
だったらクガネを信じるしかない。気休めを言うしかなかった。
「何かの折に、早くクガネに決めたらどうかと
そりゃそうかも知れないけれど……頼りの姉にそう言われれば、いくら不満があってもヒリとて黙るしかない。
「だったら
「アスハナ?」
「そうなのよ、なんでも皇子の一人が帝の勅を受けてどこか開拓しなくちゃならないんだって。都に次ぐ街を造るらしいわ。で、
カシワデから離れたくないと訴えるヒリに、ホキが困惑する。
きっとトヨミはアスハナを開拓すると決めるだろう。どこに決定権があり、誰の同意が必要なのか、そんなことはホキには判らない。けれどトヨミの口ぶりから、トヨミの気持ち次第で決まるのだと感じていた。だから多分アスハナに決まる。
「アスハナは
「あら、カシワデよりもっと田舎だって。いつか
「でも開かれて、大勢が集まる街になるのでしょう? そんな街を造るために
「
そうか、アスハナに行くということはカシワデを出なくちゃならない。そこまで考えていなかった。でも、アスハナに行けばトヨミとの暮らしが待っている。だからアスハナに行きたい。だけど、カシワデを離れたくない思いもある。
「そりゃあ、カシワデを離れるのは寂しいわ」
アスハナにも芹が自生しているだろうか? フキやワラビは見付けられる? そうだ、庭のカタカゴは? 持って行けるようなものではない。
「でしょう? ね、無理にアスハナに移らなくたっていいじゃない。
「それはそうかもしれないけれど――まぁ、そんなに悩むことはないわ。アスハナに決まったらって話なんでしょ?」
「そっか。それじゃアスハナに決まらないようお祈りでもしようかな」
それは困ると言いたいが、理由を口にできないホキだ。開拓を命じられた皇子があの貴人だとヒリに告げるのは
開拓の地がアスハナ以外だったらカタブはどうするのだろう? その別の地に移住するだろうか? 移住して欲しいわけではないが、そのほうがトヨミの助けになると思った。それにトヨミとともに暮らすとしても、やはり近くに血縁がいるのと、遠くに離れているのでは心強さが変わってくる。カシワデの郷よりも、むしろ父母から離れがたい。
「ところで
ホキの心も知らず、ヒリが言った。ケロッとしたものだ。切り替えの早さはヒリの長所、ホキもしばしば助けられてきた。
「そうね、
「
「そうねぇ。何がいいかしらね? とにかく
はいはい、ヒリが立ち上がる。今日は面倒臭そうじゃなかった――
ほかの男が来るとは思えなかったがこのまま開けたらトヨミに怒られそうだ。それに万が一別の誰かだったら?
「戸を叩いているのは誰ぞ?」
「
間違いない、トヨミだ――勢いよく戸を開けて屈みこんだホキ、すぐ足下に居たトヨミに抱き着いていく。そうなるとは思っていなかったのだろう、驚きながらもホキを抱きとめるトヨミ、
「そんなに勢いつけると……」
後ろに倒れてしまうぞ、そう言おうとしていたトヨミの声が途絶える。ホキの唇がトヨミの口を塞いでいた。
互いの唇を味わった後、身体を離したホキの頬を撫でてトヨミが微笑む。
「ホキからしてくるとは思ってなかった。嬉しいぞ」
ホキが
「こんなことするつもりじゃなかったのに、自分でも判らないわ」
「どうだ、身体が熱くなったか?」
「身体が熱くなる? これくらいじゃ汗を掻いたりしないわよ?」
やはり意味は通じていない。トヨミが苦笑する。
「お腹は空いてない? 何か用意したほうがいいのかしら?」
「いや、要らない。すぐに都に帰らなきゃならないんだ」
トヨミが寂しげに言った。
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